まれによくある話。

@ultimet_friedrice

よくある転職話。

 かつて転職活動でお世話になったコンサルタントのK氏が独立するとの知らせを受けた私は、ささやかな祝福の気持ちを込めて一本のワインを手に、彼の新しい事務所を訪れることにした。

 K氏は二度目の転職の際に我儘わがままな私の要求に粘り強く応え、そのおかげもあって転職した会社には10年勤めることになった。

 その後も何度か転職を繰り返したが、そのたびにK氏に連絡をし不義理を詫びたのだった。

 今の会社も6年ほど勤めあげたため、そろそろ転職しようかと思っていたのもあり、まずはお祝いを、後日あらためて転職の相談をするつもりだった。


 夕暮れの街を抜け、K氏の新事務所が入るビルの前に立つと、ふと視界の隅に黒猫の姿が映った。

 他の動物はそうでもないのだが、なぜか猫には懐かれる性質だった私は、自然としゃがみ込み、その猫としばしたわむれた。

 黒光りする毛並みを撫でていると、猫は満足げに喉を鳴らし、私を見送るようにその場に佇んでいた。


 エレベーターで四階に向かい、K氏の事務所の扉をノックしたが、中からは応答がなかった。

 仕方なくその場で待つことにした。

 しばらくすると階段から軽やかな足音が聞こえ、見上げるとK氏が軽く汗をにじませながら現れた。

 「お待たせしました」とK氏は鍵を取り出し、扉を開けると、事務所の中に二人で入った。


 「久しぶりですね」と互いに微笑みながら、持参したワインのコルクを抜き、簡単な乾杯を交わした。

 かつての彼はどちらかといえばふっくらとした体型だったが、今では驚くほど引き締まっていた。

 「健康に気を遣い始めたんですか?」と冗談めかして尋ねると、彼は曖昧あいまいな笑みを浮かべた。

 「実はですね、この事務所、居抜いぬきで借りたんですけど…少しいわく付きの場所なんですよ」

 「いわく付き?」

 K氏は重い口調で語り始めた。


 以前この事務所を使用していた転職コンサルタントが、ある女性の転職希望を執拗しつように否定し、最後には「転職できる場所なんてない」と罵倒ばとうしたという。

 その女性は深く傷つき、絶望の末、このビルのエレベーター内で首を吊ったというのだ。

 それ以来、エレベーターを使用した者が彼女の霊に取りつかれるという噂が立ち、K氏もそれを避けて階段を使っているのだという。

 「それでもここを選んだ理由は?」と問うと、彼は肩をすくめて笑った。

 「賃料が破格だったんです。まあ、気にしないようにしてますよ」


 ワインを空にした後、K氏は事務所に泊まると言い、私は一人でビルを出ることにした。

 階段を下り、一階のエレベーターホールに差し掛かったとき、突然、金縛りに襲われた。

 全身が硬直し、息苦しさすら感じる中、消えていたはずのエレベーターが明るく点灯した。

 鈍い音を立てて扉が開く。

 その奥から、何かがこちらに近づいてくる足音が響いた。

 足音は女性のもののようで、やがて低いうめき声が混じり始めた。

 音はますます近づき、目の前に迫ろうとしたその瞬間。


 ニャー。


 黒猫の鳴き声が耳を打った。

 同時に金縛りは解け、私は勢いよく振り返った。

 だが、エレベーターの灯りは消え、人の気配はまったくなかった。


 足元に目を向けると、あの黒猫がいつの間にか寄り添っていた。

 恐怖に震える私を見つめ、まるで「もう大丈夫」と言わんばかりの澄んだ目で見上げている。

 私は猫をそっと抱き上げ、その暖かさに少しだけ安堵を覚えながら、足早にビルを後にした。

 ビルを背にして振り返ると、黒猫は私の腕をすり抜け、一度だけ私のほうを振り返るとビルとビルの狭間はざまに姿を消した。


 あれ以来、K氏には会っていない。

 転職も別のコンサルタントにお願いしてしまった。


 彼はまだ無事だろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まれによくある話。 @ultimet_friedrice

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画