人魚の瞳

尾八原ジュージ

人魚の瞳

〈人魚の瞳〉は青い石だった。まるでその内側に海を隠しているみたいだった。化学式で表せばAl2O3、赤くはないからサファイアと呼ばれて、原石のうちから大変な高値がついた。

〈人魚の瞳〉はとある国の鉱山から掘り出され、海を渡った。幾人もの手を経て丸く削られ、金の台座に据え付けられて、ひとつの指輪になった。そして、ある裕福な娘に贈られた。

〈人魚の瞳〉は、美しくて心の朗らかな娘のものになったことが、そしてそのほっそりとした白い指の上に置かれることが、たまらなく嬉しかった。それから人々が自分を指してしきりに〈人魚の瞳〉と言ったので、さてはそいつがわたしの名前なのだろう、と見当をつけた。

 若い娘は〈人魚の瞳〉を大切にした。あんまり大切にしたので、ふだんは宝石箱にしまい込んでいた。そのため概ね退屈だったが、その代わり娘の指の上に載せられるときは甘く、輝かしく、天にも昇る心地がした。

 ところがそのうち、娘はめったに宝石箱を開けなくなった。〈人魚の瞳〉は退屈で退屈でならなかった。宝石箱が開いて娘が顔を覗かせるのを待って、待って、待ちくたびれて、そのうち宝石箱の闇の中で、深い眠りについてしまった。


〈人魚の瞳〉が目を覚ましたとき、それは美しい娘の指ではなく、ごつごつした男の掌に載せられていた。男の手からは、湿った土の匂いがした。

 男は小さな家の小さな戸棚の前に立つと、抽斗のひとつを開けて、そこに「人魚の涙」を隠した。

 土と煙草のにおいがする抽斗の中で、〈人魚の瞳〉は、わたしの持ち主の娘はどうしたのだろうと考えたが、それを問う相手も答える相手も持たなかった。

 男の家は墓地の隅にあった。つまり男は墓守なのだった。〈人魚の瞳〉はもとの宝石箱に戻りたいと思ったが、墓守はあの娘と交流があるわけではなく、〈人魚の瞳〉を彼女に渡す機会もなさそうだった。〈人魚の瞳〉は時々娘のことを思い出し、そのたびに青い光を身中で震わせた。

 ひとつき、ふたつき過ぎて、墓守は死んだ。家にやってきた友人とけんかになり、殴られて倒れたまま起き上がらなかった。

 墓守の友人はたちのよくない男だった。金目のものを探して部屋中を探り、見つけた〈人魚の瞳〉をポケットに入れると、街の質屋まで運んでいった。


〈人魚の瞳〉が次に目を覚ましたときには、大勢の人間に囲まれていた。皆が〈人魚の瞳〉を見ていたし、たくさんの掛け声が聞こえてきた。つまりそこは競りの会場なのだった。

〈人魚の瞳〉は競り落とされ、小さな箱に入ってある邸宅に移り、その屋敷に住む中年の婦人の指に納まることになった。

 婦人の手もまた美しかったが、前の娘ほどではなかった。〈人魚の瞳〉は不満だった。前の娘の手元に戻りたいと願いながら、体に当たる光を青く染めて次々に弾いた。とはいえ、墓守の家の抽斗に入っているよりは格段にましだった。

 ところがひとつき、ふたつき過ぎて、中年の婦人は死んだ。まださほどの年ではなかったのに、突然謎の病気にとりつかれて、あれよあれよと言う間に衰弱した。

 婦人が死ぬと、家のものは先をあらそって彼女の財産を分けた。〈人魚の瞳〉は夫人の弟の手に渡っていった。


〈人魚の瞳〉は、ふたたび宝石箱の中に納まった。南国の珍しい木から作られ、内側には天鵞絨を張り、いくつかの宝石が一緒に収められた、豪華な宝石箱だった。

 夫人の弟には指輪をつける習慣がなかった。しかし、ちいさな宝物を集めることにかけては執着を示した。つまり彼は蒐集家だったのだ。宝石箱の中から出る機会がないので、〈人魚の瞳〉は倦んだ。

〈人魚の瞳〉の隣には化学式で表せば同じくAl2O3、そして鳩の血のように赤い石が輝いていた。

「きょうだいよ、わたしたちのような偉大な宝石は」と、赤い石は語った。「元々たいへん強い力を持っているのです」

 それがどういう力なのか、〈人魚の瞳〉は知らなかった。

 ひとつき、ふたつき過ぎて、亡き婦人の弟、蒐集家の男は死んだ。何の前触れもなく、橋から川に身を投げた。

「青いきょうだいよ、なんということをしたのか」

 赤い石はそう言って嘆いたが、それも〈人魚の瞳〉の知ったことではなかった。


 次はなかなか持ち主が現れなかった。「〈人魚の瞳〉を所持した人間は、かつての持ち主の娘に取り憑かれて死ぬ」という噂がたっていたのだ。それで競売に出ても、なかなか落とそうという人が現れなかった。

「赤いきょうだいがわたしに言ったとおり、『わたしたちが元々たいへん強い力を持っている』というのなら」

 と、〈人魚の瞳〉は考えた。「わたしの力で人間が死ぬのだろうか。それともたまたま人死にが続いただけなのか。はたまた死んだというあの娘の霊のなせるわざなのだろうか。もしも娘の仕業であるなら、ひとめでいいから彼女に会いたいものだ」

 しかし、〈人魚の瞳〉の前に、娘の亡霊が現れることはなかった。

 そのうち、金貸しの金持ちがようやく〈人魚の瞳〉を競り落とした。青い石は物好きな妻の手を飾ることになったが、やはり不満だった。その女もまた、最初の娘のように美しい手ではなかったし、心ばえの方はいっそ醜いと言ってもいいほどだった。

 ひとつき、ふたつき過ぎて、その間に金貸しの妻は三度、さしたる理由もなく首を括ろうとした。寝付いてしまった彼女の前に、医者ではなく、霊媒師が呼ばれた。

「〈人魚の瞳〉を手放しなさい。あれは副葬品ですよ。墓地へゆく運命を負っているものなのに、手癖の悪い墓守がそれを盗み出したのです」

 そうまで言われても、女は〈人魚の瞳〉を手放さなかった。青い石の中で海のように揺らめく光を、取り憑かれたように見つめていた。

 食事を一切とらなくなって七日後、金貸しの妻はとうとう死んだ。

 金貸しは「妻の棺桶に〈人魚の瞳〉を入れよう」と言い出した。周囲のひとびとも、それはもっともだと思った。元々副葬品だというなら、棺に納めてしまえばよい。

 しかし、当の〈人魚の瞳〉だけは不服だった。自分が納まるのなら、それは美しい娘の棺でなければ嫌だった。

 葬儀の日、〈人魚の瞳〉は葬儀屋の下働きの男の前で、目一杯体を光らせてみせた。男は一も二もなく、青い宝石に従った。


 葬儀屋の下働きにはひとりの妹があって、長年の病に苦しんでいた。瘦せ衰えて老婆のような肌をしていたが、心ばえという点においては、最初の娘よりもなお美しかった。

 下働きの男は余命わずかな妹を喜ばせたい一心だったが、娘はきらきら光る瞳をしてこう言った。

「泥棒してきたものなんて要らないわ。元のところへ返してきてちょうだい」

 葬儀屋の下働きは居た堪れなくなった。〈人魚の瞳〉を握って家から飛び出し、墓地へ向かって走ったが、その途中で馬車に撥ねられた。

〈人魚の瞳〉は道端に落ち、軽く高い音をたてながら石畳の上を転がった。どの人間よりも素早く、烏がそれを持ち去った。


〈人魚の瞳〉が次に目覚めたとき、そこは水底だった。彼方で陽の光がゆらゆらと煌めき、魚が銀色の腹を見せて通り過ぎた。美しい眺めだったが、指輪を嵌めるような者の姿はなかった。〈人魚の瞳〉はふたたび眠った。長い長い眠りだった。

 次に目覚めたときには、どこか生暖かくて暗いところにいた。ここはあまりよい宝石箱ではないと〈人魚の瞳〉は思った。突然目の前にぎらぎら光る刃が差し込まれ、かと思うと宝石箱は開かれて、目も眩むような光が辺りを包んだ。

 こうして〈人魚の瞳〉は魚の腹の中から取り出された。魚を買った料理人は、それを雇い主のところへ持っていった。

 雇い主の老婦人が目の前に現れたとき、〈人魚の瞳〉は異様な懐かしさを覚えた。はるかむかし、よく似た娘の手に載って、綺羅びやかな世界を見たことを思い出した。まるで古い恋を思い出したような気分になり、体内の青い光はかつてないほど激しく閃いた。

〈人魚の瞳〉を前にした老婦人は、目を見張った。

「姉さんの指輪によく似ていること」

 老婦人の姉は、若くして亡くなっていた。更には指輪の内側に彼女の姉の頭文字が刻印されているのを発見すると、老婦人は本当に驚いて、何年かぶりにぽろぽろ涙を零した。

 ひとつき、ふたつき、みつきが経ったが、〈人魚の瞳〉は老婦人の手の上にあった。老婦人の心は、一日の半分ほどは娘時代に戻っていたので、指輪もまた同じ時を過ごしているような気分になった。

 さらに五十と五か月が経った。老婦人は静かに、老いのために死んだ。〈人魚の瞳〉はまだ彼女の指に座っていた。

 ひとびとはふたりをそのままに棺に収め、一族が眠る墓地に埋めた。それは〈人魚の瞳〉が本来眠るべきだった娘の墓の、すぐ隣にあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人魚の瞳 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画