〈第七話〉『対決』
雨粒がよたよたとガラス戸の上を伝っていった。水滴は速度に緩急をつけながら道なき道をたどり、他の水滴にぶつかっては自身を太らせていく。目に見えぬ曲がり角で進むべき方角を思案し、不意に勢いづいて流れ出るように新たな進路を選びとっていった。
隼は、先程からほぼ手つかずの課題をよそに、自宅の古びたガラス戸に伝う雨粒をぼうっと見つめていた。もう一週間も続く長雨は、強力な台風の襲来によって、これから更に酷くなるらしい。普段、通学する手間がない分、同年代の若者たちに比べて楽をしていると言えなくもなかったが、午後から出勤する事務所への道のりを考えると、彼は面倒くささについ溜め息をついた。自宅の近くにあるとは言いがたい某事務所に彼が通勤するようになって、もうすぐ三年が経つ。途中から同い年の愛が加わり、彼自身、仕事を楽しんではいたが、それでも外は、出かけるのが億劫になるくらいの大雨だった。
んー、と伸びをして畳の上に寝転び、大きなあくびをした所で、隣の仏間からお鈴の鳴る音が聞こえてきた。恐らくは、祖母が仏壇に手を合わせているのだろう。音の余韻が完全に壁に吸い込まれると、元と同じく雨音だけが湿った部屋を支配した。隼は古い染みのある座敷の天井を眺めながら、そうか、と薄ぼんやりと思い出す。今朝見た仏壇には新しい花が供えられていた。来週末は両親の命日だった。
* * *
午後になると、雨脚はますます強くなり、一足先に台風の猛威を味わうかのような荒天となった。ラジオからひっきりなしに流れる気象と交通網の情報を聞きながら、愛は受付で英語の予習をしていた。前回の事件の後始末がようやく終わり、依頼の受付を再開して数日が経っていた。バスで来たという隼は、何故か歩いてきた愛以上に濡れており、事務所に着くなり自身のロッカーから予備の着替えを取り出していた。このような大荒れの日にわざわざ事務所を訪れる依頼人は少なそうに思えたが、電話やメールでの相談は来ないとも限らない。案の定、宿題を終えて一息ついたところで、受付の電話が鳴りだした。
「はい、黒川調査事務所です」
『愛か。豊はいるか?』
予想に反し、電話の主は新田だった。どこか屋外から掛けてきているのか、彼の背後にはザーザーと滝のような雨音が響いており、通話の音質は非常に悪かった。
「います。内線で繋ぎますね」
愛はそう言って内線を取り次いだ。大学にいることの多い新田から豊に用事があるといえば、事務所に電話がくるのはいつものことだったが、屋外から急ぎで掛けてくるようなことは稀だった。数分の後、隼を引き連れた豊が応接室に顔を出し、愛と隼の二人に向けて重大な予定を告げた。
「例の大学に入れる目途が立った。明後日、機材を設置しに行く」
愛は、緊張で息をのんだ。鈴村が襲われてから一週間が経過し、野放しになっていた『緑』を追う用意がついに始まろうとしていた。最初の難関は『緑』の存在を告げずに件の大学に入り込むことだったが、新田がうまくやってくれた、と豊は語った。
豊はスケジュールの調整を愛に頼んで、所長室へと引き返していった。隼はすぐには事務室に戻らず、黙って自身のカップに茶を注いでいた。応接室に奇妙な沈黙が訪れる。何せ、夏に続いての〔S〕ランク合成獣との対面が実現しそうなのだ。今回は、恐らく本格的な戦闘は避けられないだろう、彼らの間に緊張感が漂うのも無理はなかった。
「『聖』に続けて『緑』とか、どーなってんだよ」
隼は、半ばぼやくように呟いた。夏に『聖』を追った現場に彼は来なかったのだが、結局『聖』の正体はこの事務所の所長である豊その人であり、愛たちは『聖』のエネルギーの解放を兼ねた軽い戦闘(と言っても、その戦いは一方的だった)に付き合わされただけで、実害は特に無かったと言ってよかった。隼だけが未だその真実を知らず、人型に近い『聖』の真の姿も拝まないままだった。今回、人間に化けた『緑』が鈴村を襲ったと聞いたとき、彼はあからさまに嫌な顔をしてみせた。
「〔S〕ランクは変身能力があるっつーけどよ……人間にもなれんのかよ」
そう言って隼は顔を歪め、傍目にも明らかな嫌悪感を示した。普段、彼の目の前にいる所長こそ〔S〕ランク合成獣の変身した姿なのだが、その事実が愛に告げられるはずもなく、彼女は黙って隼に同調するしかなかった。
降り続ける大雨のやむ気配はなく、雨音だけがすっぽりと事務所を包み込んでいた。愛は勢力の強い台風の進路を気に掛けながら、雨粒が休みなく叩きつけられる応接室の窓を見遣った。
* * *
遡ること一時間前、新田は大川町にある某大学のキャンパスの一角、真新しい学食のテラスを訪れていた。広い軒下のスペースとはいえ、このような悪天候の日に好んで屋外の座席を選ぶ者は他におらず、新田は約束の相手をすぐに見つけることができた。
「おう。久し振り」
背もたれに寄りかかって煙草を吸っていた相手は、新田に気がつくと手を上げて気安く挨拶をし、予め注文してあった新田の分のコーヒーを差しだした。新田は濡れたビニール傘をたたみ、白衣にかかった雨を払うと相手に声を掛けた。
「悪いな、急に」
「構わねぇって。いいから座れよ」
席を促された新田はプラスチック製の椅子を引いた。彼が呼び付けた相手は
いつもぶっきらぼうな新田とはまるで対照的な性格の湯浅だったが、二人は高校時代から不思議と気が合い、現在でもこうして時折、互いを頼るような間柄だった。新田は彼と話をするのに、わざわざこの食堂を指定したのだが、付近の席に人はおらず、周囲は雨音に遮断されて、内密の話をするには好都合だった。
「こんな日にわざわざ来るってことは、よっぽどの用があるんだろ?」
湯浅はそう言って灰皿に煙草の灰を落とした。親しみやすい乗りで誰にでも人気のある湯浅だったが、その外当たりの軽さとは裏腹に鋭い洞察力の持ち主でもあり、口も固く信用の置ける男だった。
自分が彼の元を突然訪れ、人の少ない時間帯と場所を指定した理由も、重大な用件があるためだとそれとなく勘づいている。長い付き合いでそう感じ取った新田は、コーヒーを一口含むとカップを置き、言い訳や前置きは一切抜きにして、話の本題を切り出した。
「結論から言う。今この大学には相当やばい合成獣が棲み付いてる」
新田の宣告を黙って聞いていた湯浅は、眉を少ししかめただけで、表情をほとんど変えなかった。それから上を向き、ふー、と長く息を吐いて天井を仰いでいたが、少しするとさっと頭を戻し、新田に視線を合わせてきっぱりと言い切った。
「俺は厄介事には関わりたくない。以上だ」
「話は最後まで聞け。そいつは俺たちが三日で捕える。その間、誘き寄せて捕獲するための場所が欲しい。できるだけ広い所だ」
有無を言わさず話を続ける新田の様子からは、背後に余程の事情があることを湯浅に察知させた。彼は、あえてそれに気付かないふりをし、煙草をふかすと投げやりに返事をした。
「学長に頼めよ」
「それができないから、お前に頼んでんだろ」
湯浅は心中で頭を抱えた。突然の頼みごととしては背景が不明すぎる上に、何より一介の助手である彼に大した権限はない。恐らく、新田自身も無理を言っているのは承知の上なのだろう、だがそんなことは問題ではないとでも言いたげな、彼らしくもない強硬な物言いだった。
「三日、の根拠は?」
「ない」
湯浅は溜め息をつき、頭をかきむしった。この馴染みは一見、無口で人当たりも悪く、また本人もその誤解を解こうとしないがために、誰からも好かれる性質とは言い難かった。だがその実、当人が一度、関わると決めた人と物事には最後まで付き合い通す、隠れた情の持ち主であることを、彼はよく知っていた。断りの返事をする代わりに、湯浅は率直な感想を口にした。
「相変わらず、面倒な事件に関わってんな」
新田は返事をせず、まっすぐに彼を見据え続けていた。大雨は変わらぬ調子でコンクリートの床を叩きつけ、賑やかな雨音を奏でている。湯浅は眼を閉じて腕を組み、そのまま黙って考え込んでいたが、やがて諦めたように言葉を漏らした。
「来月からの建て替え工事で体育館が封鎖されてるが、あそこには以前から害獣が棲み付いてるって話だ。珍しい種類で調査が要るらしい、とでも俺から言っておくから、解体する前に入れてもらえ。四、五日は時間を稼げるだろ」
湯浅はそれだけ言うと席を立ち、灰皿を乗せたトレーを持ち上げた。新田は再びカップを手に取ると、普段と変わらぬ表情のまま簡潔に謝意を述べた。
「助かった。礼は今度する」
「いらねぇよ、そんなもん」
湯浅はそっけなくそう答えると、トレーを返却するために屋内へと向かった。そのまま彼は廊下を通じて学長室へと出向き、新田は席でとうに冷めたコーヒーを飲み干した。雨音に交じって雷鳴が聞こえるようになり、これからますます酷くなる天候を予期させた。
* * *
台風がじりじりと接近して上陸を控えた二日後、豊と愛、隼の三人は車に機材を積んで大学へと向かった。記録的な豪雨のために視界は著しく不良で、横殴りの雨は音を立てて車体を叩きつけ、ワイパーに仕事を休む暇を与えなかった。大学の手前を流れる一級河川は既に危険水域まで増水し、堤防の決壊を今か今かと待ち望んでいるようだった。
大学の敷地内まで車を進めると、大雨の降りしきるキャンパス内にはほとんど
「俺は学長に挨拶をしてくる。隼も先に用件を済ませておいで」
用件? 心当たりのない愛が隼の方を見ると、分かった、とだけ答えた彼は珍しく神妙な顔をしていた。一人、傘を差して学長室に向かう豊の背を見送ると、隼は黙ったまま、機材の積まれた車の後部に頭を突っ込んだ。何を取り出すのかと愛が思っていると、車から頭を出した彼が手にしていたのは、積み上げられた機材の一番上に置かれていた花束だった。確かに出発前に積み込みを行ったとき、仕事にそぐわない荷物に違和感を覚えたのだが、それが隼の物だとは愛は知らなかった。
花束を片手に車の戸を閉めると、隼は無言のまま傘を広げ、案内もなしに大学の構内を歩き始めた。どうすべきか一瞬迷った愛は、それでも黙って彼の後をついて行くことにした。隼の方も何も言わなかった。数メートルの距離を開けて歩く二人の間には、雨だけが変わらずに降り続いている。灰色の景色の中に、隼が手にした花束だけが色鮮やかに揺れた。
と、隼が歩みを止めた。彼の目の前には背の低い石碑が、周囲の建物に埋もれるようにひっそりと存在していた。色の濃い石碑の正面に彫られた文字を、愛は後方からそっと読み取った。研究所事故慰霊碑、とあった。
「ここで、死んだんだな」
そう呟いた隼の声は抑揚がなく、真後ろにいる愛には彼の表情は分からなかった。隼の両親が死んだ、研究所の爆発事故の中心点が、まさにここだった。掛けるべき言葉も見つからず、見守るしかない愛の前で隼は石碑の前にかがみ、ゆっくりと手にしていた花束を供えた。
「大学に行くっつったらよ、ばーちゃんが持ってけってさ」
愛に言い訳するように隼はそう言い、後ろにいた彼女の方を振り返った。愛の予想に反して、彼の表情は非常に淡泊だった。愛は遠慮がちに二、三歩歩みを進めると、隼の隣に立って雨に濡れる石碑を見下ろした。石碑の両側面には小さな文字でびっしりと犠牲者の名前が刻まれており、恐らく背面にまでそれは続いているようだった。
花を供えた隼はかがんだまま、黙って愛と並んで石碑を眺めていた。強い雨音だけがその場に響いていたが、しばらくして彼はぽつりと告げた。
「しょーがねーよな。事故なんだからな」
それはまるで、己を無理に納得させるような声音だった。それでいいのか、と言いたげな愛の視線を感じたのか、隼は立ち上がると、溜め息を一つ吐きだして、それから独り言のように言葉を続けた。
「事故だからな。誰も悪くないんだったら、恨んでもしょーがねーよ」
果たしてそう割り切れるものだろうか、と愛は考える。彼女が事務所に勤めることが決まった日、隼は自分の両親が事故で死んだという事実をあっけらかんと述べた。あの時は心底気にしていないような素振りに見えたが、それは泣いていた自分を気遣うための仕草であり、恐らく彼の心中でも、仕方ないことだと思えるようになるには長い年月が掛かったはずだと、今になって彼女は理解した。
愛が二年近く前のことを思い出していると、隣にいた隼は、でも、と呟き、曇った空を見上げるとはっきりと告げた。
「でももし、誰かのせいで死んだんだったら、俺はそいつを絶対許さねぇ」
隼の声はいつになく硬く、その視線は遠い雨雲を鋭く射抜いていた。険しい表情をしていた隼は、ふと力を抜くと踵を返し、体育館の方に足を向けた。そのまま歩み出すかと思われた彼は、動きを止めると愛に背を向けたまま、付け加えるように呟いた。
「所長も、親代わりの博士を亡くしたっていうからな。俺と同じ気持ちなんじゃねーの」
それだけ言うと、隼は体育館に向かって歩き出した。愛も、黙って彼の後を追った。二人の足音は強い雨音に紛れ、湿った空気の中に溶け込んでほとんど聞こえなかった。
* * *
豊が内側から体育館の外扉を開け、横付けした車から機材を搬入し始めた。体育館のすぐ脇に車を停めていたのだが、強風にあおられた雨によって三人はすっかり濡れてしまい、屋内にも降り込んで、床には雨水が吹き付けられていた。全ての機材を搬入し終え、入口にできた水たまりを拭き取ると、屋外とは打って変わって、体育館の中にはしんと静けさが広がっていた。老朽化のために建て替えられるという建物は確かに古びており、壁にはひびや染みが多数見受けられた。
いつも通りに機材を運び込んだところで、今回捕えようとしている相手は〔S〕ランクの『緑』だ。それも『緑』の位置情報に関しては、この大学のどこかで待つ、と『緑』自身が告げた言葉が全てであって、都合よくこの体育館に棲み付いている確率など皆無に等しい。そもそも機材を設置する意味があるのか、隼も愛も分からないでいたが、普段と同様にすればいい、と豊が指示を出した。
「今回、表向きは体育館に棲み付く害獣の調査ということになっている。機材の設置はパフォーマンスのようなものだから、普段と同じ要領で適当に配置してくれればそれで構わない。こちらに用があるのは『緑』の方だし、奴には人間と同等の知能がある。機材を見てここが我々の拠点だと分かれば、向こうの方からおのずとやって来るだろう」
豊はあっさりとそう告げ、機材を設置するために自ら動き出した。隼と愛も機器を手に取り、いつも通りに壁や天井、隙間沿いに配置していったが、調査する対象がいないままセッティングを行うというのは奇妙な心持ちだった。広い体育館の各所と倉庫、控え部屋にまで一通り機材を設置するのに三時間を費やし、さてこの後はどうするのか、といったところで、豊が今日は引き上げると宣言した。
「引き上げちゃっていいんですか? まだ何も調査していませんけど……」
「『緑』の知能は確かに高いが、このキャンパスの広さだ。設置した機材に気付くまで少々時間が必要だろう。害獣のデータを取るのに数日掛かると説明しておくから、明後日また出直そう」
豊はそう言うと、体育館の鍵を返してくるから、二人は車に戻っていてくれ、と指示を出した。隼と愛が雨に濡れながら車の戸を開けていると、豊はひとり体育館の中央に立ち、床に手をつきながら周囲に向けて語りかけた。
「聞こえているだろう。……『緑』」
豊の声は静寂の中に吸い込まれていった。隼にも愛にも告げなかったが、体育館の床下には当初から強力な合成獣の反応があった。返答こそなかったが、『緑』がすぐ近くで彼の言葉を聞いていることを、豊は合成獣同士の共鳴感覚から確信していた。
「――今夜、一人で来る。決着をつけよう」
はっきりとした声でそう告げると、豊は立ち上がって歩き出した。コツン、コツン、という彼の靴音が反響する中に、もう一つの〔S〕ランク合成獣の気配が潜んでいた。
* * *
「ただいま」
隼は玄関でそう声を発すると傘をたたみ、中まで湿った靴を放り脱いだ。激しい雷雨の降り続く中、最寄りの停留所まではバスに乗ってきたものの、強風も相まって、真横から吹き付けられては、傘などまるで役に立たなかった。すぐさま脱衣所に向かってバスタオルを手に取り、濡れた服を脱ぐと手足を拭き始めた。
「あら、お帰り。酷い雨だね」
廊下から声を掛けてきたのは祖母だ。じいちゃんがお茶を淹れてるよ、と言い残して台所に戻っていった。隼は自分の部屋で手早く着替えを済ますと、課題を手にして祖父のいる居間に向かう。ちゃぶ台の置かれた四畳半の和室で、祖父は隼の分の湯飲みに音を立てて熱い煎茶を注ぎ、勉強の妨げにならないようテレビを消して新聞を広げた。ありがと、と言って隼は湯飲みを手に取る。息を吹いて湯気の立つ緑茶を冷ましていると、寡黙な祖父が珍しく口を開いた。
「今日は、例の大学に行ったんだってな」
「うん」
隼はそれだけ答え、一口茶を啜ると課題に手を付け始めた。祖父は新聞を広げたまま、黙って隼の方を見ていたが、しばらくすると立ち上がって隣室に向かい、箪笥の引出しから何かを取り出して戻ってきた。
「隼」
「なに」
祖父が勉強の最中に話しかけてくることは稀だったので、隼は面を上げて祖父の顔を見た。祖父はというと、いつもの渋面と変わらないような、それでいて一際苦々しげなような顔を見せたまま、手にしていた小さな本を差し出した。長い年月のうちに所どころ変色した、柿色の皮が表紙に貼られたその本は、
「……何、これ」
「お前の、親父の日記帳だ」
隼は驚いて目を丸くした。祖父が唐突にそのような物を差し出してきた経緯も分からなかったし、何よりもそのような物が残っていたこと自体に驚いた。彼が幼い頃に亡くした両親の遺品は、目に入ると辛くなるから見たくない、との理由で、事故のあった直後に祖母があらかた処分してしまっていた。彼は両親の匂いの残らぬ家で育ち、自分でもそれを不自由に感じたことはなかった。ただ、祖父母にならって法要の類は欠かしたことがなかったし、仏壇には記憶にない両親の写真が常に飾られていた。
「……なんで、今」
隼はかろうじてそれだけ絞り出すと、黙ったままの祖父の手から本を受け取った。日記帳は見た目にそぐわぬほどずっしりと重かった。少し逡巡してから、適当にページをめくると、長らく開かれていなかった本特有の香りが広がった。彼の目は黄ばんだ用紙の上に並んでいる、少し崩された独特の字に吸い寄せられた。
○月×日
研究の〆切が近い。泊まり込みが続き、家には夫婦とも帰れないでいる。両親に預けた隼は元気とのことだが、寂しい思いをさせてしまっている。来月の学会が終われば時間が取れるので、それまですまないとは思う。誕生日には休みを取って盛大に祝ってやりたい。
父の書いた文字をまともに見るのは初めてだった。研究所に勤めていた両親は夫婦そろって多忙を極めていたらしく、生前も隼と関わる時間は短かったようで、彼の記憶に両親の思い出がないのはそのためでもあった。
日記帳も十日に一度ほどの頻度でしか記録されておらず、文章も簡素だったが、そこには父の飾らない思いが率直に書き記されていた。研究所のこと、両親のこと、そして隼のこと。だが、この日に書かれている隼の誕生日は、この本の持ち主には二度と巡って来なかった。
父の書く『隼』の字は、繋がった横棒がきれいな等間隔で揃い、最後の一画はまっすぐに長く伸びていた。隼は鉛筆で書かれたその字に、消えないようにそっと指先で触れた。ほとんど全ての日に、その文字はあった。彼がこれまでに感じたことのなかった、生きた父の証だった。
「お前も、もうその歳だ。処分できずにいたが、どうするかはお前が決めなさい」
そう告げた祖父の声は耳に入らなかった。開かれた本は強張った手で握りしめられ、彼の頬には知らぬ間に水滴が伝っていた。静かな雨のような、一滴の涙だった。
* * *
降りしきる豪雨の中で体育館の扉を開けると、そこには漆黒の闇が待ち構えていた。いや、待ち受けていたのは暗闇だけではない。暗がりの中に、確かに何かの気配があった。豊の目はその存在を捉えた。合成獣の五感は、人間とは比べ物にならないほど鋭い。月明かりさえ差し込まない闇の中でも、豊は中央に立つ男の姿を判じることができた。長身を包むコートに、つばの広い帽子。待ち構えていたのは、鈴村が語っていた通りの姿をした大男だった。豊自身に並ぶほど強力な合成獣、〔S〕ランクの『緑』。
「人型で出迎えてくれるとはね。君は人間が嫌いなんじゃなかったのか」
「フン」
豊の言葉を聞くと、『緑』はその姿を変え始めた。人型の輪郭が歪み始め、体色が緑味を帯び始める。両手足がどろりと変形し、床の上に溶け落ちるように一つにまとまった物体は、もはや人間の知る生き物の形ではなかった。小山のように盛り上がった、口や耳さえどこにあるのかも分からない、大きなヘドロのような緑色の物体。
「言葉通り、一人で来るとはな。人間の所員など足手まといにしかならないんだろう」
「お前が望むのは、僕の始末だろう? 所員たちは必要ないはずだ」
豊はそう言いながら、自身の姿を変え始めた。左腕は消失し、骨組みだけの翼と太い尾が生え、右手と両脚が禍々しく変形し出す。枝分かれした触手状の右手に、突起の生えた左足、そして脛から先が鳥類の右脚。変異が完全に終わると、〔S〕ランク合成獣『聖』の本来の姿がそこにあった。
「『虹』の野郎をぶっ殺したのはお前だな? せっかくの実験を台無しにしやがって」
『緑』の言葉に、『聖』は眉を上げた。ちょうど一年前、高校に棲み付いていた〔A〕ランクの合成獣、『虹』を始末したのは確かに豊たちだった。
「やはり、奴を送り込んだのもお前か。出所が不明なのは怪しいと思っていたが」
「今回も邪魔をしてくれたな。人間なんざ皆、例のウイルスで死ねばいい」
「人類全てが、等しく死に値する存在ではない。それよりも……」
片方は鳥類の脚で、『聖』が三歩、前に歩む。身を低くして『緑』に対する構えを見せると、『聖』は一段と怜悧な声で告げた。
「鈴村が、世話になったな」
どこからか雷鳴が聞こえ、窓から一瞬の閃光が入り込んで屋内を照らした。怒りをもってこちらを睨み続ける『聖』を、『緑』はフン、と鼻で笑うようにあしらった。
「俺らより人間を贔屓か? 気に喰わない奴だ」
皮肉るように答える『緑』に対し、『聖』は無言のまま相手を睨み続けた。今ここにいる彼は特殊危険レベル、〔S〕ランクの合成獣であり、同時に所員たちを率いる個人事務所の所長でもあった。睨まれた『緑』は、まぁ、と余裕たっぷりに言葉を続け、それからあからさまに『聖』を嘲笑した。
「気に喰わないのは昔からだな。人間の博士に肩入れしやがって」
露骨に軽蔑の色が現れた『緑』の声音に、『聖』は激しく表情を変えて唸った。人間の喉から発せられる音ではない、獣のような低い唸り声だった。
「博士を悪く言うな」
「聖。お前は何故、人間の味方をする? 奴らは俺たちを制御できなかった。俺たちはもう、人間の手を離れた生き物なんだ」
そう問うた『緑』の語気は鋭かった。合成獣が生み出されて既に二十年近く、研究所の事故が起こって野に拡散してからは十三年が経過していた。爆発事故を生き延びた合成獣たちは、人類の管理を逃れてあらゆる場所に棲み付き、彼らは既に人の手を必要としなくなっていた。その事実は他でもない、『聖』自身も認める所だった。
「……そうだ。僕らは既に、それぞれ独立した存在だ」
人間と同等の知能を持ちながら、人類に一方的に生み出され、支配下に置かれていた合成獣たち。彼らにとって、自らの存在意義というのは常に危ういものだった。数多くいた研究所の同胞たちにも、生みの親である人間に反発する者もあり、飼育される運命を仕方ないと諦める者もあった。――そして、種族の垣根を越えて、人間として生きようとする者も。
「僕は自分自身の意志で、合成獣を排除しようと決めたんだ」
『聖』は迷いのない声で、はっきりとそう告げた。風の吹かない体育館の中で、沈黙する空気は冷ややかだった。稲妻が再び空を駆け、雷光が対峙する二人の姿を浮かび上がらせた。左右で色が異なる『聖』の双眸は、暗闇の中に強烈な光をもって輝いていた。
「……そうか」
『緑』がゆっくりと言葉を吐き、不定形の身体がうごめき始めた。右腕、と言うべきか、身体の右側上部から太く長い部位が伸び始めた。その先端はずっしりと大きく膨らみ、握り拳のように一際重量感を持った。拳の外側には無数の突起が生え、固く鋭利な刺になった。あの大腕を振り回されては危ない、恐らく命中すれば、重量のためにコンクリートの壁もえぐれるだろう。そう見て取った『聖』は自身の右手に集中し、攻撃をいなせるよう触手をしなやかに変質させた。
「そう言うなら、お前は敵だ。……来い」
『緑』の言葉を合図に、『聖』は強く床を蹴った。駈け出した『聖』の姿が『緑』と交錯し、体育館に鈍い音が響き渡った。
* * *
物同士が激しくぶつかる音がした、ような気がした。自室で宿題をしていた愛は面を上げ、窓辺に近づいて外の様子を窺った。自宅の前に植えられた街路樹の枝が暴風で折れ、愛の部屋の窓に押しつけられていた。一際強烈な風が吹いて枝を持ち去り、どこか路上に落ちる音が遠くから聞こえた。
何か、嫌な予感がした。得体のしれない不安が彼女の中に生じ、それは小さくも確かな重みをもって心の中に巣食いだした。部屋の中には掛け時計が刻む秒針と、吹き付ける風雨の音だけが満ち満ちていた。
数年ぶりの強い勢力を持つ台風は、今夜には関東に上陸し、明日の朝にかけて陸上を横断するでしょう、と特別編成のニュースで言っていた。高校は既に午前中の休校が決まっていた。午後には影響が和らいでいるだろうということで、豊からは特に何も言われていなかったが、出社できなかった場合を考えて、今のうちに確認しておこう、と思い、愛は自分の携帯電話を取った。それとも単に、誰かに連絡を取りたかったのかもしれなかった。
通話の呼び出し音が、無限に長く感じられた。誰にも繋がらない電話を掛けているようで、段々と不安が募っていくのを愛は感じた。まずは事務所に掛けてみたが、既に留守録だった。早めに退社したのかもしれない、と思い直し、豊の携帯に直接掛けた。繰り返される呼び出し音が、一音鳴るごとに彼女の中に降り積もっていった。
仕方なく通話を切ると、愛は言いようのない不安に駆られた。豊が電話に出ない、といった例はまずなかった。手が外せないほど重大な用件に関わっているのか。どの会社も終業時間を切り上げる、こんな暴風雨の日に? とは言え、思い当たる節が何もない訳ではなかった。豊は今、他でもない〔S〕ランクの『緑』の案件を抱えているのだ。
そこまで連想して、愛は不意にある考えに取りつかれた。豊が皆に事情を説明しないまま動くのは、いつも彼自身が先陣を切って行動しているときだった。そう、ちょうど今日の昼間のように。機材の設置はパフォーマンスだと言っていたが、ならば何故、その作業に三時間も掛けたのか。彼らが大学に長く滞在すればするほど、『緑』はこちらを発見しやすくなるはずだった。そういえば、『緑』が今どこにいるのか分からないと、豊はそうは言わなかった。合成獣同士の共鳴で、豊の方に『緑』の居場所が分かるのならば、他ならぬ『緑』の方もそうではないのか。もし昼間の時点で、彼らが互いの位置を把握していたとすれば、二日も時間を置く意味は全くない。そして何より、『緑』が待ち望んでいるのは、恐らく豊一人だ。
愛は勢いよく立ち上がり、慌ただしくレインコートを羽織った。まだ、大学行きの最終のバスが残っているはずだった。今からどこに行くの、と驚く叔母に、事務所に大事な忘れ物をした、とだけ告げ、玄関扉を強く押し開けた。道路の水かさは既に数センチにまで達していた。愛は足元の水を大きく跳ねあげ、土砂降りの雨の中に駈け出していった。
* * *
○月△日
近頃、博士の様子がおかしい。一部の研究員を理由もなく解雇し、研究の方向も突然、転換すると宣言した。今後は合成獣を駆除する研究を主軸にするという。何故、急にそのような事を言い始めたのか。理由は分からないが、合成獣の研究はまだまだ発展の途上にある。今、そのような方針転換をされては堪らない。責任者の交代を切に願う。
一際大きな雷鳴が轟き、体育館の中に薄明が差し込んだ。吹き飛ばされた『聖』は体勢を立て直し、『緑』に向かって再び駆け始めた。『緑』がその右腕を大きく振るい、ハンマーのように勢いをつけて床に叩き付けた。床材は音を立てて砕け、表面の板は剥がれて周囲に飛び散った。『聖』は床を蹴って飛び上がり、その攻撃を避けると、『緑』とは数メートルの距離を置いて着地した。
「やはり、本気を出さなければならないようだね」
そう告げると『聖』は自らの背中に集中し、骨組みのようなものだけだった翼を完全に変態させた。蝙蝠のような飛膜が骨格の間に張られ、羽ばたきに堪えうるだけの構造を形成した。二の腕から消失していた左腕が見る見るうちに伸び、先端には弧を描いた鎌のような部位が出現した。その切先は本物の鎌のように鋭く、金属のように青白い光沢をもって輝いていた。
「本気も出さずに、俺を倒せるつもりだったのか? ますます気に喰わない奴だ」
対する『緑』の方はそう答え、今度は身体の左側から腕を伸ばし始めた。右腕とは逆に、先端に向かうほど細く尖ったその腕は、対象を貫くための武器として存在していた。
『聖』はその腕を観察し、瞬時に対策を練った。人間に近い身体構造から抜け出せない代わり、身体の末端を自由に変質させられる『聖』とは対照的に、『緑』は基本不定形の生物であるため、どのような姿を取るのも自在だったが、その分変質させられる時間には限界があり、小回りも十分には利かなかった。とは言え、あの先端に身体を刺し貫かれては『聖』の受けるダメージも大きい。
まずは両腕の形状を維持できなくさせるため、遠隔から攻撃を与え続けることだ。そう判じた『聖』は体育館の中を見回し、天井から吊り下がった照明に目を留めた。形成したばかりの翼で宙に羽ばたくと、体育館の天井際まで飛び上がり、鎌のような左手で照明の根元を薙いだ。重い照明は加速度をつけて落下し、動きの鈍い『緑』に命中していった。
ドン、ガシャン、と大きな機材が壊れるような音が体育館の外まで響いてきた。中で戦闘が行われていることを確信した愛は、扉に手を添えると体重をかけて目いっぱい横に引いた。だが、古い扉は音を立てて軋んだだけだった。他の扉に走り寄り、同様に開こうとしたが、どの扉も結果は同じだった。いずれも内側から鍵が掛けられているようだった。
愛は焦る心を抑えながら、新田と隼に連絡を入れた。すぐに行く、とだけ言って新田は通話を切り、隼は豊の予想外の行動に絶句していた。彼らがここに駆け付けるまで、早くとも二、三十分は掛かるだろう。その間、何もできない自分がもどかしかった。雷鳴の混じる豪雨は容赦なく彼女を叩きつけ、雨に濡れた身体はつま先から冷えていった。
「……チッ」
照明による強打を浴びた『緑』はゆっくりと身体を変形させると、身に受けた器具を身体の横にどかしたが、その時には別の照明器具が彼の眼前にまで迫っていた。遠くの照明を切り落とし、『聖』が彼に向かって投げつけたのだ。人間に近い見た目からは想像もつかない剛力の『聖』に内心、舌を打ちながら、『緑』は紙一重の所で照明を受け止めた。重い衝撃を受けた右腕はしびれたように身震いし、制御が行き渡らなくなって勝手に変形し始めた。
あれだけの能力を持ちながら、何故、人間の味方をするのか。『緑』がその思いに囚われている間にも、『聖』は躊躇することなく攻撃を仕掛け続けてきた。自らを超える『聖』の実力に嫉妬しながらも、『緑』は右腕で大きな一撃を繰り出した。
壁に大きなひびが入り、天井から梁の破片が降り落ちる中、『聖』と『緑』の戦いは平行線を辿っていた。実際には、『聖』の方が有利なのかもしれなかった。いつまでも決着のつく気配はなかったが、少しずつダメージの蓄積していく『緑』に対し、『聖』はほとんどの攻撃を避けるかいなし、当初と何ら変わらぬ顔をしていたからだ。
自分よりも『緑』が疲労していることを感じ取った『聖』は、ここで一気に決着を付けるべきだと考えた。そして、彼がどこからか手にしたものは、『緑』を驚愕させるに十分だった。
「それは……!」
『緑』の声色が変わった。『聖』の触手状の右手が掴んでいたものは、合成獣の細胞に共通して効果のある薬剤のアンプルだった。一体どこから取り出したのか、薬剤は全く漏れておらず、『聖』自身は微塵も影響を受けていないようだった。
「鈴村を襲った時、うちの事務所から盗もうとしただろう? 結果としては失敗したようだが」
鈴村を襲った『緑』は所内を荒らしていったのだが、その目的は薬剤の強奪にあったようで、保管庫の類は、ある一つを除いて全てこじ開けられていた。もっとも、薬剤はその残された金庫に保管されており、『緑』の力をもってしても、それを破壊することはできなかった。
「あの金庫は特注品だろう。俺にも壊せないような箱にしまうとは、ご苦労なことだ」
『緑』の言葉通り、その金庫は豊が特別に発注したものだった。鍵穴があったところで、その形状に合わせて変身されてしまえば意味がないので、不定形の生物に鍵式の金庫は通用しない。電子ロック部にすら、合成獣の力でも壊せない超合金を使用した、まさに特注品の金庫だった。『緑』の悔しさを知ってか知らずか、『聖』は涼しい顔で言ってのけた。
「合成獣基本対策法第二十六条、合成獣にのみ効果のある薬物は劇薬指定だ。指定された事業所は厳重に保管する規約だからね」
「嫌みな奴だ。すっかり人間らしくなりやがって」
「誉め言葉と受け取っておこうか」
『緑』の皮肉をさらりと受け流し、『聖』は再び相手に向かって駈け出した。これも特注のアンプルを、右手に半ば埋め込むように固定し、『緑』の懐に入って薬剤を注入する機会を窺う。以前よりも必死になって仕掛けてくる『緑』の攻撃をかわしながら、『聖』は『緑』に問うべき事項を考え始めていた。
強烈な雨音に交じってエンジンの唸る音がした、かと思うと、体育館の前にバイクを停める新田の姿が見えた。後部座席には隼を乗せている。愛が電話を掛けてから、まだ恐らく十五分ほどだったが、その間にも屋内からは、絶え間なく破壊音が聞こえ続けていた。
「新田さん!」
「ったく、あの馬鹿め」
新田は盛大に毒づき、後部座席のシートを上げた。バイクの物入れから取り出したのは、一台のノートパソコンだった。体育館に設置した機器類、多数のセンサーやマイク、ビデオの全てを統括し、データを無線で収集するためのものだった。
「入れねえなら、まずは内部の様子を探る」
新田はそう言い、パソコンを立ち上げて迅速に操作を始めた。隼と愛が目を見張るような手際の良さだった。システムはすぐに立ち上がったが、暴風雨のために、通信の状況は極めて悪かった。愛は自分の傘を掲げ、雨に濡れるノートパソコンを覆った。パソコンの向きを変え、無線の具合を調整しながら、新田は、ひとり闘い続ける豊の状況を案じた。
「一つ、訊きたい事がある」
そう問いかけたのは、『聖』の方だった。紅い鎌状の左手によって、胴体に深い傷を受けた『緑』の方は、攻撃の手を休めた『聖』を睨み返すと、嫌みをもって返答をした。
「お前に訊かれる事があるとはな。何だ」
「十三年前の、爆発事故だ」
『聖』は落ち着き払った声で、明瞭にそう告げた。その言葉を聞いた『緑』は、彼を嘲笑うと、さも可笑しげに返事をした。
「事故だ? 故意に起こしたものを事故とは言わんだろう」
無線の調子は、一向に改善しなかった。新田は内心、焦りながら調整を続けた。隼と愛は、何もできない己のもどかしさを抱えながら、祈るように新田を見守った。体育館からし続けていた破壊音が途切れた、その直後、通信の一部分だけが突然、繋がった。
新田は逸る気持ちを抑えながら、無線の周波数を調節した。入ってきたのは、音声のデータだけだった。だが、それだけの情報でも、三人にとっては藁にもすがる思いだった。
『緑』の返してきた言葉の内容に、『聖』は虚を突かれて歯を喰いしばった。それは確かに、否定しようのない真実だった。もう何度目か分からない雷鳴が響き、俯く『聖』の横顔を雷光が照らし出した。
「……そうだ」
呟くような返答は、『緑』にすら届かなかったかもしれなかった。それでも『聖』は、覚悟を決めて面を上げると、己に言い聞かせるようにはっきりと言い放った。
「あの爆発事故を起こしたのは、博士だ」
その音声は、唐突に彼らの耳に滑り込んできた。最初はほとんど雑音しか聞こえなかった通信は、周波数を調節するにつれて改善し、音声がほぼクリアになった次の瞬間、聞き慣れた豊の声が、明晰に言葉を紡いだ。
三人は、まず内容を理解するのに数秒の時間を要し、それから、放心して表情を失った。周囲の雨音は、既に聞こえてはいなかった。
愛は、なぜ、という思いで頭がいっぱいになり、何も考えられなかった。新田は、その事実が告白されたことの方に、衝撃を受けている様子だった。そして、顔面蒼白になってしゃがみ込む隼は、告げられた真実、それ自体を受け入れまいと、自身の胸中で必死に否定しているようだった。
『あの爆発事故を起こしたのは、博士だ』
それはすなわち、彼の両親が、博士の手によって殺されたことを意味した。
* * *
□月×日
所内の最高責任者が替わる見通しとなった。やはり、博士が独断で研究者を処分し、研究方針の転換を強行したことが要因のようだ。事実上の更迭だが、近頃の言動では無理もないと感じる。彼の今後は気に掛かるが、引き続き合成獣の研究ができることを嬉しく思う。
「……ここの責任者を、追われることになった」
博士は机に視線を落したまま、豊の方を見ずにそう言った。豊は突然の宣告に言葉を失い、目を見開いて博士を見つめ続けた。消沈した博士は諦めきったような、苦い微笑みを見せたまま立ち上がり、豊に背を向けて力なく窓辺に向かった。
「どうして。博士は実績を出しているじゃないですか」
豊は告げられた内容が信じられないまま、必死になってそう反論した。無秩序だった合成獣の分類を、個々の能力や有効な対策法を基に系統立て、危険度別に分かりやすくランク付けしたのは博士の功績だった。だが博士は、頭を振ると苦々しげに答えた。
「奴らが欲しいのは、合成獣の駆除に関する実績じゃない。これまで通りの研究だ」
それはすなわち、今後も合成獣の品種改良を推進していくことを意味した。実際には改良とは名ばかりで、半ば制御できないまま実験が暴走した結果が『聖』や『緑』だった。
「〔S〕ランクの危険性を訴えたが、奴らは聞く耳を持たない。合成獣研究の可能性は未だ発展の途上にある、更なる成果を上げるために尽力せよ、とのことだ」
博士は皮肉げにそう言うと、脱力したように椅子に身を落とした。豊は掛けるべき言葉を見つけられないまま、悔しげに唇を噛んで拳を握りしめた。
苦しい沈黙が、二人しかいない部屋の中を包み込んだ。しばらくの間があって、博士がぽつりと呟き出した。
「ここを追われたら、俺はどこかに飛ばされるだろう。これまで通り、お前を庇ってやることもできない」
「……それは」
僕のことはいいんです、と豊は言うつもりだった。だが、それは言葉にならなかった。
〔S〕ランクの合成獣である自分を人間として扱い、付属の施設に籍を置いて子供たちと同様に生活させる。博士が一人で〔S〕ランクの合成獣を全て統括している、現在の状況だからこそ可能な無茶だった。博士がどこかに左遷され、研究所の合成獣に関する権限が他人に移ればまた、豊は『聖』として研究員の管理下に置かれる運命だった。
「何より、もうお前たちのような生物を生み出すべきじゃない。……合成獣研究は、俺の代で終わりにさせる」
憔悴したような博士の言葉は、最後の一言だけ異様に力を込めて言い切られた。それがどういう意味なのか分からずに自分を見上げてくる豊の顔を見つめ、博士は微笑むと静かに告げた。
「この施設ごとなくなれば、研究は立ち行かなくなるだろう。研究所は爆破する」
「! 何を……!」
驚きで言葉を失う豊の頭に、博士は手を乗せた。初めて彼を飼育槽から出し、謝りながら肩を抱いたときと同じ、大きく温かみのある手のひらだった。
「お前に、頼みがある」
暗い体育館の中央で、『聖』と『緑』は向き合っていた。いつの間にガラス窓が割れたのか、激しい雨音が屋内にも届くようになっていた。『聖』は、屋外に複数の人間がいる気配を感知しながら、『緑』に向かって言葉を続けた。すぐ外に誰が来ているのかは、何となく分かっていた。
「研究所の爆発自体は、博士の手によるものだ。だが、被害は付属の施設にまで及んだ」
博士の計画では、爆破されるのは研究棟だけのはずだった。だが、爆発はその規模には留まらなかった。子供たちの暮らしていた施設も含め、敷地内は跡形もなく粉塵に帰した。
「博士の仕掛けた爆薬に、手を加えた者がいる。……それはお前だろう、緑」
『聖』の糾弾に、『緑』はすぐには返答をしなかった。割れた窓ガラスから強風が吹き込み、雨粒を伴って体育館の中を駆け巡った。肯定も否定もせずに、『緑』は言葉を返した。
「何故、そう思う?」
「用意された爆薬の量は、研究棟だけを吹き飛ばす分しかなかった。何の科学的要因もなしに、威力が数倍になることはあり得ない。お前の吐く粘液の中に、化学反応の効率を高める、触媒となる成分が含まれていたはずだ。それはお前自身も知っていただろう」
『聖』の推論は的確だった。『緑』は黙って身体をうねらせると、フン、と息を吐いた。この件についてだけは観念した、そんな様子だった。
「まさか、ばれる日が来るとはな。だが、爆発自体を起こしたのは俺じゃない」
「だったら、無実だとでも言うか? お陰で何人の子供たちが死んだと思っている」
「そんなのは、俺にとっちゃ構わない。大体、研究員どもは、俺が小細工せずとも死んだだろう」
『緑』の指摘に、『聖』は黙って視線を落とすしかなかった。博士の望み通り、研究棟だけを爆破できたところで、それに何の犠牲も伴わないはずはなかった。
「……そうだ」
『聖』は、小さな声でそう答えた。博士のとった行動が、必ずしも最善策だったと言える根拠は、何もなかった。だが、だからこそ、少なくとも彼自身だけは、博士の味方でいようと決めたのだ。
「だから、博士は自ら爆発事故に巻き込まれて死んだんだ」
隼は突然立ち上がり、体育館に向かって駈け出した。扉は相変わらず開かなかった。彼は歯ぎしりをして左脚を大きく振るい、扉の下方を激しく蹴り付けた。当然、というべきか、扉には何の変化もなかった。衝撃を受けて痺れているはずの彼の左足は、しかし、何の痛みも感じなかった。
「畜生!」
開かない扉に向かって、彼は吠えた。感情の起伏が大きい隼だったが、彼がこのように激高するのを、愛は初めて見た。掛ける言葉を愛が必死に探していると、パソコンに取りついていた新田が顔を上げ、隼に向けて鋭く怒鳴った。
「よせ! 怪我をするだけだ」
「落ち着いていられるかよ! 何だよ、さっきの」
轟く雷鳴に負けないほどの大声で叫んだ言葉は、最後には詰まるようにして途切れた。彼自身、自分が冷静でないことは百も承知しているようだった。それでも、じっとしているなど、今の彼には到底できないことだった。
「……何だよ、あれ」
その表情は半ば泣きだすかのように崩れ、絞り出した声は震えていた。衝撃と憤怒を抱えたまま、混乱して取り乱す彼に、愛は何も言うことができなかった。短い沈黙があって、新田が口を開こうとしたそのとき、パソコンの画面が変わった。
「新田さん! 画像が」
愛の叫びを聞いて、新田はパソコンに視線を戻した。これまで繋がらなかった画像の通信が、突然入ってきたのだ。暗視カメラのデータを基に、見やすくするために色味を調節したその映像は、時折ノイズを含みながらも、画面上ではっきりと動き出した。
「豊、さん」
映された体育館の中央には、二つの姿があった。見覚えのない片方は、恐らく『緑』だろうと直感的に理解したが、もう片方の姿に、愛は思わず言葉を漏らした。人間の姿のまま戦っているだろうと思っていた豊は、『聖』本来の姿をあらわにしていた。
呆然として呟いた愛の様子を見て、隼はパソコンの元まで歩いてきた。訝しげに画面を覗き込んだ彼は、『聖』の姿を見て目を見開くと、その表情は凍りついたまま動かなくなった。
「……んだよ、これ」
かろうじて動いた口先だけが、無意識のうちに言葉を紡いでいた。そこにいるはずの所長は、彼の知らない化物の姿をしていた。画面に釘付けになったまま動けない隼と愛の耳に、ちっ、と新田が舌打ちをする音が聞こえた。
「あいつめ。無茶しやがって」
一瞬、その意味を理解するまでに時間を掛けてから、隼は新田の方を振り返った。苦々しい表情をしていた新田は、それでも三人の中で唯一、この状況下で落ち着き払っていた。だが、その事実は、隼には気に喰わなかった。
「どういう、意味だよ」
震える声のまま、隼が呟いた。今の新田の毒づきは、豊が異形の生物であるという事実を受け入れた上に成り立つものだったからだ。だが、新田は返事をしないまま、画面上の二人を睨み続けていた。
「どういう意味だよ!」
周囲の雨音もかき消すような大声で、隼は叫んだ。信じがたい事実を立て続けに突き付けられた彼の脳は、とうに理解の容量をオーバーしていた。胸倉に掴みかかってきかねない勢いの隼に、新田は苦しげに顔を歪めていた。二人の様子を、黙って見ているしかなかった愛は、気付けば自分でも意外なほど冷静な声で、その事実を告げていた。
「豊さんは、合成獣なの。それも、〔S〕ランクの」
自分が口にした言葉を他人事のように聞いていた愛の方を、隼は目を丸くしたまま、ゆっくりと振り返った。放心しきったその顔からは既に、驚愕以外の表情は全て失われていた。
「……何だよ、それ」
何度目になるか分からない呟きを漏らすと、隼は糸が切れたように、その場にへたり込んだ。地面についた膝が濡れるのも構わず、焦点の合わない瞳で宙を見つめていた。無慈悲な雨が彼に激しく降り付け、その頭を、身体を見る間に冷やし切っていった。
体育館の割れた窓から、大粒の雨が吹き付けてきた。中央にいる『聖』と『緑』は、互いを牽制し合ったまま動きを止めていた。降り込んだ雨が床を濡らし、水たまりは時折光る稲妻をその身に映していた。
「博士が死のうが、俺にはどうでもいい。まぁ、結果的には、奴のお陰で自由になれたがな」
『緑』は死人を嗤うようにそう告げると、改めて『聖』の様子を観察した。先程から、こちらに攻撃を仕掛けてくる様子はない。奴も少しは疲弊したか、そう思う『緑』の方は、胴体に深く刻まれた傷が大方回復していた。反撃を始めるなら今だった。
「さて、決着を付けるか」
そう言って腕を持ち上げようとした『緑』は、そこで初めて異変に気付いた。自分の両腕が重い。いや、思うように動かない。硬質化させていた表面もほぼ元に戻り、新たな腕を形成しようにも、身体全体の反応が明らかに鈍っている。
「これは……」
焦る『緑』に対し、『聖』はわずかに口元を持ち上げた。『聖』の触手状の右手が掴んでいたのは、あの、薬剤のアンプルだった。
「左手に塗り付けたのか……!」
『聖』はずっと右手にアンプルを持っていたが、それは左手への注意を疎かにさせるためのものだった。赤紫色をした液体は、『緑』の胴体に深く斬り付けた左手の鎌に塗り付けられていた。傷口は既にほぼ塞がり、吸収された薬剤は体内に拡散していた。『聖』に元々はない左腕を使い捨てる覚悟なら、十分に取れる戦法だった。
「そろそろ、体液を通じて全身に行き渡った頃だろう?」
「お喋りは時間稼ぎか。……やられたな」
「違う。結果的にそうなっただけだ」
『聖』は冷静にそう告げると、左腕を二の腕から消失させた。右手に持ったアンプルを構え直し、『緑』に向かって助走を付ける用意をした。
「俺を、殺すか? ……聖」
返事を悟りきったような声で、『緑』は問い掛けた。『聖』は返事をせず、黙ったまま強く床を蹴った。その一撃をかわす手段は、もう『緑』にはなかった。
『聖』が『緑』の本体に飛び掛かった、その瞬間、触手が構えていたアンプルを鋭く突き刺した。ぶすり、という音が聞こえるほどの勢いで、含まれていた薬剤は余すことなく注入された。『聖』が自分を飛び越して行くとき、ああ、俺は死ぬんだな、という思いと共に、体内で生じた身体の異変を『緑』は感じ取った。
その変化は的確に、『緑』の身体を蝕んでいった。神経に直に作用した薬剤は、傷口から侵入した数倍の速さで体内を駆け巡っていった。自分の身体が強張っていくのを感じながら、『緑』は、最後の言葉を紡いだ。
「お前……は、何故、俺たちを殺す? 聖……」
言葉が最後まで発せられたとき、緑色の身体は既に黒く固まっていた。収縮して一回り小さくなった『緑』の身体を、『聖』は振り返らないまま、既に聞く者のいない答えを呟いていた。
「何故、って?」
アンプルの突き立てられた箇所から体液が漏れ出し、音を立てて蒸発していった。『聖』は自分の頬に伝う涙に気付かないまま、一人ごとのように返事を紡いでいた。
「博士の、望みだからさ……」
外からは絶え間なく暴風の音が聞こえ、冷たい雨が体育館に吹き付けていた。人知れず空に懸かる月の明かりは冴え、だが厚い雲に遮られて地上までは届かなかった。
* * *
愛が隼に掛けるべき言葉も見付けられずにいた、その時、これまでにない勢いの突風が彼らを襲った。吹き飛ばされそうなほどの風を三人がなんとか凌ぐと、何かがバキバキと折れる音が響き渡った。愛が後ろを振り返ると、暴風に耐えかねた大木が、根元からこちらに倒れてくる姿が目に入った。
「危ない!」
一人放心していた隼は、その声に初めて後方を振り返った。数メートルもあろう大木が体育館に向かって倒れ、まさにその途上に隼は座り込んでいた。新田がパソコンを投げ捨てて、足の動かない隼に飛びかかり、片腕で彼を抱えると、水深数センチにもなる地面に向かって激しくスライディングした。泥の上を滑った二人の元いた場所に、間一髪のところで大木が倒れ込んだ。
「新田さん!」
「っ
肩から地面に飛び込んだ新田は、頭を地面に強く打ちつけていた。新田に頭を守られていた隼は無事だった。愛は二人の元に駆け寄ると、大丈夫、と尋ねて二人を助け起こした。ようやく目の覚めた様子の隼は、ああ、と返答し、新田は頭を押さえつつも、何とかな、と返事をした。ほっとした愛の胸からは息が吐き出され、それから彼女は倒れた大木を振り返った。元より根元から腐っていたのか、木の周りには危険注意を促す看板が何枚も散乱していた。
そして、大木の倒れ込んだ先には体育館の扉があった。直径数十センチの幹が衝突した扉はひしゃげ、蝶番が壊れて建物から外れかかっていた。
(豊さん……!)
愛は体育館に向かって駈け出し、精一杯の力を込めて扉を開け放った。
急に降り注いだ眩しい光に、愛の目は一瞬くらんだ。だが、その光は館内でまばらだった。見ればあちこちで照明器具が外れ、壊れて無残にも床に転がっている。一部の窓ガラスが割れ、散乱した破片が照明の光をあちこちに反射していた。
豊は、既に普段と変わりない出で立ちだった。まるで表情のない顔を向けて、こちらを振り返っている。その向こうには、小山のような黒く動かない物体があった。十数年に渡って人間を憎み続けた、彼の宿敵にして旧友、そのなれの果ての姿だった。
気付けば愛は、黙ったまま、豊の方に向かって歩いていた。水を頭から被ったようにずぶ濡れの全身も、もはや気にならなかった。雨水で重くなった身体を引きずりながら、愛は豊の手前、数メートルのところまで歩き着いた。
「何が、あったんですか」
自分でも意外なほど、口から出た声は冷静だった。振り返っていた豊は、ゆっくりとその半身を戻すと、暫く黙し続けた。開け放たれた扉から、外の雨音が、どこか遠くのことのように聞こえていた。そして不意に、愛に背を向けたまま、彼は静かに返事をした。
「いいや。……何もなかったよ」
外から聞こえる雨音が、一際大きくなったように感じられた。割れた窓ガラスから吹き込む雨粒が、床の上に模様を描いては消していった。
「お前に、頼みがある」
そう告げた博士の眼は、一片の曇りもなく透き通っていた。自分を見つめる瞳は、ただひたすらに優しかった。覚悟を決めた者の眼だと、豊は心のどこか遠くで感じ取っていた。
「研究棟が吹き飛べば、合成獣の大半は死ぬだろう。だがもし、生き残った奴がいれば、お前の手で処分してほしい。それが俺からの、最後の頼みだ」
「……博士は」
答えを知っていながら、豊はむきになって問い返していた。博士は黙って、微笑んだまま、彼の頭をかきなでた。父親が我が子に向けるような、優しい瞳だった。
「俺は、行かなくちゃならん。お前は、生きろ」
静かにそう告げた博士は、確かな足取りで所長室を出ていった。残された豊は、自分の頬に伝う涙に気付いた。人間になれた証のそれが、今は憎らしかった。人間になれて初めて、憎らしいと思った涙だった。
愛が体育館を出ると、新田と隼は、先程までと同じ位置にしゃがみ込んでいた。正確には、動けないままの隼を、新田が見守っていると言った方が正しいようだった。愛が足音を立てて二人に近づくと、新田が頭だけでこちらを振り返り、彼女に向けて簡潔に尋ねた。
「あいつは」
「無事でした」
自分でも素っ気ないと思える返事だったが、それだけで新田には十分なようだった。その遣り取りを黙って聞いていた隼は、無言のまま立ち上がり、両膝を手ではらうと、豪雨の中、どこかに向けて走り去っていった。
「隼」
「……放っとけ」
小さな声で、新田がそう呟いた。その言葉とは裏腹に、視線は隼の後ろ姿を追いかけ、言葉よりもはるかに饒舌に、彼を心配する気持ちを物語っていた。
隼が雨の中に消えていった方向を二人が見つめていると、いつの間にか、豊が背後に近付いてきていた。視線で二人と同じ先を追う豊に、新田が隼の消えた方角を見遣ったまま、最低限の確認事項を問うた。
「『緑』は」
「倒した」
それ以上の何の意味合いも含まない声音で、豊は返した。降りしきる雨音に交じって雷鳴が轟き、閃光が倒れた大木の姿を浮かび上がらせた。恐らく帰らないであろう隼の身を案じながら、三人は、ただ黙って雨に濡れていた。このまま夜明けまで続くような、何者にも遮られることのない沈黙だった。
* * *
後ろから、愛が自分を呼び止めたような気がした。けれどもそんな些細なことは、既に彼の中では何でもなかった。街灯の明かりすら霞ませるほどの豪雨の中、
あれだけの合成獣を退治してきた所長が、合成獣だという。新田と愛は、以前から知っていた様子だった。自分だけが知らされていなかった理由よりも、その事実自体を、隼は受け容れられなかった。おかしいだろ、そんなの。自分は、一体何を信じてこれまでついて来たのか。そして、十三年前の事故に関する、彼の紡いだあの真実。
『所長も、親代わりの博士を亡くしたっていうからな。俺と同じ気持ちなんじゃねーの』
自分が日中に呟いた言葉が、心の中をぐるぐると舞っていた。彼も同じ境遇だと、信じていた。そうだと、信じ切っていた。だからこそ、許せるはずはなかった。何よりも、彼の育ての親のせいで、自分の親は死んだのだ。
目の前に現れた石碑は、夜の闇に紛れて、一段と色濃く見えた。それが目に入るにつれ、彼の足は段々と遅くなり、ついには手が届く距離をもって止まった。昼間に彼が供えた花束は、雨粒に激しく叩かれて、既にいくつかの花弁を落としていた。
膝から崩れ落ちるように座り込み、隼は目の前で黙り続ける石碑を眺めた。恐らく歪んでいるであろう自分の顔は、どんな表情をしているのか分からなかった。だが、そんなのは彼の知ったことではなかった。顔を濡らすのが雨なのか涙なのかも、もうどうでもよかった。
雨のせいかそもそもの温度のせいか、ひんやりと冷たい石碑を抱えて、彼は激しく泣きじゃくった。容赦なく降りしきる雨音をかき消すような、ひたすらに大きな声だった。行き場もなく溢れ続ける彼の泣き声が、いつまでもキャンパス内に響き渡っていた。
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