課題短編「雪」
木村 瞭
第1話完結 雪に浄められて
新宿の街路を遥か下に見下ろす高層マンションの柴田の部屋で、二人はベッドに並んで横たわっていた。仄かな灰色の灯が二人の身体を包んでいる。バルコニーのガラス戸を冷たい雨が叩いていた。
「二年前、あなたが日本に帰って来て、直ぐに私を捜したのは何故?」
仄暗い寝室で服を身に着けながら智紗が訊いた。
「そりゃ君をずっと愛していたからだよ。君を忘れたことは一度も無かったんだ」
「嘘!男の意地だったんでしょう、唯それだけ」
「そうじゃないよ。真実に愛していたんだよ」
「でも、私は結婚していた」
「ああ」
智紗が婿に選んだのは開業医の内科医師だった。
夫は午前診、午後の往診、夜診と休み無く働いた。医院には常に患者が溢れ評判は上々、帰宅はいつも午後九時過ぎ、休日は趣味のカメラを持って街や野山へ撮影に出かけた。二人の生活は極めて健全で堅実だった。現実的には取り立てて言うべき不満は無かった。
「わたしは夫と絶対に別れることは無い、と言ったわね、あなたに」
「ああ、君はそう言ったよ、あの最初の時に。日本に帰って来て二か月後だった。僕は直ぐに君を探し当てて・・・確かに君はそう言った。僕もその言葉に耳を傾けた。でも、僕は信じちゃいなかった。“絶対に”と言う言葉はそれ程意味の有る言葉じゃないよ」
智紗はドレスを着終えていた。シックで落ち着きのある佇まいだった。
「違うわ。“絶対に”と言う言葉はとても意味の有る重い言葉なのよ」
「じゃ、何故、君は僕と逢うんだ?こうして」
「そりゃ、若い時も今もあなたを愛しているからよ。ただそれだけよ」
彼女は寝室から暗いリビングへ出て行った。その後に従った柴田はリビングが異様に仄白く浮かび上がっていることに気付いた。
雪・・・
雨がいつの間にか雪に変わっていた。暗い空の高みからぽってりとした雪片が後から後から舞い降りて来る。
「雪だわ・・・」
智紗が呟いてバルコニーのドアを開け外に踏み出した。しんと静まり返った街にはどこか厳かな雰囲気が漂っている。柴田が隣に立って手すりに摑まった。周囲のビルは白く渦巻く雪の背景に沈んでいる。
東京に降る雪は、雪国に降るそれとは少し趣を異にしていた。雪は喧騒と騒乱の大都会をふわりと白いベールで包み込み、仮令それは僅かな間だとしても、いつにない静けさを街にもたらしていた。特に夕刻あたりから降り始める雪は、人々をしていつもより早くに真直ぐに家路へと急がしめ、深夜になる頃には、街には人も車も疎らになる。普段、眠ることのない東京の街、人工物に溢れ返る空間も、この時ばかりは真っ白な雪に覆われて、暫し休息をするかのようにひっそりとその身を横たえ、静かに目を閉じる。大都会の象徴の如き路地裏に置かれたゴミ箱の群れでさえ、刹那の美しさを纏うのだった。
「普段はなかなか見ることの出来ない大都会、東京の雪の風景ね」
「そうだ、年に数回あるかないかの風景だ」
路面の凍結や交通機関の乱れを気にする大人達をよそに、子供達は校庭や公園、家の前で大はしゃぎする。雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり・・・
「確かに思い出してみれば、子供の頃の雪は楽しかったな。寒さも冷たさも気にならなかった。こうして都会で見る雪は、そんな童心を蘇らせてくれるね」
「あの日、私たちも雪の中を歩き回ったのよね、寒さも忘れて」
「そうさ、しっかり手を繋ぎ合って・・・」
「あなたの手がとても温かく感じられたわ」
「静寂の白に包まれたあの夜の東京の雪景色を憶えているかい?」
「雪の増上寺で、夜空に幻想的に浮かび上がる東京タワーを見たわ」
「雪雲がネオンに反射して、夜だと言うのに不思議な明るさがあった空に、浅草寺の五重塔のシルエットが見事に映えていた」
「根津では江戸から続く下町も雪の中に白々と眠っていたわ」
「上野の不忍池では路傍のお地蔵さんも雪を被っていた」
「東京で起きた歴史的な大事件の幾つかは雪と結びついているのよ。“桜田門外の変”や“二・二六事件”、それに“赤穂浪士の討ち入り”がそうなの。三百年前の“赤穂浪士討ち入り”はさておいても、“桜田門外の変”と“二・二六事件”というのは、その結果如何では、もしくは事件の有無如何では、もしかして、現在の日本の有様さえ変わっていたかもしれない大事件が、この東京の雪と結びついていると言うのはとても興味深いわね」
「今度雪が降ったら雪だるまでも作ってみようか、二人で」
「雪の降り頻る中で抱き合ったのよ、わたしたち」
「そう、十年も昔のあの晩に」
「ええ、二人が未だ若かったころ」
いつの間にか智紗の声が潤んでいた。雪はしんしんと東京の街に降り続いている。
柴田は智紗の肩に手を置いた。
彼女の髪に降りかかった雪が溶けている。
不意に智紗が顔を上げて、言った。雪の為にメイクが崩れていた。
「もうみんな過ぎてしまったことだわ・・・ねえ、私達、もうお終いにしましょう!」
「君には旦那が居るからな」
柴田が突き放すように言い返した。
「そう、私には主人も居るし子供も居るの」
「君が恨めしいよ。君の足枷になっている子供も恨めしい。君の・・・」
「止めて!」
智紗は袖で涙を拭った。
その腰に腕を回すと柴田は智紗を抱き寄せた。雪は全てを覆い尽くし街は死んだように沈黙している。
「なあ、僕と一緒にやり直さないか?」
柴田は言った。
「旦那と離婚して、僕とこの東京で暮らすんだ」
智紗はつと身体を離してから、柴田と向き合った。
「駄目よ。私はこれ以上の心の負担をこれからも背負い続けることは出来ないわ。それに、あなたへの負担にもなりたくないし。こんなことはあなたにとっても決してプラスにはならないわ。あなたは結婚できる若い良い女性を見つけて交際合うことよ。もう是っ切りにしましょう、わたし達」
智紗は徐に部屋の中へ取って帰し、玄関の方へ歩み寄った。そして、出口の前で柴田の方へ向き直って一言、さよなら、と囁くように言った。それだけだった。
柴田は去って行く彼女を見送らなかった。
彼には、今日、智紗が来た時から予感があった。これで終わるのではないかという胸に騒ぐものが在った。
ドアの閉まる音が聞こえた。
それでも彼はバルコニーに立ち尽くしたまま、降り止まぬ雪を眺めていた。頬が凍てつき両手が氷のように冷たくなるのを感じながら・・・
「行かないでくれ~!」
声が迸り出た。が、答は無かった。
東京の街は雪に埋もれて深閑と静まり返っていた。
課題短編「雪」 木村 瞭 @ryokimuko
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