小学生時代3

 星哉は陽太と、放課後遊ぶのは禁止されている。まだ五年生の頃、星哉が母に、アイドルのDVDを見せてくれると言うから陽太の家に遊びにいきたい、と頼んだところ、受験もあるのにアイドルなんかに現を抜かしている暇なんかないでしょう、と言われてしまった結果だった。その子と遊ぶのは禁止、そういうことは大きくなってからにしなさい。そう言われて星哉は反論もしないままわかった、と頷いた。母親が星哉のことを考えてくれているのは、わかっている。遊ぶ暇があったら塾に行って勉強しなさい。それが最近の星哉の母の口癖だ。


 だが、学校で遊ぶのまでは禁止されていない。


 禁止されてたまるものか、と星哉は思う。勉強ばかりの星哉のことを、みんなは遠巻きに見ているだけだ。

 好きなものを共有しようとしてくれて、まるで普通の友達のように接してくれるのなんて陽太しかいない。

 勉強とか、成績とか、煩わしいものを全部除いて、星哉のことをきちんと見てくれるのなんて、陽太しかいないのだ。

 だから陽太の好きなアイドルはすごく魅力的に見えたし、好きになりたいと思った。知りたいと思えた。


「ねぇ、今日の曲すごい良かったね」

「だろ!?この間出たばっかりのやつなんだ。限定版にしか入ってない曲なんだよ」


 はい、これ!と陽太から渡されたCDを素直に星哉は受け取った。

 今までも、何度かあったことだ。大体、家に帰ってから塾に行くまでの時間であったり、母親がお風呂に入ってる時間のような、母のいない時間にこっそり聞いて、楽しんで返す。何回も聞ける訳ではないけれど、気に入った曲を家で聴いている時間はほんの少し、いつものいい子から離れられている気がして気分がよかった。


 だから、その日もいつものように陽太にCDを借りて家に帰ったのだ。


 家に帰れば、母親はまだ帰ってきていなかった。午後はもう仕事は終えているはずだから、星哉が家に帰ってくるまでに買い物にでも行ったのかもしれない。少し早めに家に着いたから塾に行くまでには余裕がある。きっと母さんだって、すぐに帰ってくるわけではないだろう、と考えて、リビングにあるCDプレイヤーにCDをセットする。

 流し始めて、聞き終わって、ちょうどCDをしまったところだった。

 ガチャリとドアが開く音がした。

 身体が固まった。星哉の父は仕事が忙しいからこんな昼間に帰ってくることは無い。

 音が意味するものは、ひとつだった。


「……なにしてるの、星哉」


 母の低い声が星哉の身を動かなくさせる。隠しようにももう多分全てバレてしまっている。

 心臓がバクバクといやな音を立てていた。冷や汗をかく、という感覚を、星哉は初めて知った。背中をツー……と汗が伝う。CDを握った手が、すべりそうだった。


「おかあ、さん」

「何持ってるの。渡しなさい」


 渡しちゃいけない、と思った。渡したら最後、なにされるかわからない。わかっているのに、自然と手がCDを母親に差し出した。渡さなければ、叩かれでもするだろうか。もしかしたら、こんな子に育てた覚えはないとでもと言って、もっとめちゃくちゃに怒られるのかもしれなかった。それは、恐ろしかった。

 手に取ったCDを母は一瞥した。冷たい目だった。徐々に、星哉の呼吸が荒くなる。

 次の瞬間だった。

 激しい音がした。思わず星哉は目を閉じる。それからおそるおそる開いてみれば、母に掴まれていたはずのCDは床に叩きつけられていた。破片は散らばっていないから、割れてはいないようだ。けれど、星哉は母親の視線が怖くてその場から動けなかった。

 低い声で母親が言う。


「……こんなことにうつつを抜かしている暇なんてないって言ったでしょう」

「……ごめんなさい」


 それ以外の返事なんて、返せるはずがなかった。床に落とされたCDも拾えないまま、星哉は立ち尽くす。

 母親は深く息を吐くと、星哉に背を向ける。


「早く準備していらっしゃい。今日は休みだけど自習室は空いてるでしょう。行くわよ」

「……はい」

 自分の荷物を取りに部屋へ戻っていった母が、バン、とリビングの扉を閉じる。足音が遠ざかってから、そっと星哉はCDに手を伸ばした。


「あ……」


 ひっくり返した表面には、なかったはずのヒビが生えていた。思わずそれを指で擦るが、当然のように消えない。

 陽太の、大切にしていたものに傷をつけてしまった。

 頭が真っ白になった。星哉の家は小遣い制ではない。遠足の日や、修学旅行の時だけお小遣いが渡されて、他の買って欲しいものは母親に頼んでいる。いくら友達に貸してもらったもので、このまま返せないとはいえ、CDを買ってくれるように母に頼むのは当然無理だ。だって、星哉にこれが買えるはずがないとわかった上で、投げたのだから。貸してくれた相手が陽太だとわかれば、きっとなおさら怒るだけだ。

 でもこのまま返せば、きっと嫌われてしまう。


 悩んでも結論の出ないまま、塾に行っている内に土日はあっという間に過ぎてしまった。ランドセルの中にCDをそっと入れ、重い足取りで星哉は学校に向かう。

 行きたくない、と思いながらも、歩いてしまえば教室までたどり着いてしまう。まだ来ていませんようにと祈ったのも空しく、陽太は既に教室にいた。入ってきた星哉に気付き、いつもと変わらない笑顔で明るく笑う。


「おはよう」

「……おはよう」


 眩しい笑顔が痛かった。せっかく貸してくれたCDを、こんな状態で返さないことが苦しかった。はるた、と名前を呼びながら、ランドセルの中のCDを出そうとして、CDのケースにつけられた真っ白い傷が見えて視界が滲んだ。


「ごめん」


 先に言葉が零れた。

 言葉が零れてしまうと、もうダメだった。滲んだ視界から、ぽたり、ぽたりと水滴が垂れていく。


「ごめん、本当に、ごめん」


 謝りながら俯いた。陽太の顔など見ることができなかった。泣き止め、泣き止め。泣きたいのは僕じゃなくて陽太の方だ。そう思うのに、涙は止まってくれない。

 どうして僕の母親はあんな人なんだろう、と星哉は初めて思った。嫌いなわけではない。星哉のためにがんばってくれていることも知っている。それでも、悔しかった。


「お母さんに、投げられたんだ」


 母親に逆らうことができたら、こんなに悔しくなかったのだろうか。そう考えて、無理だ、と思う。星哉では、母には逆らえない。怖くて、逆らったことなんてない。これからも、できる気なんてしなかった。

 何も耳に入らなかった。朝の教室なんて、騒がしいはずなのに。心臓の音だけがばくばくとうるさかった。刑を言い渡されるのを待つ罪人のような気持ちだった。


「……しょうがないよ」


 耳に届いた言葉で、星哉はそっと顔を上げた。

 目の前の陽太は、困ったような顔で笑っていた。泣く訳でも、怒るわけでもなく、ただ、いつもとは違う笑顔を浮かべている。


「元々、俺が無理矢理貸してたようなものだしさ」

「ちがっ……」

「違わないって!」


 無理をしているような笑顔に、ぐっと星哉は唇を噛みしめた。こんな顔をさせたのは、自分自身だ。

 なにを言えば良いのか、わからなかった。言葉の浮かばないまま、またごめん、と呟く。いいって、という星哉の言葉に、更に気持ちが重くなる。

 重たい空気を破るように、予鈴が鳴った。あ、と呟いて、困ったように陽太を見る。


 陽太は、ぎゅっとCDを握りながら、相変わらず星哉を見て悲しげに笑っていた。


「じゃあ、またね」

「……うん」


 陽太とは、それからだんだんぎこちなくなっていった。

 星哉は無事に、第一志望だった進学校に受かった。それに対して陽太は、周りの皆と一緒に公立へ進学した、はずだ。すっかり疎遠になって、もう連絡もとっていない。



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ハリボテの星 秦野まお @mao_hatano

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