三話 新生活(後)
「ここが今日からルピスが働くことになるお屋敷よ」
ルチルに連れられて足を運んだのは、貴人の住まう都市の一角にある大きなお屋敷。
ルピスの生家であるファトス家もその区画にあり、ファトス家はその中でも随一の規模を誇っていた。
そんなファトス家には及ばないものの、案内された屋敷もアセビの宿のある一般区画の建築物と比べると途方もなく大きい。
その屋敷はファトス家の屋敷とは離れた場所にあったので、ルピスは少しほっとした。
いま家族に会えばどんな顔をすればいいかわからなかったからだ。もし、ルピスが奴隷になったと家族が知ったときの反応を思うと気分が暗くなった。特に当主である厳格な祖父がそれを知ったら黙っていないだろう。怖くなって小さく身震いをすると、それ以上は考えるのをやめた。
「もしかして、ルピスは来たことある?」
ルチルの軽い口調の質問に、
《ぼくは家から出してもらえなかったから……》
ルピスの反応にルチルは、やってしまった……と目を瞑って渋い表情を浮かべた。
気を取り直すように話を続ける。
「ねぇ知ってた? もしかしたら、ルピスはここで働いていたかもしれないんだよ?」
《……どういうこと? ぼくはこれからここで働くよ?》
「うん。そうなんだけどそうじゃないの。私が言いたいのは――もしいまのご主人様がいなかったら、ルピスは今ごろこのお屋敷で働いていたかもしれないの」
アセビがいなければルピスはここで働いていたと言うアセビ。
ルピスは言っている内容はわかったが、なぜ可能性があったのかがわからなかった。
《えっと……どういうこと?》
首を傾げるルピスに、
「ふふ、ルピスは覚えていないかもしれないけど、ルピスが競りに掛けられたとき、二人の男性が競り合ってたの。彼らを覚えている?」
競りに掛けられたあの日は、緊張と恐怖に包まれていた。
アセビに引き取られるまでの記憶は霞がかかったような感覚。
それでも言われてみれば、確かにアセビが来る前までは、二人の男がルピスをめぐって競っていたことを思い出すことができた。
でっぷりした体格に口髭を蓄えた商人らしい商人と、他の参加者とは一線を画す、燕尾服に身を包んだ老紳士。
「その紳士はなんとこのお屋敷の執事さまだったのよ。いまのルピスのご主人様が入札する直前に最も高値で入札していたのが執事さまだったから、もしご主人様がいなかったら、今ごろルピスは既にここで働いていたかもしれないの」
その話を聞くと何とも不思議な気分になった。
既に働いていたかもしれない場所に、これから働きにきた。そう考えると何か強い巡り合わせを感じずにはいられない。
二人は屋敷の守衛に取り次ぐと、屋敷の使用人に招かれて屋敷へと足を踏み入れた。
屋敷の中は外観通り、広々としていた。
手入れのされた木花に噴水。門から邸宅へと続く道には落ち葉一つなかった。
邸宅の前で待ち受けていたのは一人の眼鏡をかけた老境に差し掛かろうかという紳士。
白髪の混じった銀髪をオールバックで纏めた痩躯の体に、一本の棒でも通したかのような姿勢の良さはその年齢を感じさせない。
彼こそがつい先ほどまで話していたルピスを競り落としかけた老紳士その人であった。
朧げだった競りの記憶も、その顔を見ると補完された。確かにあの日、あの会場にこの老紳士がいたことをルピスは認識した。
だからだろうか。その皺が深く刻まれた顔を見たときに、どこか懐かしいと感じたのは。
「よくいらっしゃいました。ルチルさんとルピスくんですね。魔法協会からお話は伺っています」
視線が合うと、その顔に深く刻まれた皺と共にその表情が綻んだ。
相好を崩した老紳士は、それまでの厳めしい顔つきから途端に優しそうな顔つきへと変わった。
「私はシバス。この屋敷の執事を務めております。以後お見知りおきのほどをお願いします」
二人が軽く会釈を交わすと、
「お久しぶりです。と言っても、覚えていらっしゃるかわかりませんが……」
微笑んでルピスを見つめた。
《覚えているよ。あの会場にいたの》
ルピスの念波が届くとシバスの目が驚いた様子で、
「おや、魔法が使えるようになったのですか?」
その問い掛けに頷きを返すと、
《うん。アセビが教えてくれた》
アセビの反応に嘆息の声を漏らしたシバスは、
「どうやら"
やはり優しい眼差しをしていた。
その眼差しにルピスの心は不思議と温かくなるのを感じた。
「――さて、立ち話はこれくらいにしてお仕事のお話に移りましょうか」
シバスの話は労働内容から始まり、待遇、服装、注意点など多岐に渡った。
聞き漏らすまいと一生懸命に耳を傾けるルピスは、都度うんうんとその首を縦に揺らす。
肝心な仕事の内容はと言うと、依頼書に記載されていたとおり、料理の補助。主に仕込みと食器洗いがルピスの仕事。加えて、空き時間があれば屋敷の清掃を手伝ってもらうということであった。
「――最後に、もしお嬢様からご指名があれば、ルピスくんにはお嬢様のお相手もしていただきたいと思います」
お嬢様はルピスくんと同年代なんですよ、とシバスは付け加えた。
これまで黙ってルピスの後ろで話を聞いていたルチルが、慌てた様子でルチルが口を挟む。
「ちょっと待ってください。それは魔法協会に出された依頼の範囲外ではありませんか?」
一歩前に出たルチルに、セバスは首を傾げると、
「そうでしょうか? 今回の依頼は屋敷の雑事やその補助。お嬢様のお相手をしてくださると私どもは助かります。
それにルピスくんは元とはいえ貴人。何か問題がありますでしょうか?」
「問題大ありです。それは私たちが期待していた仕事の範疇を越えています。
私がルピスにこの仕事を斡旋したのは、彼に炊事や家事の経験を積ませるためです」
「えぇ、そこは存分に積んでいってください」
「お嬢様の相手は今回の件から外していただいてもよろしいでしょうか。それとも――なにか外せない理由があるのでしょうか?」
さぐるような視線でセバスを見つめるルチルに対して、セバスはその顔に笑みをたたえたまま、
「……つまらない詮索はお良しになった方がよろしいかと。ルチルさんとはいいお付き合いでありたいと思っております」
ルピスを差し置いて、いつの間にか緊張した空気が二人の間に流れていた。
どこか重苦しい空気にも関わらずシバスは笑みを浮かべると、
「ここは依頼を受けるルピスくんの意思を尊重する、というのはどうでしょうか? 私は一人の冒険者である本人の意思を尊重したいと思います」
「……いいでしょう」
それを探るような目つきで首肯したルチルがルピスへと向き直る。
「ルピス。どうやら依頼内容にちょっとすれ違いがあって、この依頼を受けると家事以外にも、貴族のお嬢様のお相手もしなくちゃならないみたいなんだ。
どうする依頼は受けないでおく? それとも受ける?」
その口ぶりと硬い表情から、ルチルがこの依頼を受けて欲しくないんだろうな、ということはなんとなく察していた。
その後ろではシバスが好々爺とした柔らかい笑みを浮かべて、二人のやり取りを見守っている。
ルピスは悩んだ。
保護者のような存在であるルチルが止めた方がいいと言うなら、止めた方がいいのかもしれない。
商人として世間をよく知る者のセリフ。これまでのルチルのシバスへの対応を見るに、それもきっとルピスを思ってくれてのことだろう。
それでもなぜだろう。
ルピスはこの依頼を受けたいと思った。
念波が使えるようになったことで自信がついたのか、手入れの行き届いた様子の屋敷がキラキラと輝いていたからか、それは自分でもよくわからない。
セバスの周りに浮かぶ光も温かく、そこに悪意は感じられなかった。
《――ぼくはこの依頼を受けてみたい。せっかくルチルが選んでくれた依頼だし、やる前からぼくは逃げたくない――と思うのはダメかな……》
まるで太陽を直視したかのようにルチルは目を細めると、
「……ルピスは若いね」
優しく微笑んだ。
ルチルがそれ以上ルピスを引き留めるのに言葉を費やすことはなかった。
《ぼく、依頼を受けるよ》
「話は決まりましたね。もちろんルチルさんの言い分もわかります。いらぬ誤解を招いたのはこちらの不手際。その分の報酬の上乗せは私が請負いますゆえ、溜飲を下げていただけると幸いです」
「状況を説明した上で依頼を受ける冒険者本人が承諾したのだから、私にこれ以上とやかく言う権利はないわ」
ルチルは肩をすくめて笑った。
こうしてルピスは貴族の屋敷で働くことが正式に決定した。
その後、ルチルとシバスはまた細かい話を交わし、その日のうちから仕事が始まった。
ルピスにとって、初めての対外的な労働。家族やアセビ、ルチルといった身内以外との共同作業。
ルチルに見送られ、宿へ帰るころには、慣れない環境にクタクタだった。
ご飯を食べる元気もなく、アセビに断って先に床へと就く。それを見てアセビはおもしろそうに笑っていた。
この日からルピスは日の出と共に屋敷へと足を運び、日中は家事に勤しみ、日没と共にルチルに見送られアセビのいる宿へと戻る。
そんな新しい日々が始まった。
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