その後、ちゃんと服も捨てました。

ねむみ

服も彼氏も

 着なくなった服を捨てることができない。

 これは何年も前からの悩みだった。私は中高生の頃からの服が多数詰まったタンスの前に跪き、天井を仰いだ。両親からは「引っ越すなら全部片づけてから引っ越せ」と言われているものの、作業は非常に難航している。私は部屋の中をぐるりと見回してみた。本棚には小説本に混じって幼児向けの絵本が並んでいるし、寝台のサイドチェストには小さなころに買ってもらったうさぎのぬいぐるみがくたびれた顔で鎮座している。私がぬいぐるみに抱きしめられなくても寝られるようになったのはもう十五年以上むかしの話なのに、彼女は自分を放置する持ち主を延々と見守らされ続けている。

 というか、大学もあと四日で卒業しようというのに、未だ中高生のころの服にタンスを占拠されているとはこれ如何に。私はうーんと唸って考え込むと、とりあえず台所からごみ袋を拝借してきて、再びタンスの前に戻ってきた。

 どうせ全部新居に持っていくわけにはいかないのだ。私は勢いよくタンスを開けると、浅瀬に申し訳程度に詰められている「着る服」を避け、奥まった方に詰まった「着なくなった服」を次から次へと掘り出した。よくまあこんな古びた服たちにタンスの占拠を許していたものだ。最奥には小学校高学年のころの服まであった。

 私はそれらの服をごみ袋に詰め込むと、急いで口を縛り、ほう、と息を吐きだした。やってしまえば一瞬で終わる作業だったが、妙な罪悪感が胸を塞いで不快だった。

 いいや。どうせ不快になるならば、この一回で終わらせよう。私は本棚の中の絵本に手を伸ばすと、いっぺんに取り出してそこにあったビニール紐で縛り上げた。

 うさぎのぬいぐるみにも手を伸ばし――かけて、ふと動きを止める。なんで顔が付いているものって捨てにくいんだろう。いや、それ以前に私にとってはすべてが捨てにくいのだけど、一般論として。

 はあ、とため息をつき、ベッドに腰かける。埃っぽい部屋の中には、学習机と、本棚と、服が詰まったごみ袋と、縛られた絵本。いらないものをごみとしてその他のものと区分できたのはいいとして、それらを家の前のごみ収集所まで持っていくのが想像できなかった。もう何年もこの部屋にあったものがこの部屋からなくなってしまったら、いよいよこの部屋の形が変わってしまう。いや、というか、引っ越すから全部片づけるんだけど。片づけるんだけどさ。私は頭を抱える。形が変わるどころじゃないんだよ、わかってんのか。

 すべてが嫌になってベッドに転がる。四月からの新生活に備えるならば、もういい加減荷物をまとめなければいけない。

 そのとき、机に置いていたスマートフォンが通知を報せた。私はぱっと起き上がり、すぐに机のそばによって小さな画面を覗き込む。通知はほぼ同時に二件来ていた。タッチの差で早く到達したのが水瀬で、次点で栞。

【おはよう。今日どこかで会えないかな】というメッセージが水瀬。

【暇だったらお茶でもしようよ】というメッセージが栞。

 私は栞からのメッセージを開くと、一も二もなく【行く】と返事を打ち込んだ。そしてそこらに放りっぱなしだった「着る服」から適当な服を選ぶと、一目散に部屋を飛び出した。完全なる現実逃避だということはわかっていたが、なんだかもうどうでもよかった。




 大学近くの喫茶店で待っていた栞は、頬杖をつきながら窓越しに通りの景色を眺めていた。控えめなブレスレットを着けた腕に沿ってアッシュベージュの髪がテーブルの上に垂れている。卒業式が終わったら切って、ついでにもとの黒に戻すと言っていた。それが社会人になるにあたってのけじめらしい。

「社会人でも、アッシュベージュくらいなら全然大丈夫じゃない?」

「大丈夫とか大丈夫じゃないとかじゃなくて、単純にただのけじめ。気持ちの切り替えだよ、私なりの」

 新年度になったら髪型変える人とかいるでしょ? と言われて、ああと納得する。新年度になったら髪型を変える。年を越す前に掃除をする。彼氏と別れたらプレゼントされたものを全部捨てる。行動原理はみんな同じなのだろう。

「結局、水瀬とは別れないの?」

 アイスティーの氷をストローでつつきながら、栞が思い出したように訊いてきた。どうせその話題も出るだろうなと踏んでいたが、実際に出てくると顔が一気に渋くなるのを感じた。

「どうなのよ」

「それは難しい質問だね」

「かなえが難しく考え過ぎているだけじゃないの?」

 卒業と同時に綺麗な髪を切り落とす覚悟がある女は言うことが違う。一方の私は子どものころの服を捨てることさえ躊躇しているというのに。

「遠距離になるってことは、将来的に添い遂げるくらいの覚悟がないと付き合ってられないよ。それができないならお別れしちゃえば?」

「簡単にいうじゃんー」

 私はテーブルに突っ伏して不満の声を上げた。向かいの栞はさほど気にした様子もなく、ずずっとアイスティーを吸い上げた。

「あんたが何年のあいだ福岡の配属になるかは知らないけどさ――たとえば三年福岡にいたとして、お盆と正月くらいしか東京に戻ってこられないとしたら、あんたは六回しか水瀬に会えないまま三歳も歳を取るわけじゃん。若さも人生も有限なんだし、その三年間って重要じゃない?」

「わかってるよ」

 ぶうたれながら栞を睨む。

「でも、それなりの年月付き合ってきた人をそんな簡単には捨てられないじゃん」

「情じゃん」

「情だよ、知ってる」

 そして、情だけでこの関係が続くはずがないことも知っていた。私はその程度には薄情な人間なのだ。

「水瀬はなんだっけ、不動産系だっけ。なんか意外だったな。もっとこう、文章書く仕事に就くのかと思ってた」

「私もそう思ってたんだけど、七月の小説大賞で結果を残せなかったから、って……」

 私が重だるい身体をテーブルから起こすと、店に到着したときに注文したアイスコーヒーがちょうど運ばれて来るところだった。若い店員がコースターやら紙ナプキンやらを手際よく並べていき、ごゆっくりどうぞと愛想よく微笑んでいく。私は刺さっているストローを口にくわえると、ひやりとした上品な苦みを吸い上げた。

「だからって文章をすっぱり諦めることないでしょーに」

「それが水瀬なりのけじめだったんじゃないかな」

 私の口の中で、「けじめ」という言葉だけが借りてきた言葉のように薄っぺらく響いた。眉間に皺が寄るのを感じる。なにがけじめだ、この野郎。私はストローを噛み締める。

 だめだった、と水瀬が電話で伝えてきた日を思い出す。

 ちゃんと就職するから安心して、かなえ。

 いや安心してってなんだよ、そんな泣きそうな声して。私はスマホを耳に当てながら、こめかみの辺りがぴくりと震えたのを感じた。どうしようもなくむかついた。まごうかたなく、水瀬にむかついていた。

 よほど思いつめた顔をしていたのか、栞が訝しげに「かなえ?」と呼んだ。私がはっとしてくわえていたストローから口を離すと、栞は「とにかく」と前置きして仕方なさそうにため息をついた。

「中途半端な態度は、水瀬を傷つけることにもなるよ。頻繁には会えなくなるんだから、そこら辺の話し合いはしっかりしておいたら?」

 ぐぬ、と歯噛みする。余計なお世話じゃいという気持ちと、そのとおりですという気持ちが半分ずつ。

 黙り込んで、グラスに刺さったストローをなんとなく弄んでみる。グラスの中の氷は涼やかな音を立てたが、黒々とした水面には情けない顔をした女が映り込んでいた。




 水瀬という男はどこかふわっとしていて、はっきり言って大学生以外の身分でいるところを想像するのが難しい人間だった。制服を着て右にならえしている姿も、スーツを着て右にならえしている姿も思い描けない。ぼさっとした風貌で授業に出て、大学の図書館で小説を書いて、ときどき思い出したように適当なアルバイトをする。四年間を通してそういう人間だった。それが私の知るすべてである。恋人でさえこんなものだ。基本的によくわからない人間なのだ。

 ただ、一応作家になりたいという気持ちだけははっきりしていたらしく、度々自分の作品を賞に応募しては、上手いこと結果が出ないということを繰り返してきたらしい。

「面白いと思うんだけどな」

 前に選考落ちした作品を喫茶店で読ませてもらったときに私がそう呟くと、水瀬は冷めかけたコーヒーに目を落としながら自嘲気味に言った。

「面白かったら通ってるはずだけどね」

 その返事がめちゃくちゃにむかついたので私はそれ以来、水瀬の小説を読んでもろくな感想をよこしていない。しかし、それはそれとして私は彼の書くものはそれなりに好きだった。


 そう。好きだった。それだけは確かだったと思う。水瀬の小説が、好きだったのだ。


「前にさ」

 去年の八月末。つまり、水瀬が最後に挑んだ賞に落選した後のこと。彼の暮らすアパートでふたりしてだらだらしているときに、水瀬が布団の上であぐらをかきながら呟いた。そのときはやることをやった後で疲れきっていたので、私は水瀬の横で寝転がりながら話半分に相槌を打っていた。

「『君が猫に似てたころ』っていう小説を読んだんだけど」

「うん」

「すごく仲の良いふたりの男女の話でさ、物語の序盤では彼氏のほうが彼女をすごく猫かわいがりして、彼女もそれに素直に甘えてるんだよ」

「うん」

「でもふたりとも就職して、彼女のほうが社会人として色んな経験を積んでいくうちに、段々と意識とプライドが高くなっていくんだ」

「うん」

「それで、彼氏がいつものように彼女を愛撫しようとしたら、彼女が『やめて、馬鹿にしないで』って怒り出すんだよ」

「うん」

「そうして段々、かわいいねとか言われるのも嫌になって、ふたりの関係性が壊れていく話なんだけど、かなえはどう思う?」

「あ、え?」

 急に意見を求められて首をもたげると、水瀬はこちらを見下ろして「どう思う?」と再び尋ねた。真面目な顔をしているが、なにせ裸なのでいまいち格好はついていない。

 私は胸元のタオルケットを首まで引き上げると、与えられた少ない情報をもとに少しだけ頭を回転させてみた。なにしろ眠たいので、脳味噌も省エネである。

「僕はね、かなえ、決して男のほうに馬鹿にする気持ちがあったとは思わないんだ。ただ、環境の違いで感じ方が変わってしまったから、それも仕方がないことだったのかなって」

「それもあるかもしれないけど……」

 私は天井から窓辺に視線を移してみた。外はまだ明るく、うるさいばかりの蝉の鳴き声が窓を通り抜けて、がらんとした室内に唯一の音をもたらしている。終わりかけの夏を惜しむような声がやけに切なく、私は大学最後の八月が存外駆け足で過ぎ去っていってしまったことに今更ながら気が付いた。特になにもしないまま、相変わらずこの男と、がらんとしたこの部屋で。

 私はぱたりとまぶたを閉じると、ため息に乗せるように言葉を紡ぎ出した。

「自己肯定感がだめになってたんだろうね」

「自己肯定感?」

「自己肯定感。社会に出たから、なのかどうかはわからないけど、自己肯定感が低まりすぎていると、そういう行為も受け入れがたいんじゃない……かな。わかんない」

 むにゃむにゃと寝言のようになってしまったが、それが私の意見だった。もちろん、もっとフェミニズムに寄った考え方や、私にはまったく思い浮かばないような意見を出す人もいるだろうが、水瀬が望んだのは私の意見だし、これでいいのだろう。

「なるほど」

 水瀬は私の横に寝転がると、得心したように一言だけそう言って、後はなにも言わなかった。なんか無いのかよ、眠いのに答えたんだぞ。まどろみながら頭の中に文句が複数浮かんでくるのがわかった。しかし、今の眠たさでは議論することも億劫だったし、なにも無いなら、それはそれで別にいい。


『君が猫に似てたころ』。


 ちょっといい感じのタイトルだ。今度本屋で見かけたら読んでみようか。夢の淵に立ちながらそんなことを考えていたはずだったが、結局残りの大学生活のあいだに、そんな名前の小説を書店で見かけることはなかった。

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