図書館とふたり
少しだけ予感がしていたので恐る恐る入館してみたが、幸いにも水瀬はそこにいなかった。私はほっと胸をなでおろして、ほとんど人気のない図書館内をぐるりと見渡してみた。入り口の辺りには新刊の小説本と各社の新聞、そして相変わらず不愛想な司書様たち。奥に行くにつれて棚には専門書の類が増えていき、最後には学生たちが使えるフリースペースに辿り着く。フリースペースと言っても、コンセントがついた丸テーブルが並んでいるだけのゾーンなのだが。
水瀬が小説を書いていたのはここだった。静かで、スマホやパソコンの充電ができて、調べたいことがあったらすぐ近くにある本を手に取れて、夏は涼しく、冬は暖かい。確かに快適極まりない。いい場所で執筆していたものだ。
「……」
私は水瀬がいつも座っていた席を、じっと見下ろしてみた。彼と本当の意味で出会ったのはここだと思う。それまで「基礎ゼミで同じクラスである」という情報しか持たなかった私が、「小説を書く人間である」と彼への認識をアップデートした場所。
私は彼の席の向かいに腰かけてみた。当時と視点を同じくすると、そのときの景色がそっくりそのまま自分の中に蘇ってきて驚いた。そうだそうだ。確か、私から話しかけたのだ。「水瀬くん、なに書いてんの」とか言って。そのときの水瀬の迷惑そうな顔と来たら。そりゃ、図書館とかいう静謐な空間で話しかけた私も悪いけど、仮にもクラスメイトにそんな顔することないじゃん、と当時も思ったし、今でも思う。
「……小説」
「へえ」
小声でそんな会話を交わして、それから私はどうしただろうか。確かもうひとつくらい、なにかを質問したような気がする。ジャンルは? とか。趣味なの? とか。それに対して水瀬はまたもや小さな声で、なにか短く答えたはずだ。
私はその回答がいたく気に入ったから――きっと、彼をさっきのイタリアンに誘ったのだろう。絶対に来ないと思いながら誘った水瀬は存外あっさりと私に同行し、やけに旨そうに海老のグラタンを食して、再び図書館へと消えていった。私はうきうきしながら、確かその後帰宅した。決して盛り上がったとは言えない初デート(?)だったが、それでもきっと、なにかが嬉しかったのだろう。
なんだっけ。なんて訊いたんだっけ。水瀬なら覚えているだろうか。それとも、そんな会話を交わしたことすら忘れてしまっただろうか。テーブルの向かいに、四年前の水瀬を思い描く。
本当に、たった一言だった。
――覚えてない。ずっと。
そうだ。不愛想に、でも若干の誇らしさも滲ませながら、彼は短くそう答えたのだ。
であるならば、私が尋ねたのはきっと――
「『いつから小説書いてるの』……」
テーブルに頭を伏せ、はあと息を吐き出す。ひとりごとは誰にも拾われることなく、図書館の空気に溶けていった。
嬉しかったな。あの不愛想男がドヤ顔しちゃうくらい好きなものを知れて。なぜかわからないけど、本当にわくわくしたのを覚えている。
「……水瀬」
あんなにわくわくしていたのに、今、私は水瀬を捨てようとしている。そうしようという気持ちに変化はなかった。恋の終わりというのは案外強固なものだ。思い出に流されてしまえばどんなに楽だろう。そのまま遠距離恋愛をも乗り越える体力も沸いてくれたらいいのに。それがだめなら、別れ話を切り出すための体力だけでも。
「……面倒くさいな」
すべてがそれに尽きる。なにかを変えるのって、本当に面倒くさい。水瀬のほうから言いに来てくれたらいいのに。そう思いながら重たい頭を上げると、いつのまにか人が横に立っていたことに気付いた。
「面倒くさい男で悪かったよ」
「うわっ」
思わず椅子から転げ落ちそうになる。驚かしてきた当の本人は「静かに」と小声で注意しながら、私の向かいに腰かけた。お前のせいだろうが。
「……いつからいたの」
入り口付近にいる司書様方に聞こえないよう、口元を手で囲んで囁く。水瀬はほとんど唇を動かさずに答えた。
「『水瀬、面倒くさいな』の辺りから」
「ごめんそれ誤解…………本当に、誤解なんだ」
私の必死な言い訳に眉をひそめつつも、水瀬はとりあえず納得してくれたようだった。テーブルの上で手を組み、こちらに向き直る。私は口元の手を下ろすと、彼の真っすぐな視線を見つめ返した。
「……水瀬は、どうしてここに?」
「大学から来たメールに図書館のことが書いてあったから。君のことだから、もしかしたら感傷に浸りに来てるかもしれないと思って。あのまま帰るとは思えないし」
「…………場所がわかったとしても、どうして追いかけてきたの?」
あんなにひどい退場シーンを店内で繰り広げたのに。それに水瀬が理屈抜きに恋人(それも自分を振らんばかりの)を追ってくる男だとは思えない。水瀬は顎に手を当てて暫し考え込んだ。
「――君のことだから、追いかけてほしくないんだろうなとは思っていたけど」
「けど?」
「グラタンを食べながらゆっくり考えてみた結果、最終的には追いかけたほうが正解なのかなと判断したんだ」
「え、あの後食べたの?」
「さすがに嘘だよ」
水瀬は口元に苦笑を浮かべた。
「ただ、店を出てからしばらく考えたのは本当。僕のことを捨てたがっている女の子が、果たして僕にどうしてほしいのか……かなり難しい問いだった」
「……」
急に話を戻してくるものだから、私はまたしても石のように固まってしまうしかなかった。水瀬はいったい、どういう感情で言っているのだろう。私はさっきからずっと、彼の思考が読めないことが不安だったことに気が付いた。
「水瀬」
テーブルに身を乗り出し、今度は私が彼の瞳を覗き込んでみる。水瀬はなんでもないような顔で、そんな私に冷徹な視線を向けていた。
「水瀬は、どうしたい?」
さっき「別れる理由がない」と言っていた男は、意外にも少しばかり沈黙した。店で質問したときとはやや違う切り口の質問だからか、視線を伏せ、場に出すべき言葉を慎重に探している。「別れたい」か、あるいは「別れたくない」しかないと思っていたけれど、それは彼にとって違うらしい。
「かなえ、僕はね――」
やがてとても静かに語り出した水瀬は、目元にわずかな悲しみを湛えているように見えた。
「僕という存在が、君の中を通り過ぎていってしまったことはとても悲しいと思うんだ」
同意を求めるような視線。私は否定も肯定もせず、黙って続きを促す。
「――でも、通り過ぎていったはずの僕が君の中で澱みになっていくのは耐えられないんだ」
「澱み?」
「澱み。不要なのに手元に置かれるというのは、こう見えてかなり惨めなことなんだよ。わかるかな、かなえ」
言葉の端にかすかな苛立ちが垣間見えて、私は思わず口をぎゅっと引き結んだ。同意である、が、まさにそれをやってきた私がはっきりと同意の意を示すのは、あまりにも違う気がする。
「……そんな怒られたみたいな顔するなよ」
「だって……」
「わかってるよ。かなえが、たった今気が付いたことくらい」
水瀬は仕方なさそうに笑った。相変わらず悲しそうだったけれど、きっと恐らく、私のために笑ってくれた。
「きちんと、かなえの手で終わらせてほしいんだ。僕は決して優しくはないからその役目を変わってやることはできないけど、きっかけを作ることはできる」
水瀬はそう言って姿勢を正すと、来たるべき言葉を待ち構えるように沈黙した。
とうとう箸を取る瞬間が来たらしい。
私が言うべき言葉は、わかっていた。
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