どうか末永くお幸せに

榛名丼

どうか末永くお幸せに


「ねぇねぇお姉様! お姉様ったら!」



 ――遠い記憶を、シェリーは辿る。


 シェリーの妹のフィーナは、無邪気で可愛い子だ。

 時折、我が儘な言動で周囲を困らせることもあったが、妹のそんなところも含めてシェリーは彼女のことが好きだった。


 森の中を探検しましょう、と意気込むのについていったら、二人で迷子になったことがある。

 怖い夢を見たの、と震えながら部屋を訪ねてきたときは、あまりに愛おしくて抱きしめてしまった。


 シェリーとフィーナは仲の良い姉妹だった。


 ……確かにそうだったのだと、シェリーは思う。

 今やそうして静かに過去を振り返ることすら、困難ではあったけれど。


 すべてが変わってしまったのは――シェリーが、レイモンド・カテ伯爵の婚約者に選ばれてからだった。



「あらぁ、お姉様。そんなところで濡れ鼠になってどうされたの?」



 頭上から降ってきた声に、シェリーはゆっくりと顔を上げる。

 髪先から、顎から、水の雫がいくつも滴っていく。


 不様な姉を、キャハハと声を立てて笑っているのは実の妹のフィーナだった。



「……にわか雨、かしらね……。困ったものね」



 なんとかシェリーがそう返すと、フィーナはつまらなそうに鼻で笑い、三階の窓辺から去って行く。

 ひとり取り残されたシェリーは、ぎこちなく引き攣っている表情筋に触れた。


 自分はちゃんと笑えていただろうか。それさえももう、よく分からなかった。



 麗しの貴公子――レイモンド・カテ伯爵。



 社交界でも憧れの的である彼と、子爵家の娘であるシェリーが出会ったのは、三ヶ月前のこと。

 シェリーが十六歳となって迎えた社交界デビューの場である、夜会での出来事だった。


 目が合った一瞬で、シェリーはレイモンドに心を奪われた。

 彼の日の光をあまねく集めたような金の髪の毛と、青い空を映した双眸の虜になったのだ。


 信じられないことに、レイモンドも一目見てシェリーに惹かれたのだという。

 出会ったその日の夜会で、二人は手と手を取り合ってダンスを踊った。


 そうしてざわめくホールを密かに抜け出して、庭園の隅にある四阿で口づけを交わした。

 今まで、そんな風に誰かに恋をしたことも、誰かと燃えるような恋をしたことも、シェリーにはなかった。

 レイモンドは、シェリーの知らないことをすべて教えてくれた男だった。


 だがそれを、快く思わない人間が居た。

 それがシェリーの妹のフィーナだった。



「…………お姉様、レイモンド様と婚約したの?」



 ある日、浮かれて屋敷に戻ったシェリーにフィーナはおずおずと訊いてきた。

 まさに今日、シェリーは教会にてレイモンドとの婚約を結んできたところだった。お互いの両親からの了承も得た、正式なものだ。


 笑顔で首肯すると、何故だか顔を青白くして、フィーナは部屋に籠もってしまった。

 そのときには、体調でも悪いのだろうかとシェリーは心配しただけだった。



 ――だが次の日から、フィーナは豹変してしまったのだ。



 あるときは、頭から水を掛けられて。

 階段で突き飛ばされて。

 食事に虫の死骸を入れられて。


 そうした嫌がらせが、ここ最近は毎日のように続いている。

 そしてそれだけではない。


 フィーナはよく、カテ伯爵家の屋敷へと遊びに行くようになったのだ。

 もちろん、レイモンドの婚約者であるシェリーに許可もなく――である。


 そうして帰ってくると、シェリーの元に一目散にやって来て、「伯爵がこんな話をしてくれた」「伯爵とこんなところに行った」と自慢げに語り出す。

 昨日に至っては「伯爵が贈ってくれた」と腕輪を見せびらかされた。


 緻密な透かし彫りが施された、美しい金色の腕輪だった。

 この国の風習で、男性は自身の髪色か瞳の色の装飾品を愛する女性に贈るというものがある。


 まばゆいほどに煌めく金色。……彼の髪の色。

 シェリーは一度もそんなものを、もらったことはなかったのに。


 そのせいで、どうしようもなく羨む目で――嫉妬する女の顔で、シェリーはフィーナの手首を見つめてしまった。

 それがさらにフィーナの嘲りを呼ぶことなど、分かりきっていたのに。



「あたしより先に社交界デビューできて良かったわね、お姉様。そうじゃなければ、伯爵はあたしに婚約を申し込んでいたんじゃないかしら」



 クスクスと嘲笑うフィーナの声に、近頃では頭痛を覚えてしまう。

 もう、彼女の言葉に、シェリーは作り笑顔を浮かべる気力もなかった。



(……フィーナは、変わってしまった)



 少々我が儘で、お転婆だった愛らしい妹はもう居ない。

 今のフィーナは、姉を傷つけることを楽しむだけの陰険な少女だった。


 きっと、恋は人を変えてしまう。

 恋は人を狂わせるのだ。



(フィーナは変わった。そして、あの人だって……)



 シェリーは日に日に憔悴していった。

 両親や使用人は、ろくに食事も取らずに自室で横になってばかりのシェリーのことを心配してくれた。


 あるときは部屋から窓の外をぼんやりと眺めていたら、庭でレイモンドとフィーナが逢い引きし、唇を交わしていたこともある。

 シェリーはますます心を閉ざした。窓にはカーテンを引き、空気も入れ換えず、誰とも会わなくなっていった。


「私からフィーナに注意しておこう」という父の言葉にも、しかしシェリーは首を横に振った。



(そんなの、あまりにも惨めなだけだわ……)



 そんな日々が続いた、ある日のこと。


 見舞いだと称して部屋を訪れたレイモンドを、シェリーは厚みのあるガウンを羽織って迎えた。

 それでも以前より痩せ細っているのはすぐに分かっただろうが、レイモンドはそのことについて何も言わない。


 そして、青白い顔をしているシェリーに開口一番に言い放った。



「シェリー、僕は君との婚約を破棄するつもりだ」



 ――ああ、やっぱり。



「……どうして?」

「わざわざ理由を言う必要があるかな?」



 情熱的な恋の相手を見る目としては、レイモンドの瞳にはあまりにも温度がなかった。

 既に彼は、シェリーへの関心を失いつつあるのだろう。それだけはシェリーにも理解できた。



「聞いたよ。君は、家ではフィーナのことを虐めているそうだね」



 シェリーは笑った。うまく笑えていたかどうかは、やはりよく分からない。

 きっとフィーナは、レイモンドを手に入れるためにあらゆる手を使ったのだろう。これはそのうちのひとつなのだろうと、シェリーは思う。



「陰気で、惨めったらしいだけの女。……そんな君と違って、妹のフィーナは本当に気立てが良くて可愛らしい子だ。僕はフィーナと婚約しようと思う」



 シェリーの心を冷たいナイフで切りつけ続けて、レイモンドは足早に部屋を出て行った。


 その日のうちに、レイモンドとフィーナの婚約が発表された。


 嬉しいわ、と子どもっぽく飛び上がって、フィーナは喜んだことだろう。

 ありありと、その様子が目蓋の裏に思い描けて――シェリーはもはや、眠ることさえ満足に出来なくなっていた。


 それから一か月と経たず。

 シェリーは叔父の領地へと向かうこととなった。


 表向きは静養のためだが、実際は付きまとう悪評から逃れるためであったことは誰の目にも明らかだっただろう。

 レイモンドに婚約を破棄されたシェリーは、傷物扱いされ、若くして貰い手がないと嗤われる立場に落ちていた。


 叔父が治めるのは辺境の地なので、そこでなら、まだ幾分か安らげるのではないかという両親の気遣いだったが、ただの厄介払いだろうとシェリーは思ったし、それでも良かった。

 レイモンドとフィーナの顔を見ずに済むのならば、辺境だろうと、地の果ての山脈だろうと、暗い海の底だろうと、どこであろうとマシなのだから。


 出立の日は、両親と使用人と――そして当たり前のように、フィーナが顔を見せた。


 必死に止めたのだが、と申し訳なさそうにメイドが言う。

 フィーナはどうしても姉に別れを告げたいのだと、周囲の制止を振り払ったのだという。


 最後まで、すべてを失ったシェリーのことを馬鹿にしたくて仕方がないのか。

 迎えに来てくれた従兄のゼンに手を引かれ、力なく馬車に乗り込むシェリーに、綺麗に着飾った若き伯爵夫人のフィーナが明るく声を掛けてくる。



「さようなら、お姉様。どうかお幸せにね!」

「……ええ。あなたこそ、どうか末永くお幸せに」



 シェリーはフィーナを一瞥もせず、そう返した。


 馬車の扉が閉められる。


 車輪の軋む音に紛れ、時折、窓の外からは小鳥の囀る声が聞こえた。

 しばらくシェリーは、目を閉じて、ただ揺られるままでいた。


 隣に座った従兄のゼンも、何も言わない。

 それは彼の優しさなのだろう。シェリーの現状について訊きたいことは多いだろうに、口を噤んでくれているのだ。


 ……だが、やがて堪えきれずに。

 シェリーはぽつりと呟いた。



「私、思ってもないことを言ったわ」



 シェリーの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

 とうに枯れ果てたと思っていたそれは、未だ穴だらけの胸のどこに残っていたのだろう。



「フィーナの……あの子の幸せを……心から願えなかったの。なんてひどい姉なんでしょう」



(『どうか末永くお幸せに』――なんて)



 あんなのはただの、呪いの言葉だ。


 今やシェリーは、フィーナに死んでしまえとさえ思っていた。

 そう思うことで、脆く砕け散りそうな心を必死に守ることしか出来なかったのだ。



「……シェリー」



 伸びてきた腕が、シェリーの肩を抱き寄せる。


 ゼンと最後に会ったのは、もう八年も前の話だ。

 いつの間に、彼はこんなにも逞しい体つきになっていたのだろうか。

 こんなにも低く、掠れた声で話すようになったのだろうか。


 そんなことをぼんやりとシェリーは思う。



「もうあんな恥知らずな妹のことも、無礼な伯爵のことも忘れるんだ。いいな?」



 言い聞かすように頭上から言われ、シェリーは力なく首を横に振る。

 涙の雫がぽたぽたと、痩せた手のひらの上に落ちた。



「……無理よ。どうしたって、忘れられないわ」



 初めての恋の記憶も。

 彼と過ごした日々も。


 そして、妹との楽しかった思い出だって、どんなに色あせても――本当は片時も忘れられずにいる。



(大好きだったのよ……)



 苦しげに嗚咽するシェリーの細すぎる肩を、尚更強く、ゼンが抱く。

 それでも決して痛くはなかった。



「なら俺が一緒に居て、お前を……シェリーを、たくさん笑わせてやるから」

「…………」

「だから、いつか忘れろ。もう自分を責めなくていい」

「……うん。うん」



 子どもの頃のように、シェリーは頷く。

 ゼンはただ、そんなシェリーの頭を撫でてくれた。


 忘れるなんて、到底無理な話だ。

 それでも、そう言ってくれる優しさが胸にしみるようで。


 シェリーはゼンに、大人しく身体を預けたのだった。



























「……怖い夢を見たの」



 そう言って。

 フィーナはよく、二つ年の離れた姉の部屋を訪ねた。


 たったひとりの姉は、そうしてフィーナが訪れると、ふわりと微笑んでいつも「大丈夫よ」と抱きしめてくれた。



「どんな夢を見たの?」



 優しく尋ねられると、フィーナは困ってしまって、きゅっと唇を噛むことしか出来ない。

 するとシェリーは眉を下げて、



「そうよね、お話ししたら思い出しちゃうわよね。ごめんねフィーナ」



 そんな風に謝って、またフィーナのことを、宝物のように抱きしめてくれるのだった。

 温もりに包まれ、ゆっくりと目を閉じて……それでもフィーナの心臓は、ドキドキと脈打っている。



(…………言えないわ)



 言ってしまえばきっと、優しい姉を困らせることだろう。



(言えないわ。お姉様が死んでしまう夢――――だなんて)



 フィーナが繰り返し見る夢の中で。

 何度も、何度も、シェリーは儚く命を散らしていった。


 原因は、彼女が将来結婚することとなる夫の不貞行為だった。

 幼いフィーナには理解するのが難しいときもあったが、それでも大体のことは分かっている。


 屋敷のメイドや、平民の娘や、売春婦……数え切れないほどの女に、その男は手を出した。


 シェリーは夫の所業を知って傷ついては、心を壊していく。

 その結果、自ら命を絶ってしまう。あるいは、不注意から事故に遭ってしまう。

 必死に夫を問い詰めた結果、言い合いになり――殴られたり、突き飛ばされて命を失うこともあった。


 夢はいつも、シェリーが死んだところで終わり、数日後にまたその夢を見る。

 いつも内容は少しずつ違っているのだが。


 変わらないのは、シェリーがある男と出会い、死ぬことだけだ。



(……でも、夢はただの夢、だもの)



 幼いフィーナは不安を抱えながらも、そうしてあまり気にしないことにしていた。


 大好きな姉が死ぬのは嫌だ。何よりも恐ろしい。

 その夢を見ると、目覚めたときは必ずといっていいほど、フィーナの両目からは涙がとめどなく溢れている。


 だけど夢の出来事なのだから、どうしようもなくて……姉を助けてあげたいと思っても、夢の中のフィーナは失敗ばかりを繰り返してしまう。



(…………夢、なのよね?)



 だが、そう必死に思い込んでいたことを――数年後に、フィーナは後悔することになった。

 それは、シェリーが社交界デビューして間もなくのことだった。



「……お姉様、レイモンド様と婚約したの?」

「ええ。フィーナ、あなたも祝ってくれる?」



 鮮やかなドレスを身に纏い、キラキラと瞳を輝かせるシェリーは艶やかで、なんとも美しかった。


 恋をしているからだ。それが姉の美貌をさらに煌めかせているのだと、フィーナにも分かった。

 何も知らなければ、「おめでとう」とそんなシェリーに抱きついて祝福することが出来ただろう。


 だが、それを聞いたフィーナは顔を青くして、自室のベッドに引き籠もることしか出来なかった。



(レイモンド・カテ伯爵……夢の中の、お姉様の夫)



 まさか、と思う。

 あの夢は、ただの夢ではなかったのか。


 これから先の――未来のことを警鐘していたのか。



(どうしたらいいの)



 だとしたら……そう遠くない未来、シェリーは屈辱と絶望の果てに、命を落とすことになる。



(駄目よ。だけど正解が……、正解が分からないわ)



 今まで、何度も何度も――繰り返し、シェリーが命を落とす夢を見てきた。


 夢の中のフィーナは、大好きなシェリーを何度も助けようとしていた。

 だが一度たりとも、シェリーが生きたまま、笑顔で終わる夢はなかったのだ。


 あんな男はやめて、と散々レイモンドの真実を伝えても、困った顔をするばかりで。

 夜会に行けないように妨害しても、次の日か翌週には、偶然レイモンドと出会い同じ末路を辿る。


 耐えかねたフィーナが刃物を手に赴き、レイモンドの首を掻き切ったこともある。

 だが、そのときも――シェリーは妹が罪を犯した責任を取ると、自死の道を選んでしまった。



 シェリーはレイモンドに夢中なのだ。

 外面だけは完璧に整えられたあの男の魅力の虜となり、囚われている。

 だからフィーナが何を言っても、シェリーには届かない。



「…………っっ」



 考えれば考えるほどに、フィーナの呼吸は荒くなっていく。


 もはや、いま自分が立っているこの場所も、ただの夢幻に過ぎないのだろうか?


 姉は恋に落ち、男と結婚し、ボロボロに壊されて……やがて死ぬけれど。

 また何事もなかったように甦ってみせて、フィーナに笑いかけてくれるのだろうか?


 否――そうだと、しても。



(目の前でお姉様を失うのには耐えられない……)



 あの優しい人が、何度も傷つき、苦しみ、悲しみの果てに死んでしまうなんて結末は許せない。

 こんな夢物語、他の誰に明かせるわけもなく、頼れるわけもないが。


 だからこそ。



(あたしが――そうよ。あたしが、お姉様を助けるのよ)



 それを出来るのは、自分しか居ない。

 フィーナは決意を固めた。


 次の日から、フィーナはシェリーへの嫌がらせを始めた。

 夢の中のフィーナが、思いつきながらも一度たりとも取らなかった方法だ。


 シェリーを冴えない女だと嗤い、侮辱し、心を切り裂いていく。

 そうしながらレイモンドに二人きりで会い、彼が自分に惹かれるように誘導していった。



「フィーナは、いけない子だな。僕は君の姉と婚約している男なのに」

「そんなこと言って。レイモンド様こそ、この手はなんです?」



 腰を抱く熱い手を指させば、レイモンドはくすりと笑う。



「だって君が可愛いんだよ、フィーナ」

「レイモンド様……」



 甘えるように名前を呼んで、フィーナはレイモンドに抱きついた。


 舞台やサーカスを鑑賞し、宝石店や服飾店を巡って。

 髪色の贈り物をされれば、フィーナはきゃあと声を上げて喜んでみせた。


 そうして家に帰ると、レイモンドとの出来事をシェリーに自慢してみせる。


 姉を助けるために、姉を虐げて傷つける。

 我ながら馬鹿馬鹿しいと思う。時折、ふと我に返ると、叫び出したいほどの狂気で頭がおかしくなりそうだった。


 シェリーが自室から出てこなくなってからは、レイモンドを誘って屋敷の庭で抱き合った。


 シェリーが、レイモンドへの一切の愛情を捨て去れるように。

 憎悪だけでいっぱいになるようにと願いながら。



(今すぐ、アンタを殺してやりたいわ。――レイモンド・カテ)



 レイモンドが知ることはないだろう。

 いま、腕の中で恍惚と頬を染めている女が、どれほど自分のことを憎んでいるかなんて。



 ――そうして、すべてはフィーナの思惑通りに進んだ。



 シェリーとレイモンドの婚約は破棄された。

 夢の中のフィーナがなし得なかったことを、現実のフィーナが成し遂げたのだ。


 そういえば姉を虐めるようになってから、次第にあの夢は見なくなっていった。

 きっと、夢の失敗をフィーナが乗り越えたからなのだろう。そう思うと、少しだけほっとする。


 そうして婚約を破棄されたシェリーは辺境へと旅立つことになった。

 見送りにはレイモンドと結婚したばかりのフィーナも行った。姉のことを思うなら、そうすべきでないと理解してはいたが……どうしても最後に、一目でいいから会いたかったのだ。


 ――久方ぶりに目にする姉の姿は、今すぐに倒れそうなほどやつれていて。


 フィーナはそれでも、笑みを崩さなかった。

 ここで少しでも手抜かりがあれば、こんなことをした意味がなくなるから。



(大丈夫。……お姉様は、大丈夫よ)



 シェリーには、従兄のゼンが居る。


 辺境の土地に居る彼もいくつかの夢の世界の中では、フィーナと同じようにシェリーを助けようと躍起になっていた。

 シェリーが死んでしまって閉じかけた世界の終わりで、彼が伯爵に憤怒の形相で殴りかかった場面だって、何度となく見たことがある。



(お姉様をよろしくね、ゼンお兄様)



 そう心の中でフィーナは呼びかける。

 ゼンは視線に気がついたのか、顔を上げたが――勇ましい目は、フィーナのことを軽蔑するように見遣るだけだった。


 馬車に乗り込んだシェリーに向かって。



「さようなら、お姉様。どうかお幸せにね!」



 わざと明るい声を出して、フィーナは言った。

 そうしなければ、込み上げる思いが唇から漏れ出てしまいそうだったから。



「……ええ。あなたこそ、どうか末永くお幸せに」



 もうシェリーは、フィーナの顔を見ることもなかった。

 あの優しい姉が、ただ、冷たく凍てついた言葉を告げただけだった。


 それが、自分のやったことの答えなのだろう。

 そう思うと、今すぐに涙が出そうだったが――フィーナは堪えた。


 だってシェリーは生きている。

 生きて、あのおぞましい男の手から逃れようとしている。

 それをフィーナは何よりも誇りに思った。


 御者が鞭を打ち、馬車がゆっくりと動き出す。


 平坦な道を進む馬車の上を、慌ただしく鳥が飛んでいく。

 風に長い髪を遊ばれながら、フィーナはその光景を見上げ、目を眇めた。


 灰色の空に、地味な羽色が溶け込んでいく。



(あたしも、鳥になれたら良かったわ)



 両の翼で風を切って、彼方まで。



(そうしたらいつだって、お姉様に会いに行けるのに。そうよ、いつだって……)



 ……気がつけば、もう誰の姿もない。

 シェリーの見送りに来た人々は、既に帰ったのだろう。


 もう誰にも、姉にも、二度と聞こえないと分かっているから。

 心からの祝福の言葉を、ようやくフィーナは口にすることが出来た。


 どうか、と、両手を祈りの形に組み、ただそれだけを願った。






「大好きよ、誰よりも大好きよ、あたしだけのお姉様。……どうか末永く、お幸せに」






 …………それから三年後。


 辺境の地で、とある侯爵家の令息と令嬢が婚礼の儀を挙げた。

 鳴り止まぬ拍手の中、二人は微笑みと共に口づけを交わし合った。



 ――そのとき、荘厳な鐘の音とともに、白い鳩が羽ばたいた。



 恋人たちの永遠の幸福を約束するように。

 そうして空高く舞って、二度と戻ってはこなかった。




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どうか末永くお幸せに 榛名丼 @yssi_quapia

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