闇の中

明(めい)

闇の中

四十八歳の母から妊娠した、と言われた時にはさすがに驚いた。


俺は捨てられるのだろうか。そんな疑問が頭をもたげている。


寿(ひさし)というめでたい名前を貰ったのに、現在二十六歳の引きニートだ。


十六歳の時、よくあるいじめが原因で引きこもるようになった。


昼夜逆転し、自室にこもってネットとゲームをやる、そんな毎日が続いている。


この先もそんな毎日が続くのだろうと漠然と思っていた。


否、それ以外のことを考えないように逃げていた。将来はもちろん不安だ。


このまま親が死んだらどうしよう。


食っているだけの金を自分で賄えない。友達もいない、一人ぼっち。


一人は好きだけど孤独は嫌いだ。不安で不安で頭がおかしくなる。


だからネットやゲームに没頭し、現実逃避をしていたのだが。


ネットには、釣りかそうでないのかわからないが、ニートが捨てられたという話がたくさん転がっている。


出かけて帰ったら、家に違う人が住んでいて家族が行方をくらましたとか、家族旅行のつもりで一緒に行ったらおいていかれたとか。

 

そんなネット上に溢れている、その後の話は知らない。嘘か本当かもわからない。


俺の場合は、妹か弟を作ることで両親は俺を家から追い出そうとしているのではないか。そんな妄想がむくむくと膨れ上がっている。


だって五十間近の両親が、子作りをしたのだ。


父が五十で母が四十八。偶然なのか裏があるのか。


このぬくぬくとした環境から放り出されるかもしれない。考え方が自分ファーストなのはわかっている。


でも、だからこそ、両親から生まれてくる子供はどうなるのだろうかとふと考えて我に返る。物心ついた時には二十六歳差の引きこもりニートの兄がいて、両親は五十を超えている。


授業参観の時に若い父母と混ざって還暦間近の両親が来たら、どんな風に思うのだろう。


社会は世知辛い、と思う。いじめだけでも世知辛い。今生まれたら年金は貰えないかもしれない。いや、年金の支払いは八十歳からとかとんでもないことを言っている議員もいる。


年金を親に払ってもらっている俺が考えるのもおかしな話だけれど。


それに災害も多くなっているし、時代がなんとなく暗く思える。


バブル期に大学生がディスコで踊っている映像をテレビで見たことがあるが、信じられないくらい空気が浮ついていた。


そして当時の時代は明るい気がした。今とは全然違う。俺もバブルを知らず、そのなんとなく暗い時代を生きているのに、これから生まれてくる子供がかわいそうな気もする。


とはいえ、両親に俺がなにか言える身分でもない。


俺は俺で、捨てられないように努力するのみ。





妊娠したと伝えられたのは今日の朝だ。


俺が寝ようとしたときに水を飲みに行ったリビングで鉢合わせ、伝えられた。


まさに寝耳に水だった。そこから眠らずにいて、今は午後の十一時。まず昼夜逆転生活を辞める。明日朝六時に起きてみよう。


でも働くのは嫌だ。社会が辛い。人が怖い。



午前六時に起きた。


昼夜逆転生活に慣れていたせいか、眠すぎて頭がぐらぐらする。


俺は半年ぶりに部屋のカーテンを開けた。五月の明るい光を見るのは久しぶりだ。そんな朝の光を浴びた後でリビングへ行く。


まだ誰も起きていない。冷蔵庫の中を見る。色々入っていた。


目玉焼きくらいなら作れるか。ウィンナーも焼いて。とりあえず家事をするのだ。


家事もあまりしたことがないけれど、参加しないとまずいと本能が告げている。


朝も昼も夜も、いつも部屋の前に食事は置いてもらっていた。でもこのままじゃまずい。


このままではいけない。


この家に置いてもらうために、できることはしておかないと。


フライパンに油を敷き、卵を割る。ウィンナーも一緒に焼く。


食パンがあったので、トースターで焼く。皿を見て考える。母は彩りよく野菜などを添えていた。


野菜が足りない。サラダでも作るか。冷蔵庫を見るとタッパーの中に切った野菜の作り置きがある。


食器を出して並べると、母が起きてきた。


「あら、早いわね。朝食作ってくれるの? 珍しいこともあるものね。明日は雪でも降るんじゃないかしら。ああ、今日降るかもね」


嫌味だろうか。でも仕方がない。散々働けと言われて働かないニートだ。


ニートに人権はない。


「これから飯はなるべく作るようにするよ」


「朝昼晩?」


う、と思う。正直面倒くさい。なにもしたくない。家事でさえやりたくない。


でも、そんなことを言っている場合じゃない。


「うん……できたら」


「寿、料理なんて作れたっけ」


「簡単なものなら……難しいのはこれから覚える」


「あらまあ、助かるわ」


母はえらく高い声を出した。まるで俺が家事をするのがこれからは当たり前になって行くようなトーンだ。


でも言ってしまった以上は、やるしかない。追い出されないためにも。


父も起きてきた。早起きしているせいかびっくりしたような顔を向け、そして食事を作っていることが意外なのか目を丸くしている


去年まで、働け、働け、と口うるさく言われていた。


でもここ最近は言われなくなったような気がする。


「お前もここで食え」


 父は一言そう言った。

 

食事は自分の部屋でとろうと思っていたのに。


朝食を皿に盛ると、三人で食卓を囲う。否、厳密には四人なのかもしれない。


父と母は楽しそうにしゃべっている。


俺が入る余地はなさそうだ。働けと言われるのも気まずい。お腹の中にいる子供のことを訊ねるのも、気まずい。


結局朝食の後は片づけをして、部屋にこもるとパソコンで様々な料理のレシピを調べることにした。妊婦が食べてはいけないものなども調べておく。


これまでは、母がやっていたことを自分がやるのだ。


これでニートから家事手伝いくらいには昇格できるだろうか。


少しは役に立たないと。俺の人生がかかっている。


手順を見て頭に叩き込み、レシピを見終えると、俺はネットサーフィンをする。


今度は母が妊娠したという現実から少々逃げるために。


けれど、集中できない。高齢で赤ちゃんを生むことと、見捨てられる不安を考えるとモニターを見ても没頭できないのだ。


両親は、どうして頑張ってしまったのだろう。やっぱりそこにたどり着く。


二十六歳差の弟か妹ができるのも、なんだかしっくりこない。


実感がないだけかもしれない。ただ、不安だけが大きくなっていく。



半年ほど相変わらず家に引きこもり、外には一切出ずに家事のみを粛粛と遂行してきた。買い物も、欲しい食材は母が買ってくる。



昼夜逆転生活は直っていた。


そして朝早く起きることにも慣れた。だが、そろそろ外に出ないとまずいかもしれない。


母のお腹が大きくなってきているからだ。日に日に大きくなっていくお腹を見ると、気味の悪さが勝ってしまう。


それは、俺が男だからだろうか。それとも、その年齢で子供を生もうとしている両親に対する嫌悪だろうか。


わからなかった。


性別は、男の子だという。つまり、弟が生まれる。母はベビー用品などをネットで見ており、膨らんだお腹やベビー用品が目に入るたび、ひしひしと本当に命がこの世に誕生してしまうのだ、という実感がこみあげてきて気が狂いそうになる。


引きニートであるため、二十六歳差の弟の誕生を素直に喜べない。


俺の居心地がどうしたって悪くなる。家がいい。家は安全。家にこもっていたい。


その生活が脅かされるのだ。かといって、まだ誕生すらしていない弟が憎いわけでもない。


「今日の夕飯は何かしら」


台所の掃除をしていると、母が言った。


「生姜焼きにでもしようかと……」


妊婦は生物は食えない。焼いた肉か魚がメインだ。


「そろそろ、寿一人で買い物に行く?」


来た。いつかそう言われるんじゃないかとびくびくしていたのだ。


俺は不安そうにでもしていたのか、母が優しく背中を叩く。


「お母さんが一緒じゃないとだめかしら?」


家から出るのが怖い。ひよこを一度閉じ込めてから放すと、ひよこはその閉じ込められたところにいたまま、自由に動けなくなるという。


俺はそれと同じだ。でも、流石に一歩踏み出したい。


「ひ、ひとりで行くよ……」


母は優しく笑った。


「もう働けとは言わない。あなたは家にいればいい」


「う、うん……」


なんとなく引っかかる言いかただ。


母の優しい笑みが、不気味に感じられたのは思い過ごしだろうか。


だが、そんなことよりも俺は今、外に出るほうが怖い。


「お財布とエコバッグ渡すから、スーパーへ行って来て」

 

母はそう言って、財布とバッグを渡した。


玄関に立ち、二の足を踏む。


俺の靴は十年前のものだ。身長が伸び足のサイズが大きくなったらしく履けない。


父のスニーカーを取り出す。なんとぴったりだった。俺はどうやら父と同じ身長と靴のサイズになったらしい。自分の知らないうちに体ばかり成長していた。


母が後ろから見守っている。まるで初めてのお使いに行く園児のように。


仕方がない。踏み出せ。踏み出せ。一歩を。


俺は玄関の扉を開けた。眩い光が肌に当たる。


五月だ。外は蒸し暑く、日が皮膚を貫く。


このような太陽の強烈な皮膚感触を浴びるのも随分久しぶりだ。外には人が行きかっている。


怖い。でも、後には引けない。スーパーまでの道のりを歩く。


あれ。なにが怖いのだろう。人々はなにも言わずに俺とすれ違い、まったく気にしていない。


外を歩いても、怖くない? 通りすぎる人は誰も俺のことなんか知らないし興味がない。誰も俺のことなんか気にしない。


あれ、なんだ、外は怖くなくね? むしろ日が当たって明るい。


俺のテンションは家を出る前よりかなり高くなっていた。スーパーの中をのんびり歩いても、誰もなにも言ってこない。


なんだ、外に出るって簡単じゃん。俺はなにをあれだけ躊躇していだのだろう。


必要なものを買って家に帰ると、内心で笑いながら食事を作った。明日も朝、少し早く起きて散歩に出かけてみようか。




散歩をするようになった。外が怖くなくなって、気持ちのいい日々を送れている。


家事もこなしているから父母にお礼を言われる。誰かの役に立つって、気持ちのいいことなんだな、と思う。


それでも空いた時間はネットゲームをしたり漫画を呼んだりしているから、部屋でやっていることは前と変わらない。


働かなくていいと言われた分、気持ちも楽になって言葉に甘えている。


仕事はどうあがいても無理だ。人間関係が怖いから。それに週五日、八時間も働くのは地獄にしか思えない。


一時間の休憩を入れて九時間拘束。


電車の行き帰りの往復時間を考えれば、俺の時間なんてほぼ無くなる。


会社で働くなんて無理無理無理。


だからといって他にどう金を稼げばいいのかわからない。趣味と呼べるものもなければ、なにかを極めて仕事にできる能力もない。働きたくないでござる。


だから、親の言葉に甘えるのだ。働かなくてもいいと言われた以上、働かない。


でも、弟が生まれたとき、俺はどうすればいいのだろう。


やっぱり追い出されるのかな。答えの出ないことを、延々と繰り返し思い続ける。いっそ、親に頼み込んでみようか。


夕飯を終えた後、俺は両親がくつろいでいる時に勇気を出して言ってみた。


「お父さん、お母さん。お願いします。ニートの俺を追い出さないでください」


深く頭を下げる。


「そんなことを考えていたのか? 俺たちがお前を追い出すわけないだろう」


父の声がして、頭をあげた。両親は目くばせをして頷き合っている。


なぜ目配せなんかしているのかわからないけれど、二人で何か会話をしているのだろう。とにかく俺は、追い出されずにすむようでほっとした。


「よかった……本当によかった」


息をつくように俺は言った。本心からの言葉だ。


「お前はもう何も心配しなくていい。だから家でできることをやれ」


父も、なんだか急に優しくなった。


赤ちゃんが生まれるからだろうか。そのせいで、態度も柔らかくなっているのだろうか。

 

後片付けをして風呂に入り、ふと思った。


両親はなぜ優しくなったのだろう。


本当に赤ちゃんが生まれるからというだけなのか? 赤ちゃんが生まれたらお金だってかかるはずだ。


父だけ働いている状態で、やっていけるのか? やっぱり俺はお荷物なんじゃ。


いや、余計な事は考えたくない。考えないようにしよう。


風呂から出ると、ネットゲームに明け暮れた。今度は集中できた。




それから暑い夏が来て、母のお腹は臨月で膨れ上がっていた。あの中に人間がいるのだと思うとなんとも不思議な気持ちになる。


ベビー用品が次々に届く。ベビーベッドをリビングに組み立て、赤ちゃんのガラガラもベッドに置いてある。それから洋服、靴下、おくるみなどが家に置いてある。


夜中に、父に起こされた。


「陣痛が始まった。これから車でお母さんを病院に送り届ける」


「わかった。留守番をしておく」


陣痛ってさぞ痛いのだろうな、と思う。


テレビなどを見ても陣痛の始まった女性は苦しそうにしているし、痛がっているし、俺はそういう番組が苦手だった。


だが、俺の時もあのように痛い思いをして生んでくれたのだと思うと、甲斐性のなさに申し訳なってくる。でも俺は家でぬくぬくしていたい。


外で、車が走りだす音が聞こえてきた。病院へ行ったのだろう。


もう間もなく生まれるのだ。俺はなぜか、無事に生まれるように祈っていた。


次母が帰ってくるときは赤ちゃんを連れてくるのだ。どんな子が家に来るのだろう。


少し楽しみなような、そうでないような。まさか、赤ちゃんの面倒を俺がすべて見るわけじゃないよな。赤ちゃんが家にいるときのことを考えてみる。


想像するだけでも無理無理無理。大体お乳は母親しかあげられないものだし。


ネットをする気分でもなくなり、リビングへ降りた。テーブルの上には紙があった。


名づけの紙だ。


照(てる)

鶴(つる)

祝(いわい)



俺の両親はめでたい名前を付けたがるのだろうか。俺の名前もひさしだけど、ことぶき、と読める。


それに鶴は千年というし、祝、に至ってはもう生がこの世に誕生することへの祝いの意味だろう。


この中では照が一番まともな気がする。この三つの名前はいわゆるキラキラネームではないけれど、鶴は画数が多くて書きにくいし、祝と名づけられて嬉しいのだろうか。


頼むから照にしてくれ。そんなことを思いながら、時計とにらめっこをする。


午後十一時。そこから俺は、寝落ちしそうになる。


早朝に散歩をして太陽の光を浴びているせいで、体内時計がリセットされるため、最近は十一時を過ぎると眠くなるのだ。




朝の光で目が覚める。父からラインで連絡が来ていた。友達はいないので、ラインも両親としかやっていない。


『生まれたぞ。三千二十八グラムの元気な子だ』


午前四時に来ている。


『病院行ったほうがいい?』


すぐにそう打った。スーパーと病院ではまた異なるけれど、過去の同級生に会わない限りは大丈夫だろう。俺は病院へ行く覚悟を決めた。


『いや、留守をよろしく頼む』


覚悟は宙ぶらりんになった。母は四日間入院するらしい。


父は今日の夕方帰ってくるという。会社は有給をとっている。


とうとう俺の弟が生まれてしまった。


もちろん無事を願ったが、そして元気な健康児が生まれたようだが、いざ生まれたとなるとまた悶々としてくる。


俺のニート生活が脅かされるかもしれないし、二十六歳差の弟がやっぱりかわいそうに思えてくる。


本来なら、俺が妻を貰い、子供を作っておかしくない年齢だ。いや、本当にそうだ。


本当ならば、俺がキリキリ働いて、結婚して、親に孫の顔を見せるのが普通なのではないか? そう思うと、やっぱり両親は、なぜ頑張ってしまったのか謎に思う。


違う。


俺がニートだから孫を諦めて自分たちで作ったのだ。年齢的にもラストチャンスだったのだろう。そう思うと罪悪感が湧く。


でも動けない。檻に閉じこもったひよこは、自由に動き回れない。外出の怖さは薄らいでいたが、一人で遠くに出かけられるほどの勇気はまだない。まだ怖い。


独りで朝食を作り、食べた。親がこのまま帰ってこなかったらどうしよう。


どこか別の家を俺の知らないところで買っていて、そこに住む手はずになっていたらどうしようか。いやいや、考えすぎた。


ネットで嘘か本当かわからない情報がたくさんあるだけで、うちの親はそんなことはしないはずだ。第一ベビーベッドがある。親はここに帰ってくるはずだ。いや、それさえカムフラージュだったら?


考えても仕方のないネガティブなことを考え続ける。


片づけ、掃除、洗濯をし、昼食は抜き、夕飯を作る準備をする。家事って意外とやることが多くてあっという間に時間が過ぎる。


今日は母がいないから父と二人分。少なめに作った。レバニラ炒めだ。スーパーに売っているレバニラを、人参とキャベツを切って、フライパンの中で合わせて塩こしょうをふるだけ。簡単だ。作り終えると父の帰りを祈る気持ちで待った。

 

すると、午後六時を過ぎて、父が帰って来た。


「ただいま」

「おかえり」


よかった。やっぱり捨てられるわけじゃない。


心底安心して思わず口元が緩んでしまった。


父が手洗いを終え、テーブルにつく。俺はレバニラと味噌汁、茶碗に入ったごはんを

父に差し出し、俺の分も用意する。そして向かい合うように座る。父と二人きりになるのは何年ぶりだろうか。


もう覚えていない。何十年、かもしれない。


「飯を作ってくれて助かる。頂きます」


父はそう言っておかずを口にした。


「うまいな。ビールでも飲むか」


そう言って冷蔵庫からビールを取り出した。母がまだスーパーに行っていた時に、父のために買ったものだ。俺はビールを飲んだことがない。こんなニートでは飲む資格さえないと思っていた。


「お前も飲むか。出産祝いだ。母さんには内緒だぞ」


そんなことを言って、父は食器棚からグラスを取り出すと、ビール缶をあけた。


「俺はいい」


お酒は臭いがだめだ。飲んでみようかと一瞬思ったが、缶から香る臭いで気分が悪くなった。だが、父は心なしか上機嫌のようだ。


「赤ちゃんは、可愛い?」


俺はそれとなく訊ねてみた。


「生まれたばかりの赤ん坊っていうのはな、そんなに可愛いと思えないんだ。でも、だんだん可愛くなっていくんだ。母さんと二人で病院で名前も決めてきた」

 

う。頼む、照にしてくれ。


「な、なにに決めたの」


「祝だ。あ、テーブルの上に紙置いてあっただろ?」


祝か。俺が一番つけてほしくないと思った名前にしたのか。


ああ、もう嫌。


「照のほうが普通だよ」


「いやあ、生まれた赤ん坊を見ていたら祝っていうのがぴったりな気がしてな。母さんと相談して、祝にしたんだ。上から読んでも下から読んでもいわいだ。ははは」


父は酔っているのか、そんなことを言って笑っている。俺は苦々しい思いを抱えながら、これから対面することになる赤ちゃんのことを考えていた。


しかし四十八歳という高齢で無事に生まれるのは奇跡に近いのかもしれない。


女性の体のことはよくわからないが、高齢出産はリスクが高い、と聞いたことがある。そんな中で母は健康児を生んだ。母も無事だ。本当に、奇跡かもしれない。


そうなると、祝という名前でもいいのかな、という気がしてくる。でも今更子供を作った理由がやっぱり訊けない。


「俺はこれからどうしたらいい?」


不安を父に告げてみた。すると目を伏せ言った。


「祝が育つのを見て行けばいいさ。もうお前は家にいろ。働かなくていいから」


そう言われるとほっとする。


父はビールをあおり、えらくご機嫌な様子でレバニラ炒めを食べている。


母の健康も心配がなさそうなので安心した。




四日が経ち、母が父の車に乗って退院してきた。父は有給をとっている間に出生届などを出しに行っていた。腕には赤ちゃん――祝が白いおくるみに包まれ抱かれている。


祝は静かに眠っていた。本当に生まれて四日目の赤子はまだ、サルのような顔をしている。でも想像以上に小さくて、迂闊に触れない危うさもある。


「寿、抱いてみる? あなたの弟よ」


母が微笑む。


弟、と言われてもまだピンとこない。だって親子ほど離れた年齢なのだ。


抱くのは怖い。うっかり落としたら取り返しのつかないことになる。でもここでできないと言えば、家事手伝いの名が泣く。


俺は母に教えられたとおりの持ち方で、ゆっくりと抱いてみた。軽い。


命の重みを感じる。そして、温かい。


今まで母のお腹が大きくても、生まれたと聞いてもなんとも思わなかったのに、ここで初めて、こみあげてくるものがあった。


顔も手も小さい。まだ何色にも染まっていない。真っ白だ。このまますくすくと育っていくことを願うとともに、俺の中には暗い影がまとわりつく。


この子がこれからいじめられませんように。日本という社会の闇に飲み込まれませんように。


いやな思いなどせず育ちますように。現実を見れば、いやなことなく生きていくのは無理だ。


社会は本当に残酷なのだ。その中を、これから生きていくのだ。


社会に絶望する前の幼少期まで、いっぱい遊んであげよう。


三歳か四歳になる頃には俺は三十。その時に、「お兄ちゃん」と呼んでくれるのだろうか。


祝をこれ以上抱いているのも怖くなり、落とさないように母に返した。


そして自然と笑みがこぼれた。俺と血のつながった弟。


年齢は離れているけれど、兄弟なんて初めてで、素直に嬉しく感じられた。

 


それからは、大変な日々が続いた。


赤ちゃんは泣くのが仕事だ。俺は昼夜逆転生活に逆戻りしつつあった。夜はリビングで寝ている母と、交互に夜泣きする赤ちゃんをあやす。


もうネットゲームをしている場合ではなかった。母に教えられたとおりおむつを替えたり、抱っこしたりして過ごしていた。


昼間も昼まで、泣く祝をあやす。ガラガラを使ったりいないいないばあをしたりして笑ってくれる時は天使かと思うくらい可愛いが、昼夜問わず泣くのが毎日続くと、俺の心もだんだん余裕がなくなってくる。


母のほうは、俺を育てた経験があるせいか、余裕だった。あやし方もうまく、おむつ替えの手際もいい。そして、ゆったりと祝を抱いて歌を歌っている。


俺も赤ちゃんの時はこうだったのだな、と思うと、どうして自分は上手く社会に適合できなかったのかと小一時間、自問自答したくなる。いや、本当に自問自答していた。 


そして、祝には俺みたいにならないように育ってほしかった。


赤ちゃんの世話をしながら、俺は母に一言いい、つかの間の休息をとる。


部屋で眠るのだ。睡眠は大事だ。自室のカーテンを閉め、ベッドの上に横になろうと

して、母が部屋をノックした。


「どうしたの」


俺は慌てて部屋のドアを開ける。母は祝を抱いたまま、立っていた。


「寿が眠る前に話があってね」

「なに」


疲れて寝不足の頭で、ちょっとだけ苛つきながらそれでも何か大事な話があるのだろうと母の顔を見て思った。母は真顔でいる。それから、俺の目を見て優しく微笑んだ。


俺はあまり人と目を合わせられない。それは親に対してもそうだ。


自然と目を逸らした。


母は部屋に入って来ると祝を抱いたまま、俺のベッドに腰を掛ける。


「祝は、あなたのために生んだのよ」


ん? 言っていることがマジでわからない。


「どういうこと」

「なんでこの年齢で、祝を生んだと思う?」


母の声が低くなる。


「ただ偶然、授かったんじゃないの」


引っ掛かりは覚えていた。


が、小さい子供が欲しいから頑張って、授かったものと思い込んでいた。違うのか?


「この年で偶然授かるわけないじゃない。いえ、自然妊娠したのは本当だけど。子供を生むために、毎晩毎晩毎晩頑張ったのよ」


「うん? だからそれで授かったんじゃないの」


「五十歳と四十八歳の夫婦が子供を作ったのよ。それを不自然に思わなかった?」

「え。それは……うん」


違和感はずっとあった。ただその正体がなにかは掴めずにいた。


「ラストチャンスで頑張ったのかと……」

「そうね。ラストチャンスで。なぜだと思う?」


眠いし、母がなにを言いたいのかまるで分らない。


「言いたいことがあるなら早くして。俺のためって言ったよね。どういうこと?」


すると母は祝を優しく、軽く、力の入っていない手でゆっくりと叩いた。


まるで今から子守唄でも歌いだすかのように。


だが、母から紡がれる言葉は、真っすぐに俺に向けられた。


「祝はね、寿のために生きて、働くの。寿は働かないんでしょ? 二十年後は私も七十近い。お父さんは七十よ。私たちはその時にはもう働けない。寿が働かないなら、寿を養う子供を作ればいいと思ったの。この子を働かせて、働かせて、働かせて、あなたを養うのよ。これからそういう風に育てるわ」


なんだ。なんだよ、それ。


俺は青ざめていくのがわかった。だから最近は働かなくていいと言っていたのか。


働きたくない。でも、でも、祝のことを考えると。


母は微笑んでいた。その目は笑っておらず闇の中にいるような狂気を抱えていた。


いつまでも働かない俺に、両親は追い詰められていたのかもしれない。


「俺、やっぱ働くわ」


思わず口に出していた。

 

                              (了) 

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闇の中 明(めい) @uminosora

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