『君が猫に似てたころ』
「このミニマリスト野郎が」
「――ん?」
水瀬が阿保面で訊き返してきたので、とりあえず手を伸ばして横面をぺちんと叩いてみる。「なんで?」と水瀬が素で驚いていたが、殴らなかっただけ感謝してほしい。
「本当になんで?」
「いや、ごめん、抑えられなくて」
「抑え……え?」
「水瀬の言っていることは正しいと思うし、私は水瀬にとても不誠実なことをしていたと思う。それは謝る。ただそれとは別の話で、私はあんたにすごく言いたいことがある」
私は椅子に浅く座り直すと、テーブルにさらに身を乗り出した。急な方向転換についてこられない様子の水瀬を、じっと睨む。
「そもそも、それ自体が澱みになったかどうかっていうのは、もっと慎重に考えるべきだと思うのよね。『あ……澱んだっぽいなぁ』みたいなノリでどんどん捨てていったら、知らないうちに大事なものも捨てていましたってことにもなりかねないわけよ」
「かなえ、なんの話だかさっぱり――」
「あんたにとって小説は、澱んでなんかいない」
テーブルに手をつきながら、私はそう言い切った。水瀬はその勢いに暫し呆気に取られていたが、数瞬で点と点を素早く繋ぎ合わせると、途端に長いため息をつきながら座席へと深く沈み込んだ。一瞬で心を閉ざしたのがわかる。
「少なくとも私にはそう見える」
「かなえ、あれは澱みだよ。それが判別できるのは僕だけだ」
「仮に澱んでいたとしても、水瀬には小説が必要だと思う」
「根拠がないことを言わないでくれ」
「あんなに悔しがってたやつが簡単に文章を諦められる?」
「悔しかったからこそ諦めるしかないこともあるだろ」
「しかも『ちゃんと就職するから安心して』ってさぁ、私の存在が諦める理由に使われた感がすごいし、実は私それずっと怒ってるからね?」
「それは……」
「あんなに泣きそうな声で、人をダシにして、そうまでしなきゃ捨てられないものをわざわざ捨てる必要ってあるの?」
「かなえにわかるかよ!」
水瀬が椅子を鳴らして立ち上がった。
その瞬間、
「議論ならば会議室をお貸ししますが」
いつのまにか私たちの横に立っていた司書様が、テーブルにぬっと影を落とした。
「あるいはただの言い合いならば、今すぐ出て行ってくださいね」
「……はい」
目だけが明らかに笑っていない司書様に注意され、ふたりしてすごすごと図書館を後にする。まさか最後の来館が、追い出される形で終わるとは思わなかった。入り口の重たいガラス扉を開きながら、後についてくる水瀬をじとりと睨む。
「水瀬が怒るからじゃん」
「俺がどうこう以前に、ふたりとも声がでかかったんだと思う」
図書館を出た私たちの足は、自然と大学の正門のほうに向いていた。なんとなくこのまま帰宅してしまうことはわかっていたが、その前に水瀬と決着をつけるべきことがある。
「水瀬、小説続けよう」
「それって本当に今話し合わないといけないこと?」
駅に向かう途中、遊歩道の七分咲きの桜の下で意を決してそう言うと、前を歩く水瀬がいかにもうんざりしたようにこちらを振り返った。
「言っちゃあなんだけどさ、僕は君がぐずぐずしていつまでも別れ話を切り出そうとしないから引導を渡すために今日来てるわけだよ。それがなんで、僕が小説辞めたことを逆に説教されないといけないわけ?」
いや本当にごもっとも以外の何物でもないんだけど。というか、ここまでぶっちゃけさせてるもの本当に申し訳ないんだけど。でも私は彼の「彼女」という立場でいるうちに、果たしておかなければいけないことがある。他人に戻ったらこんなことは言えなくなってしまう。
「……水瀬が私に『捨てるのが下手過ぎ』って怒るなら、私は水瀬に『捨て過ぎ』って怒る権利くらいあると思う」
「理屈が通ってない。君は本当に捨てるのが下手だけど、僕は捨てるべくして小説を捨てたんだ。怒るな」
「じゃあ、どうして小説を捨てたの?」
根本的な理由を問いただすと、水瀬は本当に――本当に嫌そうな顔で黙り込んだ。
もしかしたら、と思う。仮に私との将来を真剣に考えていたとして、そんな水瀬が自分自身、夢追い人であることを良しとしなかったなら、小説を諦めることにも理由がつく。しかしそんなむかつく理由はさっき私が「それずっと怒ってるからね?」と封じ込めてしまった。そもそも私と彼は次の瞬間にも別れる運命だ。
もしかしたら、水瀬が小説を諦める理由なんて、もうないんじゃないか?
「ずっと書いてきたんだよ、僕」
しかし、当然ながらそんな単純な話ではなかった。水瀬は私からふいと顔を背けると、頭上に咲き誇る桜を見上げてため息をついた。
「知ってるよ。言ってたから」
「でも、芽が出なかった。――社会人にもなって、芽が出ないことに夢を見続けるのは、時間の無駄だと思うんだ。かなえはそう思わないかもしれないけど」
「思わないよ」
予想された上で、予想通りの台詞を口にする。水瀬がちらりとこちらを見やった。求められているのは、理由だ。
「芽が出るとか出ないとか、私にはあまり関係ない。水瀬は自信をなくしてしまったかもしれないけど、私は水瀬が小説書いてるのが好き」
首を傾け、水瀬の顔を覗き込む。彼の瞳は珍しく不安定に揺れていたが、構わず続ける。
「水瀬は小説、嫌いになった?」
そんなはずはないと知りながら、私は彼の目を見て尋ねる。嘘をつくことができない水瀬は、再びじっと黙り込んだ。今度は悲しそうに――本当に悲しそうに黙り込んだ。
尻尾の短い風がふたりのあいだを通り抜けていく。冷たさを感じるかと思って一瞬身構えたが、それは存外温かく、本当に季節が移り替わったことを感じさせられた。
入学から数えて五度目の春。水瀬と過ごす最後の季節。
「怖いんだ」
風を視線で追いかけながら、水瀬がぽつりと言葉を落とした。
「芽が出ない小説に心を奪われ続けて、自分が成長して――変わっていけないことが怖いんだ」
それは私にとって意外な言葉だった。水瀬に怖いものがないとは思っていなかったが、彼がそういった事象に恐怖を感じるのだとは想像していなかったから。
私はどうだろう、と逡巡する。水瀬と別れることを面倒くさい、と感じていたくらいだから、変わっていけないことを怖がってはいないはずだ。
むしろその逆で。
「私は、変わっていくことのほうが怖いよ」
たった今わかった。面倒くさいのではなく、怖かったのだ。
「だって私は、着なくなった服を捨てることすらできないんだから」
私はたぶん、ずっと怯えていた。進学や卒業など、周囲の環境によって変化させられることすら緊張するというのに、自分でなにかを決断して変わっていくなんて怖すぎる。自室の様相が変わっていくことさえ怖いのに。
こんな私が簡単に別れ話を切り出そうなんて、土台無理な話だったのだ。
「水瀬」
私と水瀬は、お互いに怖いものが違う。
「変われないことを恐れないで」
でも、だからこそ、お互いに掛けてあげられる言葉があるはずだ。私は水瀬の右手を両手で包み込むと、じっと彼を見上げてみた。
「たとえ水瀬が『変われていない』って思い込んでいても、人は常に変化していく存在のはずだよ。だから――変わっていくことと、小説を書くこと。そのふたつは両立するよ。大丈夫」
根拠はまったくないけれど、それが私に言えるすべてだった。彼に小説を書き続けてほしいという願望の押しつけでしかないとも思うが、彼が絶対に小説を書き続けたがっているという確信がある上での押しつけなので、許してほしい。
「じゃあさ、かなえ」
水瀬は私の両手から右手を抜き取ると、今度は自分の両手で私の両手を包み込んだ。さすがに男子、手が大きい。私は感心しながらすっぽりと包まれた両手を見下ろす。
「――変わっていくことを恐れるなよ」
水瀬は静かに、しかし力強い口調で告げた。
「服を捨てても僕を捨てても、かなえはずっと、かなえのままだ。安心するといい」
「そうかなぁ」
「そうに決まってるだろ。というか真面目な話、着なくなった服はまめに捨てないと、新しい服を収納するスペースがなくなるぞ。かなえ、この四年間で数えるほどしか服買ってないよな」
「う」
苦しげに押し黙ると、水瀬はさもおかしそうに笑った。笑ってはいるけれど、なんだか泣きそうな顔にも見える。不思議な表情だが、きっと私も似たようなところだろう。
「手のひらに乗せられるものは有限だからさ。自分の中を通り過ぎていったものを、いつまでも澱ませておくなよ」
やや俯きながら水瀬は最後にそうアドバイスして、私の手を解放した。きっともう二度と彼と繋がれることのないふたつの手が、ぱたりと膝の前に落とされる。
わかった、と口にしようとしたのだと思う。
しかし「わか」まで言った直後、私の口から自然に紡がれてきた音は紛れもなく「れ」で、その後流れに任せて出てきたのは「よう」だった。
「行動に移すのが早いな」と言って、水瀬はくすくすと笑った。
そしてその笑いが収まると、今度は見たことがないほど穏やかな表情で、こくり、と静かに頷いた。
短い風が桜を揺らしていく。
私の形が変わっていく。
怖くなってぎゅっと目をつぶってみたが、再びまぶたを開いても、そこには変わらず私と、目の前に佇む水瀬がいるだけだった。
仕事帰りに、博多駅前の書店に寄ってみた。なにか目ぼしいものでもないかと文庫本の棚を端から端まで眺めていたら、私はとある一角に、見覚えのあるタイトルを見かけた。
正確には、聞き覚えのある、というか。なにしろ私がその本を実際に見かけるのは初めてだったから。
『君が猫に似てたころ』。作者は知らない名前だった。棚から抜き取って手に取ってみると、表紙の猫と目が合った。こういう本だったのか。初版はいつだろう。本を後ろのページから開いてみる。
これが初版だった。しかもつい最近の日付。
「えっ」
思わず驚きの声が出る。水瀬がこの本の話をしてくれたのはもう何年も前のことになっていた。
邪道とは知りながらも、本編より先に作者のあとがきページを開く。知らない名前の作者は、あとがきの初めにこう語っていた。
『これは僕が学生時代からずっと書きたくて温めていた話です。自分の自己肯定感の低さであったり面倒くさいプライドであったり、そういうものと向き合いながら悩む人たちにこそ読んでほしい小説ですね。』
いや、諦めたとか言いながら彼女に創作物の相談するなよ。思わずそんな突っ込みが口をつきそうになって、代わりに押しつぶしたような笑い声が喉を無理くり通過してくる。なんなんだよ、本当になんなんだよ、水瀬。
横で小説を立ち読みしていた女子高生が、ぎょっとしながらこちらに振り向いた。失礼、怖がらせてごめん。でも、本当に笑いが止まらないんだ。
本を閉じ、表紙の猫を見つめる。ただの猫の写真だったが、私はその瞳が水瀬のものと似ているような気がしてならなかった。
水瀬と目が合う。大丈夫、ちゃんと見てるよ。
水瀬が変わってなくて安心した。
心の底からそう思いながら、私はその本を手にレジへと向かった。
その後、ちゃんと服も捨てました。 ねむみ @sleepymiss
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