窓際D席の攻防

 さて、と私は駅の改札の前で立ち止まった。見ないふりをしていた水瀬からのメッセージに答えるときが来たらしい。正午を迎える前に喫茶店で別れた栞が「きちんと話しなよ」と言っていたとおり、向き合うべきなのだろう。

 でも、でもさ。

 あんなことを言っていた栞だって、私が「でも、そんなの面倒だよ」と喚けば同意くらいはしてくれることだろう。やるべきことをしっかりやることができるスーパー人間だって、心の中では「面倒くさいな」と思うことくらいあるはずだ。

 面倒くさいものは面倒くさい。別れ話など、その筆頭ではないだろうか。私はスマホを取り出してタップしながら、あーあとため息をついた。メッセージ画面を開き、未だに既読すらつけていないトーク画面を渋々タップする。

【おはよう。今日どこかで会えないかな】

 せっかくおはようの時間に送ってくれたのに、すっかりおはようの時間ではなくなっている。私は必要以上にゆっくりとメッセージを打ち込んだ。

【大学の最寄りにいます。いっしょにお昼ご飯でも食べよう】

 送信ボタンを押し、早々にスマホをポケットにしまい込む。送ってしまった。私は駅の天井を仰ぐ。送っちゃったよ。まあ冷静になれ。まだ時間はあるわけだし、今日その話を持ち出さなければいけないわけではない。卒業式まで四日もあるし、引っ越すまではあと一週間近くある。まだ時間はある。焦らなくてもいい。

 頭の中で様々な言い訳を並べ立てる。しかし私は経験上、このまま最後まで言わない可能性のほうが高いことにも気付いていた。

 言わなかったらどうなるんだろう。水瀬と私は、最終的にどこへ行くんだろう。

 水瀬は今なにを考えているんだろう。私が別れたがっていることにも気が付いているだろうか。

 中途半端な態度は、水瀬を傷つけることにもなるよ。

 栞の言葉が頭の中で再生された。気が付いていないといいな。私はそう願いながら、改札の前で水瀬の返信を待っていた。




「『別れよう』なのかな?」

 思っくそバレてるじゃねーか。とっさにそんな暴言が口をつきそうになって、私は喉の奥をぎゅっと閉じた。声も息も遮断され、代わりに戸惑いの沈黙が場を支配する。

 さっき席まで案内してくれた店員さんが、気まずそうに水をふたつ置いていく。「お冷失礼します」と言いたかったのだろう、逃げるように去りながら残していった言葉は「オヒャシェシャス」にしか聞こえなかった。今頃厨房で「窓際D席で別れ話始まった」とか言いふらしているに違いない。ここD席なのか知らないけど。

 向かいの席に腰かける水瀬はテーブルの上で手を組むと、こちらの目をじっと覗き込んだ。私はさっと視線を伏せて、テーブルに置かれたカトラリーケースを見下ろす。

 大学最寄りから程近いところにあるイタリアンは、値段の割に満足感のある食事を提供してくれるので気に入っていた。一年生のころに発見して、基礎ゼミで同じクラスだった水瀬をたまたま誘ったのが最初だったはず。そういえばどうして誘ったんだっけ。なんとなく水瀬を気に入る出来事があったから誘ってみたんだっけ。わからない。忘れた。とにかくわかることは、わざわざここの店がいいと指定した上で、そんな質問をしてくる水瀬はとても性格が悪いということだ。

 ――リングに引きずり出される。私は頭をフル回転させて、次の言葉を探していた。探すべき言葉など、本当は目の前の男が言ったことそのままなのだけど、それじゃない言葉を懸命に探し求めた。

 それで生じた沈黙をどういうふうに捉えたのか、水瀬はふと姿勢を正すと、テーブルの端に立ててあるメニュー表を手に取った。

「かなえ、先に選ぶ?」

「え」

「選んでいいなら先に選ぶけど」

「え、あ、いや先に選び……たい」

 これ以上沈黙しているのがつらすぎて、私はたまらず彼の取ったメニュー表に手を伸ばした。たどたどしくも言葉が出てくると、脳味噌の言語野が復活してくるのは早かった。私はメニュー表のページをぺらぺらとめくりながら、

「あは」

とわざとらしい声を上げた。ちなみにこれは「わざと」わざとらしくしたわけではなく、自然とこうなってしまっただけである。

「なに、急にそんな話」

「僕にとっては急じゃないな」

「急だよ、急。なに、水瀬が別れたいからそんな話題を出したの?」

「僕じゃなくてかなえがそう思ってると思ったから話題に出したんだよ」

「嘘ぉ」

「本当」

「嘘だ」

「本当」

「うそ」

「本当」

 話が美しい平行線を描き始めた。水瀬は一歩も引こうとしないし、私もリングに上らない。否、いずれは上らなければいけないことはわかっているが、自分のタイミング外で引っ張り上げられるのはどうしても嫌だった。だって面倒だったから。本当に面倒だったから。

「ちなみに訊きたいんだけどさ」

 私はなんの意味もない応酬を断ち切ると、メニュー表をぱたりと閉じて、水瀬に返した。

「水瀬は、別れたい?」

 ここで水瀬が「僕も正直……」と言い始めたら、私はその瞬間に「わかった!」と言って席を立つ準備はできていた。こんな言い方は最低だが、私ではなく水瀬がやってくれるのであれば、そんなに都合のいい話はなかった。

「僕には別れる理由がない」

 そして、そんなに都合のいい話はなかった。ガッデム畜生。私は歯を食いしばってテーブルの上に両の拳を置いた。

 水瀬はそんな私に冷めた視線を送ると、メニュー表をテーブルの上に置き、代わりにお冷のコップを手に取った。ひと口だけ嚥下し、長く息を吐き出す。

 私はその様子を見ながら、自分がなぜかひどく怯えていることに気が付いた。深いため息のあとに続く言葉、というのは無意識に神経を張りつめさせるものらしい。私はじっと彼の言葉を待ち構える。

「けれど、かなえが別れようと言うのなら、反対はしない」

 あくまでも淡々と、水瀬は私の目を見てそう告げた。感情が読み取れない瞳だった。本当に私と別れたくないやつがする瞳なのか、これは。私がそんなことを言う立場でないことは重々承知の上だが、どうしてもそう考えずにはいられなかった。

「かなえは、どうしたい?」

 あ、これめちゃくちゃお膳立てされてる。お膳が立てられすぎて(?)、あとは私が箸を握ればすべてが変わってしまう。割烹着を着た水瀬が「どうぞ」と真顔で膳を指し示しているのが想起された。そして沈黙し、箸を取らない私も想起された。

 食わせてはくれないらしい。当然だ。もう大人なんだから。お膳立てされているだけ感謝しよう。

 感謝はしても、私は変わらず動けなかった。石のように黙りこくって、ただただ無為に時間が過ぎていくのを感じている。

 水瀬はしばらく待っていたが、やがてうんざりしたようにため息を吐くと、仕方なさそうに頬杖をついて私の瞳を覗いた。私も今度は逸らさなかった。意外と形のいい眉、私より長い睫毛、黒目が小さいまなこ。どれもこの四年間で見飽きるくらい見てきた。

「そんなに難しいことは言ってないよ」

「わかってる」

「二択問題で、答えはかなえが知っている」

「わかってる」

「かなえは、どうしたい?」

「わか」

 再びの沈黙。水瀬は形のいい眉をひそめながら、またしばらく待った。未だかつて、こんなにテンポの悪い会話を彼と交わしたことがあっただろうか。

「かなえ」

 こめかみに手を当てながら、水瀬が言う。

「答えを言い淀むなんて、君らしくない」

「君らしく、って……」

「さっきも言ったけど、そんなに難しいことは言ってないはずだ。必要なら継続、不必要なら捨てればいい」

「そんな簡単なことじゃ……」

「簡単なことだよ。着なくなった服を捨てるみたいなものさ」

「だからそれができないって言ってんじゃんっ!」

 私は椅子を鳴らして立ち上がった。

 コップの水に波紋が広がる。水瀬は目を見開いて少なからず驚いていたし、私も私の大声に驚いていた。周りの客や、店の店員たちがこちらを凝視している。厨房からは先ほどお冷を置きに来た店員が顔を覗かせていた。

 しばらく水瀬と視線を合わせたまま、店内に横たわる重苦しい沈黙を甘受する。申し訳ない。私のせいで皆様の昼食タイムを不穏にしています。

「――か」

「ごめん帰る」

 水瀬がなにかを言いかけたが、私はそれを遮って窓際D席から脱兎のごとく逃げ出した。

 普通こういうとき、女は男に追いかけてほしいもの、であるらしい。しかしその瞬間の私は、本当の本当に水瀬に追いかけてきてほしくなかった。

「水瀬あんた……」

 駅までの道を大股で歩きながら、自分が存外ショックを受けていることに気が付く。

「着ない服、まともに捨てられるタイプなんだ……」

 考えてみれば当然だ。彼の部屋はとてもがらんとしている。言わばミニマリスト。ならば不必要なものを捨てることに抵抗などないだろう。


 だから小説も捨てたのか?


 はたと足を止め、来た道を振り返る。道行く人がなんだなんだと自分を避けていくが、気にしていられなかった。強い衝動に駆られる。今すぐにでも水瀬を殴りに行きたい。自分でも意味不明だが、はっきりとそう感じたのだ。

「――」

 目を閉じ、ふーっと息を吐き出しながら六秒数える。これぞアンガーマネジメント。こんなことしたところで、やっぱり怒っているんだけども。本当は、結構前からずっと怒っていたのかもしれない。水瀬が珍しく泣きそうな声で連絡してきた、あの日から。


――ちゃんと就職するから安心して、かなえ。


 何様だ、お前は。思い返すだけでうんざりするような怒りを抱えながら踵を返し、駅を目指す。知らん知らん、あんな奴。どすどすと歩を進める。勝手に「ちゃんと」してろよ。なんだか私のほうこそ泣きそうだった。

 歩みが徐々に弱々しくなり、やがて道端に立ち尽くす。私は顔をくしゃくしゃにしたまま地面を睨みつけた。胸の内側が限りなくとげとげしている。涙が出そうで出なかった。


 水瀬。

 私も馬鹿だけど、あんたも大概だ。心の底からそう思うよ。


 俯いてじっとしていると、ポケットのスマホが通知を報せて振動した。はっと目を見開き、慌てて画面を確認する。水瀬からかと思ったが、それは大学から学生たちに宛てた一斉送信メールだった。なんだ、とため息を吐きながら、指先を画面に滑らせる。卒業式のタイムテーブルとそれに伴う学部別の謝恩会のご案内、あとは卒業式までに図書館から借りていた本を返すようにという内容だった。式が終われば学生証を返還しなければならず、そうなると図書館の入館ゲートは簡単に通れなくなる。

 図書館の本なんて授業で必要なときくらいしか借りないし、用が済めばすぐに返すようにしていたので手元にあるはずはない。しかし私はゆらりと姿勢を正すと、駅に向かっていた足をふと大学方面に向かせてみた。

 もう気軽に訪れることができなくなると思うと、途端に行ってみたくなるのが大学図書館というものだと思う。私はせかせかと足を動かしていたそれまでとは打って変わって、ゆっくりと、しかしはっきりとした意思を持って、大学へと歩き始めた。

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