小さなカラダ、大きなチカラとなれ

横浜ひびき

未知に挑む探検家へ

博士課程(前期)。

世間では修士課程の方が聞き馴染みがあるはず。

毎年大学卒業者の約12%前後が大学院に進学し、修士課程における学術研究を通じて研究者としての教養と高度な専門的能力を養っていく。平たく言えば、研究者の養成だ。

片瀬美波も漏れなくその一人である。

大学3年生から今日に至るまで、味覚受容メカニズムについて研究を続けてきた。

そして修士2年の今年、美波の研究生活は集大成を迎えていた。

「終わらない....」

溜め息に混じり、現状を嘆く弱音が疲労感満載で吐き出される。

美波は研究室の一画で眉を寄せ、細めた目でパソコンを睨み続けていた。来月に控えるポスター発表の資料の進捗は、お世辞にも順風満帆とは言えなかった......。

「杏奈、ポスター発表の資料どれくらい出来上がった?」

「昨日、千葉先生に提出した」

「.......ホント?」

「ほんと」

互いに傷を舐め合いたいと期待して声をかけた杏奈は既にひと段落着けており、隣で修士論文の執筆に勤しんでいた。その論文もいずれ私が書き上げなきゃいけないもの。

美波の心は癒やされるどころか、深手を負うことになってしまった。

「でも美波の方がやってる内容は難しいんだから仕方なくない?それにまだ〆切まで時間はあるんだし、最悪徹夜すれば終わるでしょ」

「終わるかなぁ、これ......」

私は空虚な声で返事をした。

最悪の場合、徹夜。

それだけは何としても回避したい。

デスクに置いていたイヤホンを付け、私は渋々パソコンと睨み合うことにした。


「片瀬先輩、今、大丈夫ですか」

「ん?どうしたの?」

椅子をくるりと回転させ、イヤホンを外して返事をする。美波の声はいつもより明るく覇気のある声音だった。声をかけてきたのは同じ研究グループで大学4年生の山下千咲。体力と集中力が摩耗される資料作成に追われる中、後輩に話しかけてもらえたことは砂漠でオアシスを見つけた旅人のような感覚に感じられた。

「これ......卒論の緒言なんですけど、添削をお願いしてもいいですか?」

と千咲は曇り顔で申し訳なさそうに話しかけてきた。差し出されたクリアファイルには文字で埋め尽くされたプリントが何枚か入っている。

「いいよ。添削結果は来週でいい?」

「大丈夫です!ありがとうございます!」

二つ返事をもらえた千咲の顔はパアァと晴れていった。

「いえいえ。」

「先輩もポスター発表に修論で忙しいのにほんとありがとうございます」

「気にしないで。千咲ちゃんのテーマは私のテーマの引き継ぎだから。それにうちの研究グループにM1がいないんだから、私が見るのが筋だよ」

「そんなことないですって」

「そんなことあるよ」

千咲が私の理屈を理解できないわけがない。なのに、千咲はどこか不満げな顔をして引き下がろうとしなかった。“だったら、最初から頼むなよ”とついツッコミを入れたくなってしまうがそれは喉元で止めておいた。そんなこと、当の本人が一番よくわかっているだろうから。

「だって片瀬先輩、いまもポスター発表の資料を作ってるじゃないですか。それに先輩には修論があるんですよ。本当にお時間ありますか?」

耳に手を当て、ワーワーと叫びたい。簡単に血反吐が吐ける程、美波の急所を深く突き刺す一言だった。

「自分のことばかりやってると根詰まちゃっうし、ちょうどいい息抜きよ」

「言いたいことはわかりますけど...」

千咲は私のパソコンを覗き見ながら訝しげな声を出す。彼女の目には虫食いの資料が映り、余計不安になったに違いなかった。

「それはそうと先輩。お昼ご飯食べました?」

千咲の目線がパソコンからデスク奥に置かれたビニール袋に移っている。つられて私もビニール袋を見ると、そこには今朝買ったサンドイッチが透けて見えていた。

「まだ食べれてないよ」

壁掛けのデジタル時計をチラリと見れば、時刻は13時43分。

お昼時はとっくに過ぎている。

「やっぱ院生って大変なんですね」

「社会人よりかは楽だよ」

「そんなことないと思いますけどね」

「って…..あっ!.....ごめんなさいっ!私、このあと2時から実験の予定が入ってるので失礼します!お忙しいとは思いますが、添削よろしくお願いします!」

千咲は頭をペコリと下げて慌ただしく実験デスクへと向かっていった。

“院生は大変かぁ”

千咲の言葉が心の中で反芻された。

脳裏には、ついこの間偶然にも目撃した教授に激詰めされて涙目になった院生の姿がフラッシュバックした。そして私が置かれている現状と相まって、確かに院生は大変だと思ってしまった。

まあ研究者という職業は探検家なのだから、それが大変でないはずがない。

これは昔からの美波の自論だ。

研究とは未知に挑み、その真理を明らかにすること。誰も踏み入れたことのない未開の領域をその知恵と探究心で探検し、論文という地図を作り出す。

それが研究者の役目。

人類が創り上げた学術とは、無数の探検家により脈々と受け継がれた彼らの成果の集合体だ。しかし、科学が目覚ましく発展した21世紀でさえ、この世界の多くがまだ未知で溢れている。

故に、私たちはこの空白まみれの世界に地図を作り出し、次を歩む人たちへの道標を残していく。

未知の世界を探検するとは、時として予想もできない障壁を越えて行かなければならないということ。鬱蒼とした密林を抜けた先に突如として巨大な河川が立ちはだかるように。

それは研究においても変わらない。

研究を進めれば、突如として異なる領域の知識が必要となることだってある。

世界が複雑で険しくあるように、研究の世界も決して優しくはない。

自分の行先が朧げになり、研究の意味を見失い、今この瞬間にでも全てを投げ出したくなることもある。

それでも、今日までの日々は必ずいつかの糧になると信じ、研究を続けていく。

道も無ければ、地図もない。

そんな原生なる世界で、まだ知らぬ真理を探し求めることが楽しいと思ってしまったから。


不思議と精が湧き出ながら取り組んだ資料作成は山場を越え、一筋の光が差し込み始めていた。狭窄していた視界も思考も元の世界に戻り、パソコンの隅に小さく表示された現在時刻が目に入る。

時刻は16時37分。

窓から見えた切れるような青空は既に暖かいオレンジの陽光と混ざり合って優しい丸みを帯びていた。

完全にお昼を食べるタイミングを逃した.....。

今からお昼を食べたところで、そう遠くない内に今度は夕食が訪れる。幸いにもお腹の虫はまだ静かに寝ている様子だった。ならコーヒー休憩でも取って、少し頭を休めたい。手早くスマホをジーパンのポケットに入れ、自分のデスクを離れた。


美波は缶コーヒーを大切に包むように持ち、その温かさで暖を取っていた。薄手のアウターだけで外へ出たのは間違いだった。少しの外出であっても、この季節の寒さは身体を突き刺してくる。そのため、手の中でじんわりと伝わる熱の感覚がより一層心地よい。

体を縮こませ、寒さから逃げるためにそそくさとデスクに戻ってくると、さっきまでは無かった黄色の箱が置いてあった。

デカデカとした大きなロゴに、英語の羅列で埋め尽くされたパッケージデザイン、そしてアイコニックな独特の黄色。

正体がカロリーメイトだとすぐにわかった。

椅子に腰を下ろして、差出人を確認しようとすると......

「ポスター発表と修論、頑張ってください!応援しています!千咲」

激励の言葉と末尾には力こぶの可愛いイラストが黒色の油性ペンで書かれていた。

私も受験シーズンの時に先輩や友達に似たような応援メッセージをみんなで書いて渡していた。

ただ、自分が貰う機会は久しくなかった。

だからこそ、突然のサプライズは少しむず痒く、懐かしく、喜びで心が潤った。

本当はコーヒーと一緒に今朝買ったサンドイッチを食べようと思っていたが、無意識の内に右手はその黄色い箱を既に開けていた。

正直、サンドイッチに比べればカロリーメイトの味は質素で控えめだ

けれど、その栄養価と託された想いは、時に美味しさにも勝る特別な味へと変わる。

美波は丁寧に箱を解体していき、慎重な手つきでパッケージを切り取る。一枚の厚紙に変わったパッケージを、今度は引き出しから取り出した猫柄のマスキングテープでデスク正面の壁の端っこに貼り付けた。

美波は自然と口角を上げ、柔和で満足気な笑みを浮かべている。

“さて、やりますか”

心の中で、私は私にエンジンをかける。

休憩を取るつもりだったが、そんな気分ではなくなった。

金色の包装を勢いよく開封し、その中身を頬張っていく。

やっぱ相変わらずの味。口の中がもしょもしょする。

右手でマウスカーソルを弄りながら、美波は食べることを止めない。

お行儀が悪いことぐらい、私も分かっている。

でも、今は心の奥で噴き上がるマグマのように熱い情熱を無駄にしたくない。

自然と身体が前のめりになり、目が大きく見開いていることが自分にも分かった。

カロリーメイトはきっと、研究に欠かせない携行食なのだろう。

そのエネルギーが、一歩を踏み出す力になる。

そのバランスが、どんな状況にも耐えられる元気となる。

その託された想いが、辛い時のお守りになる。

全てを栄養に変えて。


さぁ、探検に出かけよう。

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