第3話 真夜中のパンケーキ

 育児ノイローゼとか、産後クライシスとか。

よく聞くけれど。

虹子にじこはため息をついた。


猫の飼育経験のある友達にレクチャーされたのだが、二時間置きに、ほんの5mlずつスポイトでミルクをあげなければならないのだ。

時間や量は変化して行くけれど、授乳は大体1ヶ月は続くらしい。

生後二十日程は、排泄も手伝ってあげなければならない。

体温の調節も出来ないので、湯たんぽを入れているが、動くので隅で冷えている時もあり慌てて移動させる。


猫でこれなのだから、人間の赤ちゃんではどれだけ大変なことか。

店舗の二階が住居になっているから通勤時間がゼロなのは助かるが、仕込みの時間どころか営業時間にも影響が出ていた。

そして、二時間ごとに授乳という事は、まとめて眠れないという事。寝不足で仕方ない。


「1リットルくらい飲んで、半日くらい食べなくても済むようになればいいのに・・・」


土台無理な事を考え始めるのも、メンタルがやられはじめているからかもしれない。

ストレスから暴食に走って、夜中だというのに特別甘いケーキやらお汁粉を食べるようになってしまって、それが楽しみになりつつある。


「でも、これなきゃ頑張れないしねぇ。しょうがないよねぇ」


都合の良い言い訳をする。

かごから這い出そうとする仔猫に毛布をかけ直し、リビングのテーブルに突っ伏した。


「疲れたなあっと・・・」


階下の店のキッチンに向かい、大きめの花の描いてある碗に卵を割り入れて、牛乳とヨーグルト、赤砂糖、小麦粉とベーキングパウダー、バニラビーンズを漬け込んでいたラム酒を少し。

それと隠し味のマヨネーズ少し。

ゆっくりと混ぜて、フライパンを温めて澄ましバターを流した。


ホットケーキ。

しかも絵本みたいに三段のやつ。

シンプルなバターと蜂蜜か、それとも生クリームもりもりにしちゃおうか。

アイスクリームもいいかもしれない。

しっかり甘い小豆のあんことさつまいものあんもいいよな。

りんごをシナモン入れて煮たものもあるんだった。

ああ、どうしよう。

こんな真夜中にホットケーキだけでも甘い罪悪感なのに・・・。

いや・・・全部盛りっていうのもアリなんじゃないだろうか・・・。


三十分後。

虹子にじこは、おんどりと花が描かれたお気に入りの大皿を持ってリビングに戻って来ていた。

仔猫達はかごの中で起きていて、もこもこと毛布の中で動いていた。


「・・・アンタ達の方が、マフィンとか、おまんじゅうみたいよね」


思いつくまま全てをトッピングしたモンスターのようなパンケーキにかぶりついたところで、突然奥のドアが開いた。

驚いて一瞬息が止まったが、見知った顔だと分かると虹子にじこは憮然とした。


「・・・・この時間に、すごいもん食ってるな・・・・」


彼はそう言うとコート脱いで椅子にかけた。


「勝手に入って来ないでよ。どうやって入ったの?」


青磁せいじはポケットから鍵を取り出した。

小さな鈴のキーホルダーがついていた。

このビルのオーナーが使う物だ。


「・・・・それ、オーナー用ですけど」

「使っていいって言われました」


何で、と虹子にじこはまたむくれて、パンケーキを口に突っ込んだ。

口に甘さが広がり、じゅっと体にみて行くようだ。

こいつが来なければ、もっとこの幸せを噛み締められたのに。


「・・・まあまあ。ほら」


青磁せいじが四角い箱を手渡した。

見覚えのある寿司屋の折詰。

金色の組紐がかけられてあって、これは特上だ。

虹子にじこは思わず手を伸ばした。


「大将、穴子食いに来いって言ってた」

「・・・・いいなあ・・・。今度行くって言っといて」


機嫌を良くした虹子にじこがウキウキしながら包みを開けた。

その様子にほっとした様子で青磁せいじが微笑んだ。


「・・・ああ、これが拾ったって言う猫か。うーん。まだ山のものとも海のものともつなかないなあ」

「海のものではないでしょ。・・・お茶飲む?」


目の前に、温かいお茶と茶菓子まで出て来た。

突然の待遇改善。

青磁せいじは寿司の効果に驚く程だ。


「・・・姉さんが様子見てこいって言うもんだから。金魚くらいしか飼った事ないのに、猫の新生児なんて虹子にじこには大変だってさ」

「・・・柚雁ゆかりちゃんにいろいろ教えて貰ったの」


青磁せいじの姉であり、彼女はこのビルのオーナー。

今は夫の家業のレストラン経営の為に香港にいる。

初の猫飼育は分からないことばかりで、彼女にあれこれと聞いていた。

彼女も毎日忙しかろうに。


「・・・ジュジュが遊んでばっかりだから柚雁ゆかりちゃんが大変なのよ・・・」


そして、その夫のジュジュと言うのは、虹子にじこの親戚に当たる。

そもそもレストランはジュジュが自分の母親から譲り受けたもの。

それまでは、妻の住む日本で、のんびりヒモのような生活をしていたのだが、そうも行かなくなって帰国したのだ。


彼の両親はカナダに移住してしまったから、その経営は一人息子であるジュジュに任されたのだけれど、才能もやる気もとんとなかった彼は妻に泣きついたのだ。

そもそもジュジュは優秀で数カ国語を話し経済にも明るい。

その知識とセンスを生かして株では相当儲けているのだが、実際の経営となると如何いかんせん覚束おぼつかなかった。


それで、薬剤師だった妻が仕方なく夫のもとへと向かい経営に関わることになり、それが間も無くメキメキと頭角を現した。

今では、レストランはすっかり柚雁ゆかりが回しているのだ。


「まあ、生き生きしてるよ。あれはあれでいいんだろ」


当初は、気が優しくて頼りなさそうな年下の義兄と、気が強くて暴君タイプの姉の結婚はどうなる事やらと思ったが、案外うまくやっているようだ。


青磁せいじにはわからないが、あれも一つの夫婦の理想型なのかもしれない。

突然、籠の中の猫達が落ち着かなくなって鳴き始めたのに、青磁せいじは慌てた。


「・・・あ、ミルクの時間だからかな」


時計を見ると、一時過ぎ。

驚く程正確な腹時計なのだ。


「すごいの。またぴったり。二時間経つと本当にお腹がすくみたい」


虹子にじこはミニキッチンに向かい、猫用のミルクを取り出す。


「・・・へぇ、最近のはいろいろ入ってるんだな」


猫ミルクの缶に書いてある成分を見て、青磁せいじが感心して言った。

猫に合わせて乳糖の成分を減らして、ビタミンやミネラルや乳酸菌が添加してある。


「そうなの。さすが柚雁ゆかりちゃんのおすすめのメーカー!おかげで時速ででっかくなってる感じ。昨日まではいなり寿司くらいだったのに、今朝はコロッケくらいになってたもの」


独特の表現に青磁せいじは笑った。


「いいよ。やるから、食ってな」


授乳の用意をし始めた虹子にじこから缶やお湯を受け取った。

手慣れた様子で仔猫に授乳をする青磁せいじを意外そうに眺めながら、ホットケーキをまた食べ始めた。

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