四話 瞳の世界(前)


 新生活を迎えたルピスの朝は早い。


 地平線が薄っすら明るさを帯び始めたころに、アセビの腕からするりと抜けだす。

 アセビに引き取られてから五日間。ルピスは毎日のように彼女の抱き枕にされていた。


 肌の露出の多いアセビだが、寝るときはその肌面積がさらに多くなる。

 肌と肌が触れ合うと、吸い付くように重なり合い、そこから伝わる体温はルピスに安心感を与えた。


 ファトス家では折檻を受けるとき以外に、誰かと肌が触れ合うことなどなかった。


 母親も早々にルピスへ見切りをつけ、妹にかかり切りだった。

 それをどこか羨ましく思っていたルピスは、こうして抱きしめてもらえるのが嬉しかった。


 そんな温かい拘束から寝ぼけまなこで抜け出し、身支度を整える。


 お宿の共有部。そこに用意された水を放出する魔具と桶。

 桶に魔具から放出した冷水を貯めると、歯を磨き、顔を洗う。まだどこか濁っていた意識が覚醒する。

 

 部屋に戻って部屋着から普段着へと着替える。

 ルピスがルチルの下でお世話になっている間、アセビがルチルへと買ってきた服。

 特に目立つことのない、麻のパンツと半袖のシャツ。


 着替え終わると、寝具の上でいまだに気持ちよくアセビに小さな念波を送る。

《いってきます》


 アセビからの返事はない。

 

 ただアセビの周りに漂う光がまるで彼女の代わりとばかりに点滅する。


 それを見て微笑むと、ルピスは宿を後にした。


 ◆ ◇ ◇

 

 ルピスの瞳に映る世界は光で溢れていた。


 眩しいけれど眩しくない、そんな不思議な光たちに。

 その色も赤色、青色、緑色に黄色と、光は様々な色に輝いていた。


 光はどこにでもあった。

 大地に空、雨に草木。人の周りにいる光は他の光より強い輝きをもっており、その輝きの強さもまちまち。

 目を凝らさなければならない光もあれば、アセビの周りに漂う光のように、思わず目を引くような鮮烈な輝きを持つ光もいる。


 光たちには触れられそうで、触れられない。

 

 先日から仕事場となった貴族の屋敷へと歩いて向かうルピス。

 道中で宙に漂う光へ手を伸ばすが、光はすっとその伸ばした手から逃げるように離れていく。

 そして、手の届かない距離でまた揺蕩うのだ。


 その光景はまるで光が恥ずかしり屋さんのように思えて、それをどこかおもしろく感じたルピスの顔が綻ぶ。

 光の視えるルピスだが、まだその光に手が届いたことはなかった。


 地平線が黄金色の輝き始めるころ、目的の貴族のお屋敷が見えてくる。

 その門の前には見知った顔の女性が、腕を組んで立っていた。


 胸元まで長さのある、ボリュームのある透明感漂う金髪をルーズサイドテール、琥珀色の大きな垂れ目をもつ美女――ルチルだった。

 近づいてくるルピスの存在に気がつくと、彼女の整った顔立ちが破顔した。


「おはよう、ルピス」

《おはようルチル》

 

 二人は揃って正門へと足を向けると、守衛に挨拶を交わすと屋敷の敷地へと足を踏みいれた。


 屋敷には山のような仕事がルピスを待っていた。

 食事の下ごしらえに皿洗い、部屋の清掃、庭の草木の手入れ、。


 屋敷の使用人の指示を受けて、あたふたと職場を右往左往する。

 基本的に黙ってそれを見守るルチルだが、致命的な間違いを犯しそうであればそれとなく声をかけて是正する。


 小さな体をちょこちょこと動かして働くルピス。

 

 ファトス家にいたときは、そこで働いていた者たちの苦労など知りもしなかった。

 自分たちの不自由ない暮らしが、こうして働く人たちによって支えられていたと思うと頭が下がる思いだった。

 

「そろそろお昼ごはんにしようか」

 

 ルピスが下ごしらえを手伝ったサンドイッチの入ったバケットをもった手を掲げるルチル。

 

 作業に没頭していると、あっという間に太陽は頭上へと昇っていた。


「今日は天気がいいから中庭で食べようか」

 

 ルチルの提案で、中庭の噴水のへりに座って、サンドイッチに口をつける。


 慣れない労働に疲れて正直ご飯と言う気持ではなかったが、

「お昼からもお仕事はまだまだあるよ。食べないと元気でないでしょ。元気よく働くこともお仕事だよ」

 ルチルにそう言いくるめられ、モソモソとサンドイッチを頬張る。

 

 最後のサンドイッチを頬張り、水でそれを消化器官へと流し込んだときだった。


 ルピスは視界に異変を感じた。

 

「どうかしたの?」

 それを怪訝に伺うルチル。

 

《なんか変な気がする……》

「……変? 体調が悪いの?」

 心配そうに覗き込んできたルチルにルピスは首を振る。

 

 ――なんだろう。何かがおかしい。


 周囲を注意深く見渡す。

 手入れの行き届いた中庭。そこに咲く草花は美しく剪定されており、落ち葉一つない。

 後ろを振り返ると、噴水の水が絶えず吹き上がり、薄っすらと虹を作っていた。


 噴水の水面は、波紋とそこに移る歪んだ自分の顔。

 そして、点滅する光が映っていた。


 水面に映る光は、水中の光ではなかった。

 

 空だ。

 空が騒がしかった。空の光を水面は反射していたのだ。


 ルピスは慌てて空を見上げた。

 

 晴れ渡った空に、数多の光が点滅している。

 こんな空模様は見たことがなかった。


「本当にどうしたのルピス? 様子が変よ?」

 いよいよ訝しむルチルに、

《空が……変な感じ》

 ルピスは空を見上げながらそう伝えた。


 それ以外になんと表現すればいいのか、わからなかった。


 ルチルもルピスに釣られる様にで空を見上げるが、

「……私にはいいお天気にしか見えないけど」

 なおも空を見続けるルピスに対して、

「本当に大丈夫? もし体調が悪いなら言ってね?」

 ルチルは少し焦った様子を見せる。

 

 ルピスの身に何かあれば、ルチルの監督不行届きという事態にもなりかねない。

 加えて、短い付き合いでもわかる、彼女の面倒見のよさがそうさせているのだろう。


《ルチルは何か感じない?》

「何かって……」


 ――まただ。またこれだ。


 ルチルがルピスへ向ける視線には見覚えがあった。

 

 腫れ物を扱うような視線。

 

 そこに宿るのは恐れと微かな苛立ち。

 理解できないことを話し始めたことに対する恐怖と嫌悪感。


 ファトス家では光の話を口にするたび、祖父や教育係から折檻を受けてきた。

 それゆえに、いつしかそれを口に出すことすら憚るようになった。

 

 もしかしたら外の世界では違うのかも。ルチルならわかってくれるかも。

 

 その気持ちで口を開いたルピスだが、返ってきたのは同じ反応だった。

 ルピスにしか見えない瞳の世界。


 ――ぼくにはいったい何が視えているの?


 自分で自分が信じられなくなる。


《ごめん。変なこと言って。大丈夫だからお屋敷の中へ戻ろう》

「う、うん。でも、本当に体調が悪かったらすぐに言ってね?」


 なおも眉根を寄せるルチル。

 要らぬ心配させたことを申し訳なく思いながら、ルチルへ生返事を返すと、二人は昼からの仕事に向かうべく、屋敷へと足をむけるのであった。


 

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