〈第八話〉『合成獣の棲み処』

 細く暗い通路の先に、その光はあった。

 既に所員たちが帰宅し、照明も落とされた研究所の中は、静かなようでいて、合成獣の状態を常時監視しているコンピューターのわずかな駆動音や、飼育槽に繋がれたチューブの唸る音で満ち満ちていた。自分たち以外に人気ひとけこそなかったものの、生物のうごめきや息遣いが、そこかしこに感じ取れた。いくつものコンピューターや飼育槽の合間を抜け、迷宮の奥へと迷いなく歩みを進める大きな背について、暗闇の中、黙ったまま歩き続けた。会ってほしい奴がいると、自分はそう頼まれたのだった。

 迷宮の最奥には、巨大な飼育槽がいくつか並んでいた。特殊危険レベルを示す警告板が天井から吊り下げられ、床には区域を分ける赤のテープが張られていた。解き放たれれば人間など造作もなく殺せる実力を持った合成獣たちが、一際厚いガラス板の向こうに繋ぎ止められていた。だが、それらには目もくれず、飼育槽と飼育槽の間のわずかな隙間に、博士はその身をねじ込んだ。少し逡巡した後、自分もそれに続いた。

 垂れ下がるチューブの束をくぐった先には、他の飼育槽に囲まれるようにして、小部屋のような空間が広がっていた。その中央に置かれた一つの飼育槽の中には、明らかに異色な合成獣がいた。自分たちの足音にこちらを振り返った、そう、振り返ったという表現が当てはまるような、人間と同じ構造をした頭と胴体。実際、四肢と翼と尾を除けば、それは全く人間と同じ生き物だった。驚愕の表情すら、その顔に浮かべていた。

 だが、その姿に嫌悪感は覚えなかった。覚えるとすれば、それはこの異形の生物を産み出した自分たち人間にであるべきだと、頭の隅で直感していた。目の前にいる『彼』が被害者でしかないことは、何よりもその表情が雄弁に物語っていたからだ。そしてその直感が、確信に変わるのはその後すぐのことだった。

「聖。……人間の姿になってみろ」

 横に立つ博士が、その生物に向かってまっすぐに語りかけた。その言葉を聞いた彼は、触手状の右手とそこにはない左手を胸の前に見つめ、ゆっくりと力を込めた。触手がわずかな光を放ちながら変形し、左腕がみるみるうちに生え、人間の両手が形成された。それと同時に、翼も折り畳まれるように消失し、尾が縮むように消え、両足も人間のそれへと変形していた。全ての変化を終えたとき、目の前にいたのは、ごく普通の人間の少年だった。

 博士はその経過を見届けると、隣にいる自分の肩に手を乗せた。そして、目の前の少年に向かって、はっきりと語りかけた。

「こいつは新田という。……今日から、お前の友達だ」

「友……だち……?」

 目の前の少年の目が見開かれ、その口がわずかに動いた。声変わり前のようなか細い声で、その声音には驚きと戸惑いの感情が色濃く滲み出ていた。まるで、辞書でしか意味を知らなかった言葉が、今初めて自分のものとしてその身に降りかかった、そんな風に。

 微かな期待と大きな不安のないまぜになった無垢な瞳が、自分の方をまっすぐに見つめていた。こいつとはこの先長い付き合いになると、新田は心のどこかで確信していた。


 * * *


 ガラス窓から屋内に差し込んだ低い日差しが、応接室のテーブルに置かれた空のグラスに投げ掛けられていた。屈折した夕方の光が木製のテーブルを柔らかく照らし、木目は細かな陰影を生み出して複雑な表情を浮かび上がらせていた。愛はその光景をしばらくの間、見るともなしに眺めた後、物憂げなグラスを取り上げて流しへと向かった。

 来訪者もなく、電話の呼び出し音も途切れた初冬の夕べ、静まり返った事務所の中を静寂だけが覆い尽くしていた。自分がグラスを洗って伏せる音がいやに大きく響き、その生活音が途切れると、静けさがより一層深まったように感じられた。もっとも、この名状しがたい重苦しさが続くのは、この一日二日に限ったことではなかった。

 愛は流し台から顔を上げ、受付の壁に掛けられたカレンダーを見遣った。昨日までの日付が大きな斜線で消されている他に、数字の下に書かれた×印が五日を数えていた。隼が事務所に出社しなくなってから、今日でちょうど一週間が経とうとしていた。


 あの夜、列島に大きな爪痕を残しながら台風が横断し、被害の全容がようやく明らかになったのは、数日後のことだった。都市部では浸水、山間部では土砂災害の影響が大きく、今でも多数の集落が孤立して救援を求めていた。大川町では深夜に一級河川が決壊し、低地である町全体が冠水に見舞われた。大学の敷地内でも浸水や倒木の被害が複数見受けられ、復旧には相当の時間が掛かる見込みということだった。

 体育館の内部が酷く損傷していた件について、愛は大学側から何らかの咎めを受けるものと危惧していたのだが、元々取り壊される予定だったためか、彼らが責任を負うはめにはならなかった。一応、大学からは愛たちの設置したカメラのデータを提出してほしいと求められたのだが、機器が浸水の被害によって壊れていたと申し出たところ、それ以上深く追及されることはなかった。

 幸い、愛たちの住む町に大きな被害はなく、今では以前とほぼ変わらない生活が戻ってきていた。元通りの日常がめぐり始め、ただそこに隼の姿だけが無かった。あの日、大学で雨に濡れる彼の背を追えずに見送ってから、愛の心のどこかにその後悔だけが引っ掛かっていた。


 愛が俯いて物思いに沈んでいると、不意にカラン、と扉が開く音がした。顔を上げるとそこには、また別の理由で一週間以上顔を合わせていなかった所員の姿があった。

「鈴村さん」

「所長はいますか」

 愛は慌てて受付から立ち上がり、久々に事務所を訪れた鈴村のもとに走り寄った。恐らくは病院から直接こちらにやって来たのだろう、普段の彼女には似合わぬ大荷物を抱えている。だが、彼女の退院は明後日の予定だと愛は聞いていた。

「もう、大丈夫なんですか」

 愛はにわか雨に濡れていた彼女にタオルを渡し、応接室のテーブルに荷物を運ぶのを手伝った。鈴村が怪我を負ったのはもう半月近く前とはいえ、〔S〕ランクの合成獣によって付けられたその傷はなかなかに深かったはずだ。腹部の縫合手術を終え、リハビリを受けていた彼女を愛が見舞ったのは十日ほど前のことだった。例の事件後は事務所の業務を豊と愛だけでこなしており、忙しさも相まって鈴村に会いに行く時間は取れていなかった。

「ええ。休んでばかりでは身体がなまってしまいますから」

 素っ気ないとも取れる彼女の物言いは相変わらず冷静で、荷物を片付けるてきぱきとした動きも以前と遜色なかった。鈴村が完全に回復したようであることに内心、安堵しながら紅茶の用意を始めた愛の背に、その問いは静かに投げかけられた。

「隼は、まだ来ていませんか」

 一瞬、愛は紅茶を淹れる手を止めた。

 あの夜、暗闇の中どこかに消えてから、隼は一度も彼らの前に姿を見せていなかった。豊や愛が家に電話を掛けるも、あれ以来ずっと彼は自室に閉じこもったままだそうで、取り次ぎに応じないことを祖母が電話口で何度も詫びた。愛は一度、直接家を訪ねてみもしたのだが、彼の祖父が申し訳なさそうに頭を下げる結果に終わっただけだった。

 心の中でそれだけのことを反復すると、愛は天井を見上げ、小さく溜め息をついた。止めていた手を再び動かし始めると、彼女はそっと返事をした。

「……まだ、来ていません」

 そうですか、と小さな返答があったきり、その場には重い沈黙が訪れた。時計の秒針だけが時を刻む中、愛は黙って紅茶のポットを眺め続けていたが、問われた事実は改めて、彼女の心に深く突き刺さっていた。


 * * *


 しとしとと小雨の降る中、ざわついた放課後のキャンパスで、湯浅は一人講義棟の廊下を歩いていた。教授に頼まれた所用を済ませたあと、研究室に戻る前にコーヒーでも調達しようと、自動販売機を目指してぶらぶらと歩いていたのだった。

 窓越しに眺める景色は、一週間ぶりの雨に濡れていた。半時間ほど前には晴れ間も覗いていた空はすっかり雲に覆われ、気まぐれに強い雨を降らせて人々を困らせていた。日中は所によりまとまった雨が降りますが、夜には上がるでしょう、との予報を思い出し、今日の進捗だと帰りは遅くなりそうだから、その頃には傘は要らないだろう、などとどうでもいい事を考える。

 大学の構内は依然、倒木や浸水の被害が酷く、科によってはあの機材が濡れただの、この計器が狂っただのと騒いでいた。それでも、あれだけ荒れ放題だった体育館については、取り壊し前で実害のなかった分、ほとんど話題にすらされていなかった。台風が嵐を巻き起こした翌日、浸水で壊れた機器を取り換えるという名目で彼らがやって来たのだが、もう倒した、とだけ目も合わせずに告げた新田の苦々しげな様子の方が、湯浅にとっては気掛かりの種だった。

 廊下の角を曲がり、突き当たりに置かれた自販機で缶コーヒーを買う。封を開けてふと外を見遣ると、建物の間の狭い空間に何やら沢山の傘が集まっている。遠目に見える黒い服装の集団に、何事かと訝しんでから、今日が毎年恒例のその日であることを思い出した。研究所の爆発事故の日だ。

 合成獣対策本部の責任者が慰霊碑の横で何やら口上を述べ、遺族と思わしき喪服姿の一団がその前に佇んでいた。湯浅は一口含んだコーヒーを、どことなく気まずい思いで流し込んだ。殊のほか苦く感じられる。彼らを気の毒には思ったが、何せもう十年以上も前の話だ。集った人々を見ても、今さら泣きじゃくるような者は少なく、どこか悟りきったような、諦めたような表情の者が大半で、皆静かな涙を浮かべて耳を傾けていた。

 ふと、集団から少し離れた後方に立つ人物が目に入った。湯浅の目を惹いたのは、明るい髪色やいかにも普段着といった場違いな服装、そしてそもそも、その年頃の少年自体が珍しかったせいもあるが、何より彼が傘を差していなかったからだ。

 大学の生徒でもなさそうな少年は、後方からじっと慰霊行事の様子を見つめていた。思いつめたように食いしばった表情はどこまでも硬く、その眼光は全てを射抜くように鋭かった。何者をも許さないような怒りが込められている、まるでそんな風にも感じられた。


 * * *


 部屋の片隅に置かれたプレイヤーが、落ち着いた声音で流暢な英語を喋り出す。愛は空中に霧散していく英語の影を必死に追いながら、頭のどこか片隅ではリスニングの教材に没頭できずにいた。先程から何度も同じ箇所を聞き取れずに繰り返している。溜め息をついてプレイヤーを止め、掛け時計を見れば既に夕食の時刻が迫っていた。

 慌てて階下へと降り、支度を手伝い損ねたことを叔母に詫びる。事務所にいた時もそうだったが、近頃は仕事や勉強もどうにも身が入らず、時間だけが足早に過ぎ去っていくように感じられた。やはり気掛かりな事がある分、何事にも集中できていないのだと改めて思い知らされる。

 食卓には彼女の好きな料理が並んでいたが、近頃は食欲も幾分、落ち込み気味だった。心配そうに見つめる叔母の視線にも気付かず、ぼんやりと食事を進めていると、合成獣、という言葉がいきなり耳に滑り込んできて、愛は反射的に面を上げた。見ればテレビのニュース番組が、例の大学で日中行われていたという、研究所の爆発事故の慰霊行事を取り上げていた。

 もう、十三年も経つのねぇ、と叔母が素直な感想を漏らす。愛は豊や隼の心情に思いが取られ、返す言葉を持たなかった。珍しく返事をしなかった愛に、両親の事件でも思い出してしまったのかと、見当違いながらも彼女を気遣った叔母がテレビを消そうとした、その時だった。

「……隼」

 愛の口からは、ほとんど無意識にその名前が出ていた。映像のピントも合っていない画面の端、アングルが切り替わる前のほんの一瞬だったが、彼女はそこに確かに見知った影を捉えた。慰霊行事に場違いな無頓着の服装、明るい髪色、傘すら持たずに雨に濡れる姿。隼だ。

 彼女は無自覚のうちに立ち上がり、テレビの液晶画面にかぶりついていた。無情にもニュース番組は次の題目を取り上げ始め、叔母が見間違いではないかとやんわりと否定の声を掛けようとしたその時、愛の携帯電話が鳴った。

 着信は、新田の携帯からだった。事務所を介するならばともかく、日頃から何かと忙しくしている新田から愛に、個人的に連絡が入った試しなどほとんど無かった。愛は自身の心拍数が上がっているのを感じながら、緊急の用件かもしれない、と一言だけ断り、叔母の返事すら待たずに電話を取った。

「もしもし」

『愛か? 俺だ』

 新田は一週間前の事件以降、自身がついている教授の研究が佳境に差し掛かり、大学からの撤収の日を最後に、愛たちの前には姿を見せていなかった。

『湯浅から電話が来た。用もなく掛けて来やがるのはいつもの事だが、今日の慰霊行事で高校ぐらいの男子生徒を見たんだと。まさかとは思ったが、一応、豊の奴には言った。その後あいつと連絡が取れねぇ』

 愛は血の気が引いて行くのを感じた。豊さんと連絡が取れない。あの嵐の夜に感じたのと同じ、嫌な予感が、デジャヴのように彼女の脳内を走り抜けていった。

『悪いが俺は抜け出せそうにねぇ。もし愛が――』

「事務所を見に行きます」

 自分でも素っ気ないと思える短さで言葉を返し、まずは隼の家に電話を掛けた。電話口に出た彼の祖母が、狼狽した声で、ある意味予想通りの答えを告げた。

『夕方、急に出て行きましてね。それも何も持たずに。所長さんにはご連絡を差し上げたんですが……』

 予想は確信に変わった。両親の死の理由を知った隼が、この一週間、何かを思い詰めているとすれば、それは豊に対する憤りに違いなかった。良くも悪くも単純思考で無鉄砲な彼が、その思いを爆発させたとしたら、その矛先が向くのは。

 今日は、彼の両親の命日なのだ。

 愛は自身の部屋に戻ると、定期券と携帯電話だけを握りしめて階段を駆け下りた。驚く叔母の横をすれ違いざま、事務所に行ってきます、とだけ強張った声で告げ、玄関扉を勢いよく跳ね飛ばした。雨はとうに止んでいた。


 * * *


 追憶の、海に沈む。


 静寂の、夜だった。昨夜までと同じ静寂ではない。合成獣たちを繋ぎ止めるコンピューターの駆動音も、忙しなく動き回る警察官たちの硬い報告の声も、瓦礫に挟まれた子供たちの泣き叫ぶ声すらしなくなった、事故から十余時間後の、禍々しく月が冴える夜だった。

 地上十数階、地下数階に及ぶ研究所の建物は、捜索の手を阻む分厚いコンクリート片の山と化していた。もっとも、地上では予定をはるかに上回る規模の被害をもたらした爆発は、頑強に造られた研究棟の最下層では、その角の一室までを完全に押し潰すには至らず、予備電源の作用により、一本だけ割れ残った蛍光灯が辺りを照らす二、三畳ほどのスペースに、幸か不幸か生き延びた自分が一人、壁にもたれて座っているのだった。

 彼は、自身に繋がれたタンクを見遣る。左腕から伸びたチューブに薬剤を供給し続けるタンクは、大きな破損こそ無かったものの、目に見えない細かな亀裂が無数に入っているらしく、零れ出た液体が床にじわじわと染みを広げていた。通常よりも明らかに速いペースで減り続ける薬剤の量に、朝までは持たないな、と、彼は考える。

 だがしかし、それは何の絶望でもなかった。もとより彼は希望など持ち合わせていなかったからだ。研究員どもに勝手に生み出され、勝手に実験の道具にされ、いずれは勝手に殺されるであろう自分の運命については、あの宣告を受けた日からとうに諦めていたのだ。

「『RM』は失敗作だな。薬剤を供給し続けないと生命すら保たない」


 遠く、カラリ、と、瓦礫の崩れる音がした。その音が段々と近づいてくるのを、昨日までと何ら変わらぬ、薬剤の副作用で常に眠たげな顔をした自分が、音の主を待っているのを他人事のように感じた。――そう、待つのはいつもの事だった。実験の順番を待つのも、意味もなく薬剤のタンクが交換される時間を待つのも、そして『失敗作』の自分が、いずれは処分ころされるのを待つのも。

 だが、一つだけ違うとすれば、彼が自分から「待つ」のは、今回が初めてだった。

「来たな。聖」

「……生きて、いたのか。RM」

 旧友の声音は彼が予想していた以上に暗く、その表情は絶望を帯びて憔悴しきっていた。恐らくは、爆発が予定外の方向に莫大な影響をもたらした為だと、彼にはすぐ察しがついた。博士が研究所の爆破を計画している、と打ち明けられた時から、なるべく被害が最小限で済むようにする筈だ、と、それだけを自身に繰り返し言い聞かせる『聖』の姿をよく憶えていたからだ。

「緑の奴は、俺に挨拶していったよ。……警察官に化けて出て行きやがった」

「……彼とはいずれ、決着を付けなくてはならない」

 遣りきれぬ怒りを押し殺したような声で、『聖』はそう呟いた。同じ〔S〕ランクの合成獣同士であっても、特に『聖』と『緑』の仲は水と油だった。爆発が予定の数倍の規模になった原因も、『緑』が一枚噛んでいるであろうことはすぐに憶測が付いた。無論、人間を擁護する立場であった『聖』の方が、合成獣の中では異質な存在だった訳だが。

 沈黙が、二人の間を訪れた。行き所を失くした小蠅が、外れかけた蛍光灯の付近を力なく舞った。爆発が起きたときには遠く研究所を留守にしていたはずの『聖』が――そうなるよう仕向けたのは博士だ――、わざわざ人間の目を掻い潜り、現場を訪れた理由はとうに知れていた。そして、『聖』がそれを切り出せずにいるのも、彼は知っていた。

「RM。……僕は」

 辛うじて『聖』が絞り出した声を遮って、彼はかねてから告げるつもりだった言葉を言い放った。

「俺は放っておいても死ぬ定めだ、どうせならお前にられる方がいい」

 そう、彼は待っていた。――旧友が、生き残った自分たちを殺しに来るのを。


 * * *


 コンクリートの床を濡らす水たまりが、星の少ない夜空をその身に映していた。豊は事務所のビルの屋上に一人立ち、遥か遠くに浮かぶネオンサインを見つめる。都会の夜空に瞬く星が少ないのは、大気の汚れ具合の違いよりも、地上に咲く人工の華々の方が明るいからだ。もっとも、住宅地であるこの地域に不眠の高層ビルはなく、人々の営みを照らし出すだけの穏やかな光が家庭に宿され、辺りはひっそりと静まり返っていた。

 こうして屋上に出て夜景を眺めるのも、夏の騒動以来だと豊は思う。あの時は新田が、鈴村が、そして愛が廃墟の屋上に立ち、正体を現した自分の昔話に、黙って聞き入ってくれたのだ。辺りを煌々と照らす月明かりと、涼やかに吹き抜ける夏の風を、彼はよく覚えている。

 どうして彼らに正体をさらしたのか、と豊は今でも思う。無論、後悔の念は微塵もなかった。互いに信頼すべきパートナーである鈴村と、親愛なる心優しい愛。あの二人だからこそ、自身が受け容れられると信じたし、事実、彼女たちはその期待に十二分に応えてくれた。想いの共有と共通の秘密を得て、彼らの絆はより一層深まることとなった。

 だが、何よりも、それは所員たちに平等に接することに反した。一部の所員にだけ隠し事をするのは如何いかがなものか、と彼は日々考え、そうしてふと、人間としての思考をここまですっかり身に付けていた自分自身に気付き、心の中で小さく笑ったのだった。

 そして、あの時に呼ばなかったもう一人の『事情持ち』の、その実、誰よりも傷つきやすい所員が訪れる気配を、豊はその背に感じ取った。彼の背後数メートルの所にある扉が重い音を立てて開き、硬い静寂を伴った少年が姿を現した。

「来たね」

 振り返らぬままそう声を掛けた自分の背に、突き刺さるような怒りの念が向けられているのを豊は感じた。対する隼の方は、豊の穏やかな口調、そして僅かな風になびいた黒髪と黒の上着が、いつもと変わらぬ風情を醸し出しているのを、自分に相対する余裕とすら感じられて、それが妙に癪に障った。

「無断欠勤というのは、あまり宜しくないな。愛と鈴村が心配していたよ」

「知らねぇよ」

 隼は吐き捨てるようにそう答え、未だこちらを向かぬままの黒い背を睨んだ。表情は窺えない。もっとも、今目の前にいる人型をした異形の化物が、自分がここを訪れるのを待っていたのは、紛れもない事実だった。そうでなければ、この時間に事務所が開いている理由はないだろう。

 張り詰めた両名の間を風が吹き抜け、屋上の水たまりに波紋を立てると、静かに映す二つの姿を不安げに歪めていった。互いに言葉を発することもなく、数分もの長い間、二人はただ黙してその場に立っていた。

 そうして、隼はついにその沈黙を破った。怒りに語気を震わせながら、眼前の仇に向け、十三年もの間、相手がその内に閉ざしていた真実を暴き出した。

「あんたの、育ての親のせいで」彼は一歩、前に出た。「俺の親は死んだんだ」

 豊は、何も答えなかった。未だ隼の方を振り向きもせず、自分を刺し殺すような彼の怒りを、ただ黙ってその背に浴びていた。肯定も否定もしないその姿は、育ての親を擁護する気も、弁解する気すらもないようだった。博士の仕掛けた爆発によって、隼の両親は死んだ。その事実だけが、発された言葉をもって、重苦しくこの場に漂っていた。

「あんたは、合成獣なんだろ」

 隼は、合成獣にだけ効果のある薬剤の注射器を両手で構え、豊に向けて確かめるように問うた。事務所の倉庫にある、普段なら薬剤のアンプルを厳重に保管しているはずの金庫の錠が、今日に限って無防備に開いていたことが、彼にとっては余計、気に喰わなかった。だが、それすらも問題にしないような、有無を言わせぬ強い語調だった。

 豊は、ただ黙してその言葉の意味を受け止めてから、ゆっくりと、隼に向かって振り返った。これまで誰にも見せたことのない、余計な感情の一切を排したような表情で、ごく簡潔に、その問いに対する答えを述べた。

「そうだ」

「だったら、俺が、あんたを始末する」

 隼はそう宣告し、仇に向けて鋭く床を蹴った。対する豊の方は、助走すら付けずに跳び掛かってきた相手を、必要最小限の動きでかわすと、彼が手にする強大な武器を注視しながら、右腕をしなやかに変形させて本来の姿へと戻し、触手を蠢かせて応戦を開始した。戦いの火蓋は切って落とされた。


 * * *


 追憶は、海へと沈む。


 彼は、自らに課された初めての責務を、果たすのが怖かった。合成獣である事実を捨てて、人間になりたいと願う、同胞の中では明らかに異端な自分を受け容れてくれた目の前の旧友は、ただ何も言わずに、が果たされるのを待っていた。床を踏みしめる人型の両脚は震え、本来の姿に戻した右腕の触手は、踏ん切りを付けられずに中空を泳いでいた。

 だが、いつまでもそうしている時間はないことを、彼はよく知っていた。薬剤の供給が止まれば、恐らく陽が昇る前には、自然と死に至るであろう相手の運命は、もう誰にも変えようがなかったからだ。そして何よりも、旧友自身が、を望んでくれるのであれば。

『聖』は二、三歩駆け出し、末端を変質させて尖らせた触手の一本を、大きな弧を描いて振るった。針のような鋭利さをもって喉を掻っ切ると、駆除すべき相手は、傷口から血を噴き出してその場に崩れ落ちた。博士に託された、初めての責務が、果たされた瞬間だった。

 ほんの一瞬だけ、苦痛に耐えるように顔色を変えた旧友は、またいつものように――眠るような柔らかな表情を浮かべながら、自分に向かって、恐らくは最期であろう言葉を告げた。

「お前は、人間として生きろ。……豊」

『聖』は驚きに目を見開いて、全身の細胞を硬化させていく旧友を見つめ続けた。意識が遠のいていく『RM』は、薄らいでいく視界の中で、互いの望み通りに自分を殺した相手が、目を丸くして自分の死を見届けているのを感じた。

 一分余りの後、既に互いに掛ける言葉はなく、『聖』の目の前にいた旧友は、硬化した人工細胞の塊と化していた。『聖』は頬に涙が伝うのも気付かぬまま、その死体を埋めるべき場所を、頭のどこかで考え始めていた。そうだ、あの桜の木の下がいい。常に無気力で、ほとんど何にも興味を抱くことのなかった旧友が、自身はついぞ見ることのなかった、それの美しさを語られたときだけは、僅かな関心の色を示していた。

 古い記憶を思い返しながら、『聖』は旧友の遺骸を抱き上げ、静かに涙を流したまま歩き出した。彼はどうして、自分が最後まで告げることのできなかった、博士がくれた人間としての名前を知っていたのだろう。


 * * *


 戦況は、傍から見れば意外なほどまでに拮抗していた。怒りに任せた隼の繰り出す連撃は、とてもではないが洗練された無駄のない動きとは言い難かった。それでもなお、冷静に考えれば一対一では実力の及ぶ筈がないと分かりきっている相手に、果敢に挑み続ける彼の姿には、攻撃を受ける豊自身、言葉にできないような強い憤りを感じさせられた。

 だが、それでもやはり決着に至らないのは、豊が本気を出していないからであるのは明らかだった。右手に構えられた注射器による刺突、握り締められた左手の拳と振り回された脚による打撃。いずれも豊は避けるか、人型の左腕でいなすか、あるいは右手の触手で絡めとるかに留め、決して強い反撃に転じることはなかった。戦う二人の間に言葉はなかったが、豊はただそうして、無言で吠え続ける隼の怒りを受け止めていた。

 左脇腹を狙った注射器を触手で払いのけられたところで、踏みしめた右脚を軸に左脚を大きく回転させる。振り回した左足は相手の肘だけでぴたりと食い止められ、目の前に立ち塞がる強大な合成獣は、攻撃を受け止めた腕をそのまま鞭のように振るい、遠く屋上の壁際まで隼を跳ね飛ばした。隼はフェンスに打ち付けられて背中を強打し、痛みに姿勢を崩してその場に尻餅をつく。

「……畜生」

 小さな声でそう漏らし、彼は舌打ちをした。表情を変えることなく自分と戦い続ける相手は、何を考えているのかも分からなかった。無謀だと――本当は、自身でもどこかでそう分かり切っていた――思える戦いを挑んだこちらに、哀れみの視線を向ける事すらしない。体勢を立て直し、注射器から薬剤が漏れていないことを確認する。左腕を人間のそれよりも肥大化させた相手に、もう一度跳び掛ろうと隼が走り出そうとしたその時、思わぬ横槍が入った。

「豊さん! 隼!」

 屋上のドアを跳ね飛ばし、大きな声で叫んだのは愛だった。電灯の点いたまま無人となっていた所長室、開けっ放しになっていた薬剤を保管する金庫。嫌な予感が的中した彼女は、事務所のどの部屋にも二人の姿がないことを確認し、その足で屋上まで駆け上がってきたのだ。目の前にいる豊の無事を確認し、大きく肩で息をした彼女は周囲を見回して、やっとのことで立ち上がる隼を見つけた。彼女の潤んだ瞳は、言葉に詰まりつつも、どうにかしてこちらを制止しようと必死に訴えかけているのが見て取れた。

「……隼」

「邪魔すんな!」

 彼女の願いを弾き飛ばすかのように、隼は一際大きな声で怒鳴りつけた。ぎゅっと身を縮ませて目を伏せる愛の姿を視線からあえて外し、自分が本来向き合うべき相手を睨み付けた。

「……隼。終わりにしよう」

 意外にも、そう告げたのは豊の方だった。肥大化させた灰緑色の左腕と、その先に生える三本の鉤爪を僅かに光らせ、隼の方に向けて構えの姿勢をとった。相手の意図は分からなかったが、第三者である愛がこの場にやって来た今、これ以上決着を長引かせまいとしているのかもしれなかった。

「上等だ……!」

 隼はそう切り返すと、豊に向けて一気に走り寄った。自分の動きを見守る愛が、祈るように両手を握り締める姿を視界の端に捉えたが、彼は意識的にそれを無視した。跳び掛かった相手は、今回は避けることすらしないようだった。ただ大きな左腕をこちらに示し、そこに刺せ、と言わんばかりにこちらを注視していた。

 真意は計りかねたが、こちらとて、この好機を逃すつもりはなかった。右手の注射器を鋭く繰り出し、相手の左腕に真正面から突き刺すと、躊躇うことなく薬剤を注入した。


「豊さん!」

 愛の悲痛な声が、聞こえた気がした。だが、自分には無関係だと思った。仇を討つべき相手は、討たれることを自ら望んだのだ。これ以上、何もする必要はない。

 と、思った、隼の背に、強力な一撃がはたき込まれた。それが豊の右手によるもので、懐に潜り込んだ自分が反撃を喰らった、その事実をすぐには理解できず、隼はされるがまま、コンクリートの床に叩き付けられた。自分が床に倒れ伏す音を他人事のように聞き、それから強烈な痛みに襲われた。

「隼」

 愛が駆け寄ってきて、自分を助け起こすのを手伝った。全身が痺れるようにずきずきと痛んだが、それよりも確認すべきことがあった。キッと振り返れば、確実に薬剤を注入されたはずの合成獣は、少しばかり痙攣している左腕を人型の右腕で確かめた後、肥大化させていたそれを、なんなく人間の物に戻してみせた。自分がこれまでに現場で数え切れぬほど見届けてきた、同類たちのような断末魔など、まるで見せるつもりはないようだった。

「畜……生、なん……で」

 そう問うた自分の言葉は途切れ途切れにしか発せず、対する相手の答えは事務的にすら感じられるような、息切れの一つも感じさせぬ冷徹な言葉だった。

「耐性は付けてある」

 予め薬剤を偽物と取り替えておいたのか、それとも薄めていたのか、などと姑息な手段ばかり考えていた自分の期待を裏切るような、それはある意味で絶望的な答えだった。

「まだ処分すべきランク持ちの合成獣はいくらでもいる。俺が先に始末されては、かなわないだろう?」

 目を伏せてそう答えた、豊の口調に愛はわずかな違和感を覚えたのだが、それについて深く考える間もなく、畜生、と唸って隼が拳を床に叩き付ける声が聞こえた。愛は彼に掛けられる言葉など見つけられるはずもなく、ただ黙ってその背に寄り添っていた。豊が無事だった、その事実は彼女を安堵させたが、隼の思いは果たして如何いかばかりであろう。復讐は、果たされなかったのだ。

 隼の胸中は、言葉にできぬ怒りと悔しさで満ち溢れていた。自分の思い出の中には居ない、知識の上だけに存在する両親は、それでも事故死という重みを伴って、心の一部を占め続けていた。やけに頭から離れないときもあれば、ほとんど忘れているときもあったが、それでも、彼らの死が他人の手によるものだと知ったとき、その相手を決して許すまい、と自分は断じたのだ。

『所長も、親代わりの博士を亡くしたっていうからな。俺と同じ気持ちなんじゃねーの』

 自身が以前、愛に語った言葉が、この一週間の間ずっと、心の中でこだまのように反響し続けていた。同じ境遇だと思っていたからこそ、これまで信じて着いて来れた。誰よりも信頼してきた相手が、駆除すべき合成獣で、自分の仇だという。その事実は誰よりも、隼自身が信じたくなかったのだ。憐憫の情すら含まない、無慈悲な視線で見下ろしてくる相手を鋭く見返し、隼は声を低くして唸った。

「あんたは、いいよな。になるまで博士が育ててくれたんだもんな」

 告げられた相手は、何も応えなかった。その事実に、応えられるはずはなかった。自身が受けられなかった愛情を、この合成獣は一身に受けて育ち、あまつさえ、自分の親を殺すことすら黙認したのだ。隼は底のない夜空に向かって吠えた。

「俺は親父とお袋がどんな人間だったかすら知らないんだ!」

 ただ重苦しい空気だけが、その場を完全に支配していた。静寂の訪れた屋上で、何も知らぬ風が乾いた音を立てて吹き抜けていった。

 隼の頬には、本人も知らぬ間に一筋の涙が伝っていた。愛は隼の背に顔を伏し、ただ何も告げずに抱きかかえることしかできなかった。彼の持つ『事情』は、他人が安易に深入りできるようなものでは決してなかった。

 そうして長い間、無言の時が続いた。それから不意に、その静けさを破ったのは、自身の眼前にうずくまる隼から、遠く夜の空へと視線を移した豊だった。

竹井たけい氏は」豊は、そこで一息置いてから、言葉を継いだ。「明朗な男だった。根は真面目だが、ひょうきんで、よく冗談を言っていた。夫人とは所内結婚で、晩婚でようやく授かった息子を誰よりも大事にしていた」

 その口調は淡々としていたが、決して無味乾燥ではなかった。むしろ、昔に会えなくなった懐かしい一人の男を、今ここにその言葉で生き返らせようとするような、生命を吹き込むようにも感じられる、どこか温かみのある声音だった。

「夫人の方は、豪放磊落とでも言うべきか。肝の据わった女性で、底抜けに前向きで明るかった。二人とも、合成獣の研究がいずれは人類の医学に役立つと信じていた。だからこそ、ランク持ち俺たちのような存在に関わることもなく、人工細胞の挙動に関する研究だけに邁進していた」

 その口から語られる内容に、呆然としたのは隼の方だった。自分が知りえなかった両親の生きた証を、目の前の仇が知っているのだという。愛も、予想だにしなかった展開に驚きつつも、豊が遥かな思いを馳せて描き出す、隼の両親の活き活きとした姿に聞き入っていた。

「……なんで、あんたがそれを」

 放心しきった彼は、それだけの言葉を搾り出すのがやっとのようだった。ほんの数分前まで恐ろしいほどの殺気を放っていた隼の全身からは、今や完全に力が抜け落ちていた。

 豊は語るのを止め、黙ったまま、自身の上着の胸元に手をやった。ポケットから取り出された一枚のそれは、透明なビニール袋にしっかりと包まれており、他の誰でもない豊自身が、大切に扱ってきた物だという事実を示していた。

「二人とも、博士と同じくらい子供が好きだった。研究続きで家に帰る暇がない分、休憩時間にはよく施設に来て、子供たちの遊び相手になっていた」

 先ほどと変わらぬ調子で語り続けながら、豊はを手にして隼の方へと伸べた。隼は未だ信じられぬといった表情のまま、半ば無意識のように差し出された物を手に取った。

 十三年も前に撮られた、とうに色褪せた一枚の写真。だが、その賑やかな誕生日パーティーの風景から伝わる熱気と興奮は、今になってもまるで損なわれていないように感じられた。大勢の子供たちを前に、隼の両親、そして博士の三人が、後ろから包み込むように温かく見守っている。はにかむような表情をした豊の真後ろに立つ隼の父親は、恐らくは実の息子に向けるのと何ら変わらぬ、慈愛に満ちた笑顔で豊の肩を力強く抱いていた。

「……本当は、実の息子を構いたかったのだろうが」

 豊がそう言い残すのと同時に、隼は写真を裏返していた。そこには十三年前の日付、そして『Happy Birthday 豊』の一文と共に、あるメッセージが書き添えられていた。

『俺らを超えてみせろ!』

 あの、祖父から手渡された日記と同じ、父の字だった。

 隼は写真を手にしたまま、その場にへたり込んだ。目の前にいる相手は、もはや仇ではなかった。彼もまた、自分の父たちにとって、かけがえのない『息子』であったのだ。

 写真を手にした隼の手は細かく震え、両目からは大粒の涙が絶えず滲み出ていた。彼は無言のまま歯を喰いしばり、明らかにされた事実の重みに必死に耐え続けていた。

 博士だけを親のように妄信していると、そう、思い込んでいた。だからこそ、自分の両親が蔑ろにされたであろう事実を、彼は決して許せなかった。

 だが、実際はそうではなかった。親たちを殺したことについて何も背負っていないと、勝手にそう信じ切っていたのは隼の方だったのだ。

 ただ寒風が星のない夜空を駆け抜け、張り詰めた糸の切れたような優しい静寂が、三人の元に訪れていた。豊は遥か遠くを見つめたまま、愛は二人に掛ける言葉もなく、黙って隼の傍にしゃがみ込んでいた。隼は右手の写真をしっかと握り締めたまま、嗚咽を押し殺して、左手で涙を拭い続けていた。

 透き通るような、溢れる想いの込められた涙の一雫が、音も立てずにコンクリートの床に零れ落ちた。


 * * *


 薄暗い雲の向こうから、いつもよりも一段と控えめな太陽の日差しが、ようやくカーテン越しに事務所の室内にまで届こうとしていた。愛は、応接室の接客に用いるテーブルについて、豊が淹れたミルクティーの入った、来客用のカップを見つめていた。両手をそっとカップに添え、冷えた手先を温めながら、その中身をゆっくりと味わいつつ、昨夜の出来事を心の中で反芻していた。

 受付の方を見れば、自らその席に就いた豊の、一見、普段と何ら変わらぬ様子で職務をこなす姿が窺える。時折、カタカタというパソコンへの無機質な入力音と、書類のページをめくる音が響く以外、応接室はしんと静まり返っていた。鈴村は事務室で別の仕事をしているのだろう。

 来客の予定もなく、電話のベルも鳴りを潜めた、静けさに満ちた穏やかな午後だった。本来、今日は愛の出勤日ではなかったのだが、彼女はどうしても、豊に問い質したい事柄があったのだ。

 再び豊の方を見れば、彼は黙々と、先週から請け負っている案件の報告書をまとめている。作業が一段落ついたのを見計らってから、愛は手にしたカップをソーサーに置いて席を立ち、深く息を吐くと、豊の方に向かって歩き出した。

 受付の前に立った彼女を、豊は何も言わずに見つめ返した。自分が彼に何かを問い掛けようとしているのは、目の前の相手も分かっているはずだった。十数秒間、そうして互いに無言のまま向き合ってから、愛は意を決して口を開いた。

「――豊さんは」

 彼女はそこで一度、口を噤んだ。目の前の相手は、ただ黙ったまま、言葉の続きを待っていた。そして愛は、もう二年近くも前、豊がこうして自分に、自身が持ち込んだ事件の結論を告げたのを思い出していた。今、彼女と彼は全く逆の立場にあった。

 愛は、その問い掛けをするのが、怖くもあった。だがそれは、彼女にとって見過ごす訳にはいかない、ある意味では宣告とも取れる確認だった。

 緊張とともに唾を飲み込むと、愛は一息ではっきりとその言葉を言い切った。

「ランク持ちの合成獣を全て始末したあと、死ぬつもりなんですね?」


 問われた相手は、肯定も否定もしなかった。規則的な秒針の音だけが、淀みなく過ぎ去る時を数え続けていた。豊は表情を歪めることもせず、ただ静かに、彼女に向けて問い返した。

「どうしてそう思うんだい?」

「……昨夜、隼に言った言葉を聞いて、そう感じました」

 あの後、涙を流し終えた隼は、唐突に立ち上がって左腕で両目を拭うと、豊が渡した写真を右手に握り締めたまま、何も告げずに屋上から走り去った。後から確認してみれば、事務所の彼のロッカーからは、一切の私物が引き払われていた。

 ――この場所から、旅立ったのだ、と。愛には、そう感じられた。

 豊は、溜め息をついて視線を自らの手に落とした。そうして左手で右の手首を掴むと、何も告げぬまま、手首から先を本来の姿に戻してみせた。事情を知らぬ他人が見れば、禍々しい化け物としか思えないそれは、幾重にも枝分かれした、蠢く黒の触手だった。

「愛。どんなに詭弁を言っても、俺は合成獣なんだよ。……何があろうと、その事実だけは決して変わらない」

「でも」

「言い訳は通用しない。俺は『聖』である以上、廃屋で愛たちに見せたのが本来の姿だし、数年置きに体内のエネルギーを解放しなくては、溜まったそれに身体が耐え切れず、生き続けることすらできない。……愛たち人間とは、根本的に異なる生物なんだよ」

 その声音には、明らかな自嘲の色が含まれていた。しょせん、自分は人間には成りきれない。いくら姿かたち、そして心までを真似ようと、自らが望む『人間』になることはできない。

 そして、『合成獣』である以上、は豊の駆除すべき対象なのだ。

「……、でも」

 しかし、愛は、その理論を受け容れるつもりはなかった。無いからこそ、あえて真正面からこの問いを投げかけたのだ。

 足元に視線を落とし、両手をぎゅっと握り締めたまま、暫くの間、愛は、言葉を探して俯いていた。

 そんな彼女の様子を、豊は右手の触手を空中に遊ばせたまま、ただ黙って見つめていた。遮るもののない沈黙が、二人きりの応接室に満ち溢れていた。

 そうして、どれだけの時が経っただろうか。――愛はついには面を上げ、決然として豊に言い放った。

「――でも。私を救ってくれたのは、豊さんというです」

 高校一年の冬に、彼女自身が事務所に持ち込んだ依頼。あれからもう、二年近くの月日が過ぎ去ろうとしていた。愛は、いつかあの時の恩を返したいと、その想いを、ずっと胸に抱き続けていたのだ。

「私のせいで、火事で家が焼けて、お父さんもお母さんも死んで。……棲み処を無くして、死のうと思っていた私に、新しい居場所をくれたのは、豊さんです」

 どうにかして、豊を思い留まらせたい。そう願う彼女は、ただひたすらに、必死になって主張し続けた。

「〔S〕ランクの、合成獣なんかじゃなくて。……豊さんは、一人の『人間』として、私を、救ってくれました」

 言葉の端を震わせながらも、愛はなんとかして、自身の想いを伝え切った。

 そして、目の前にいる豊は、驚きに両の眼を見開いて、彼女が今までに見たどんな顔よりも、らしい表情をしていた。


 豊は息を呑んで、歯を食いしばる愛を見つめ返していた。日頃は控えめな彼女が、こんなにも頑なになって食い下がる姿を、豊は見たことがなかった。本人は気付いていないのだろうが、彼女の瞳は、赤みを帯びてかすかに潤んでいた。

「……愛。それは」

 豊がそう呟き、視線を落としても、愛の面差しは変わらぬまま、彼から目を逸らすことはなかった。

 これまでに、自分が人間として生きることを、こんなにも強く願ってくれた人がいるだろうか。――恐らくは、博士を除いてはおるまい。

 だが、その心中を知ってか知らずか、彼女は更に畳み掛けてきた。

「私は、豊さんに生きていてほしいんです。――もし仮に、博士がもう、そう望んでいなかったとしても。私が」

「愛」

 豊は驚愕のあまり、反射的に面を上げた。愛の口から彼の名が出てくるなど、予想だにしていなかったからだ。

「たとえ、血は、繋がっていなくても。……博士が、豊さんに新たな居場所をくれた、親のような存在なら。……私にとっての、新しい両親は、豊さんだから」

 豊は、愛が涙を滲ませながら語った内容に、目を覚まされる思いがした。

 博士が遺志を継いでほしいと願ったから、今、自分は生きている。その自覚はあった。だが、もし全ての責務を遂げたときが来たら。その後に独り残された自分のことなど、誰も構いやしないと思い込んでいたのだ。

 もう、人間として生きる理由など、どこにも無いからと。

 詭弁のもとに大義を振りかざして同族殺しを続ける自分など、赦してくれる存在は居ないだろうと、そう、信じ切っていた。

 そして、放心して言葉も継げなくなった彼に向けて、愛は最後の一押しを、丁寧に口にしたのだった。

「生きなくちゃ、いけないって。そう言ったのは、豊さんでしょう?」

 泣き笑うようにそう述べてから、彼女はゆっくりと顔をほころばせてみせた。

 その言葉は、不思議な温かみをもって、心の奥にじんわりと広がっていった。二年近く前、命を絶とうと思いつめていた彼女に、生きろ、と命じたのは、確かに彼自身だった。

 豊は、胸中が満たされるような思いで、愛の告げた言葉の意味を噛みしめていた。自分が彼女に向けた想いが、こうしてまわり廻って、自らの身に降りかかってくる日が来ようとは、想像にすらしていなかった。

 気付けば、応接室の窓からは暖かな陽光が差し、包み込むように木製のテーブルを照らし出していた。重苦しさを感じさせていた薄雲が途切れ始め、ようやく太陽がはっきりとその姿を現していた。朗らかな雀の鳴き声が、久方振りの晴れ間を歓迎するように歌ってみせた。

 豊は、深く息を吐き出すと、そっと目を閉じた。右手を人間の姿に戻すと、胸の上で静かに両手を組み、彼女がくれた想いの余韻に浸っていた。自分がであることを、これほどまでに感慨深く思えた日は、そう、今までには無かった。

 博士から受けた恩義と同じくらいに大切なものを、その名の通り愛おしい目の前の所員は、人間と合成獣の狭間で棲み処を見出せずにいた、自ら半端者キメラの烙印を押していた自分に与えてくれたのだ。

「豊さんの居場所は、ここです」

 念押しの確認をするような愛の言葉に、豊はわずかに口元を緩めて応えた。

「ああ。……俺の棲み処は、他のどこでもなくここだ」

 そう告げた豊の穏やかな声音に、愛は安堵して目尻を拭うと、ゆっくりと窓辺へと歩み、両手で思い切ってカーテンを開いた。十日以上、姿を見せていなかった晴天が、この街にもようやく訪れようとしていた。


 * * *


「何を、考えていたんですか?」

 すっかり冷めた紅茶の入ったマグカップを手に、窓辺に寄りかかって屋外の風景を眺めていた豊へ、受付の席を立った愛が声を掛けた。豊が思い起こしていた時よりも、一段と大人びた彼女は、先日終えたばかりの依頼の報告書をまとめ終え、彼にそのデータを渡しに来たのだった。

 カーテンが大きく開かれた明るい窓からは、未だ冬の訪れなど知らぬような陽の光が深々と差し込んでいた。風もなく麗らかに晴れ渡った、それはまさに小春日和と言うに相応しい日だった。自身が羽織る白の長い上着の襟を正し、豊は目を瞑ると、一呼吸置いてから愛に返答をした。

「いや。もう一年も経つんだな、とね」

 彼はそう答えながら、応接室に置かれたプレイヤーから流れるラジオのニュースに耳を傾ける。事故から十四年目となった研究所の慰霊行事が、例の大学では行われているようだった。大学生になった愛は、地元の大学で学業にいそしみながらも、変わらずこの事務所の所員を務めていた。

「隼は今、どの辺りでしょうかね?」

 そう問うた彼女の口調は、どこか楽しげに弾んでいた。ちょうど一年前、事務所を飛び出した隼は、翌日に自ら稼いだ給料でロードバイクを買い、それを相棒に諸国放浪の旅に出たのだという。全国一周してくる、とだけ祖父母に告げて家を出た彼は、とりどりの消印が押された名所の絵葉書を、各地から実家に宛てて送っているようだった。

 出発から三ヶ月後、愛の携帯電話にも一度だけ、最北端の地、と書かれた記念碑が、昇る朝日と共に収められた写真が送られてきた。文章こそ一言も添えられていなかったものの、その場所まで自らの足で到達した隼の姿を思い浮かべれば、思う所は多々あれど、色々な経験を経て、彼なりに心の中で決着を付けたのだろうと、想像するに難くはなかった。

「そうだね。きっと、そろそろ戻ってくるんじゃないかな」

 確証もなくそう答えた豊に、愛は黙ったまま頷いてみせた。その予感は、つい先日から、彼女の中でも大きく膨らんでいたのだった。

「何だ。俺らをハブって、茶でも飲んでるのか」

 書類を手にそう言いながら、僅かに笑む鈴村を伴って事務室から顔を出してきたのは新田だ。彼も、今では教授の片腕としていっぱしの働きを見せている。

 鈴村が、仕事の切りもいいので休憩にしましょうか、と提案し、紅茶の用意を始める。愛がそれを手伝い、新田が豊に分析の報告を終えたその時、控えめな音を立てて事務所の扉が開いた。

「あ」

 振り返った愛の発した声のトーンが、ぱっと輝くように明るくなる。懐かしい姿をそこに捉えた彼らは、簡潔ながらも口々に、彼らなりの歓迎の言葉を発した。

「よう」

「お久し振りです」

「お帰り」

 ――以前と同様の気安さで、声を掛けてくれる新田。端的ながらも、丁寧さを感じさせる声音の鈴村。かつて仇と睨んだ自分を恨みもせず、自然な微笑みを返してくれる豊。

 そして、彼の前にゆっくりと歩み寄る、昨年よりも幾分、大人っぽさの増した、今でも変わらぬ優しさを備えた愛。

「お帰りなさい」

 心から嬉しそうな笑みを浮かべる彼女に向けて、ここを去った時よりも一回り成長したであろう隼は、両手で扉を押し開けたまま、ばつの悪そうな声で、ぶっきらぼうに低く呟いた。

「……仕事、探してるんだけど」


 忙しくも賑やかな日々が、この事務所で再び、始まろうとしていた。


〈了〉

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合成獣の棲み処 (キメラのすみか) 卯月 慶 @K_Uzuki

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