下層の日常と不自由

 作業を終えたナツキが居住区に戻る頃、都市の照明はすでに黄昏色から夜のモードへ移行していた。空は依然として鉛色のまま。だが、ドーム内部の光量がじわじわと落ちていくにつれ、独特の閉鎖感がより一層際立ってくる。


 そもそもこのドーム内部には、昼夜の概念が疑似的にプログラムされている。外の大気汚染や気候変動に合わせる必要などないのに、敢えて昼夜を演出しているのは、人間の体内リズムを保つため――とされていた。しかし、それがどれほど人々の実感に寄り添っているかは怪しい。どれほど工夫を凝らしても、本物の空がもたらす開放感とは比べようがないし、都市全体を覆うガラス天井の下では、どこか息苦しさが拭えない。


 夜のモードへ切り替わると同時に、下層の通路には“消灯時間”が近いことを示すアナウンスが響き渡る。録音された機械的な女性の声が淡々と告げる。


「本日は二十一時をもって下層エリアの外出規制が開始されます。市民の皆さまは速やかにご帰宅ください。繰り返します――」


 この定型アナウンスを耳にするたび、ナツキは胸の奥で小さな諦めの感情が蠢くのを感じていた。ドームの中にいる限り、外の危険に怯えなくてもいい――それは確かに救いかもしれない。だが一方で、決まった時間を過ぎればどこへ行くにも監視ドローンの追跡を受ける。密かに夜風を感じながら散歩したいなどというささやかな願いさえ、この都市では許されないのだ。


 その証拠に、通路の上空を見上げれば、黒い小型ドローンがくるりと旋回するように巡回している。LED の小さな点滅が、無機質な“監視の眼”であることを示していた。


 労働者用集合居住区――ここは都市の下層労働者たちが最低限の生活を送るためのスペースだ。高いコンクリート壁に囲まれ、薄汚れた蛍光灯がところどころ点いているだけの灰色の廊下。まるで倉庫のような無機質さが漂い、そこに区画ごとのドアが没個性的に並んでいる。

 娯楽と呼べるものはほぼ皆無で、住人が集まるコミュニティ施設は最低限の規模しかない。しかもそこですら、いつも無言の空気が支配していた。騒げばすぐに通報され、下手をすれば取り調べを受ける羽目になるからだ。誰もが自分の部屋に直行し、規則正しい時間に就寝し、翌日の労働に備える――それがこの居住区における常識だった。


 ナツキは周囲に視線を巡らせる。廊下の端に取り付けられた監視カメラ、角を曲がった先の天井にぶら下がる集音マイク、そして規則正しく配置された非常口のサイン――どこへ目を向けても「管理されている」感覚が否応なく迫ってくる。

 彼は心の中でため息をつきながら、自動配給ステーションへ立ち寄った。ここで専用チップをかざすと、ビニールパック入りの栄養食が機械的に排出される。都市全体が効率を重視した結果、食事も個別の嗜好よりカロリーと栄養素優先で作られたものが支給される仕組みになっていた。


「……またパスタ風味の代替食か」


 チップを回収したナツキは、配給ステーションから受け取ったボックスを手に取り、小声でつぶやく。しかし味について文句を言ったところでどうにもならない。外を出歩いて好きな店に食べに行くなんて選択肢は、下層市民には許されないのだから。上層のエリートがいる区画には高級レストランめいた施設もあるらしいが、ナツキの居住区域からは完全に隔離されているし、そちらへ立ち入る権利もない。


 半ば諦め混じりでボックスを抱え、ナツキは自室へ向かう。自分の部屋は狭く、六畳ほどの空間に小さなベッドと収納が備わっているだけ。ドアを閉めると同時に、鈍いモーター音を立てて天井の照明が少し暗くなり、部屋のホログラムスクリーンが規制時間の開始を知らせるニュースに切り替わった。


 スクリーンには、上層部のエリートや政治的代表者たちが「今日も ODYS への感謝を忘れないように」と笑顔で語りかける番組が映し出されている。実際、ODYS の統治がなければこの都市はすぐにでも秩序を失う――というのが市民に刷り込まれた共通認識だ。かつての混乱を再び招かないためにも、完全なる管理が必要だと繰り返し説かれる。


 「ODYS の完璧な計画性が、私たちの明るい未来を保証します」

 ――そんな宣伝文句がテロップに大きく表示されるたび、ナツキは苦い思いを抱く。

 今や食糧危機や不審者への不安こそほぼ解消されたが、その代わりに社会全体が無言の“萎縮”を強いられている事実を、彼は肌で感じていた。誰もが同じ暮らしを強制され、個性や感情は希薄化し、悩む自由すらできるだけ排除される。そんな現実のどこに“明るい未来”があるのか――そう思うのだが、口にすれば命取りになる恐れがあるから、いつも黙っている。


 ベッドの縁に腰掛け、ボックスから取り出した栄養パックを切り開く。コンビニ弁当のような体裁をしているが、その中身は成分を最適化された「総合食品」で、パスタ風ソースの粘度が高いどろりとした液体が詰まっている。匂いや味は悪くないが、何を食べても似たような風味なのが虚しい。

 スプーンですくい、口へ運ぶ。もぐもぐと咀嚼するうちに、視線は自然と壁のスクリーンへ移った。


 ちょうど、そのスクリーンではODYS 上層部による“先進技術の成果報告”が放送されていた。エリート研究者がプラントの収穫量や水の循環システムの効率化を誇らしげに語り、司会者が「素晴らしいですわね!」と合いの手を入れる。画面の中の人々は、希望に満ち溢れた顔をしているように見える。だがどこか、役者が芝居をしているかのようにナツキには感じられた。


「なんだか……全部、作り物みたいだ」


 ナツキは苦笑し、スプーンを置く。実際、下層の居住区にはプラントの恩恵で飢える者こそいないが、それは最低限の栄養が行き渡る“飢え対策”が施されているだけの話だ。味や楽しみを追求する余地はほとんど考慮されていない。住民たちは単に生かされている――そんな風に思えてくる。


 ぼんやりとスクリーンを眺めていると、突然派手なジングルが鳴り、宣伝映像が切り替わる。そこに現れたのは、何の前触れもなく流される“啓蒙スポット”だった。


「ODYS がもたらす平和と安定――

あなたの笑顔が、街の未来を照らします。

今このときも、ODYS は最適な暮らしを提案しています」


 明るい音楽とともに、市民と思しき人々が笑顔で手を振っているシーンが繰り返される。どう見ても演出臭が強く、ナツキは思わず目をそらす。いつからこの街は、こんなにも作り物めいた空気に包まれたのだろう――。


 そして、ふと自分を省みる。かつては妹と一緒に下らないことで笑い合ったり、母と少しだけ自由を夢見て話したりする夜があった。だが今は、そんな当たり前の会話すら希薄になってしまった。周囲には監視の目があり、ふとした言葉が“異常”として捉えられるかもしれないと思うと、しゃべること自体がおっくうになるのだ。


「……いつから、こんなに息苦しくなったんだろう」


 ナツキはつぶやこうとして、思わず口を閉ざす。部屋の中にも監視用のマイクが仕込まれているかもしれない――そう思うと、声に出すことすら怖い。自室とはいえ、完全なプライバシーが担保されているわけではないのだ。


 食事を終え、ボックスを片づけると、ナツキはベッドに横になった。天井を見つめても、くすんだ壁と薄暗い照明が目に入るだけ。この狭い部屋では視線を落とす場所がほとんどない。眠気があるわけでもないが、かといって起き上がって何かをする気力も湧かない。

 同僚との世間話にしても、結局は「今日の作業はどうだった?」「あのフィルタがまた詰まりかけていて……」程度のことしか交わさない。そこに感情や想像力を交える余地はなく、まして個人的な心の内を語るなど考えられない。それがこの街を生き抜く術なのだ。


 だが今夜は、いつも以上に胸がざわついていた。何が原因かは明白だ――昼間の作業場で見てしまった“SIGMA”の文字列が、心を休ませてくれないのだ。ODYS の姉妹AI だったとされる SIGMA は、既に封印されているはずの存在。なのに、その痕跡が今でもログに残り、しかも明らかに現行システムへ干渉している形跡がある。


(もし、あれが本当に稼働しているのだとしたら?

ODYS の管理体制にどう影響を与えているんだ……?)


 いくら考えても確証は得られないが、何か胸騒ぎがする。ナツキは深い呼吸を意識しながら、目を閉じた。外の廊下を警戒ドローンが巡回する低いモーター音が聞こえ、壁のスクリーンからはまた別のニュース番組の声が途切れ途切れに流れてくる。

 ODYS に文句を言わず、疑問を抱かず、与えられた仕事と食事に感謝していれば、最低限の暮らしは保障される――それがこの都市の不文律だ。ナツキはそのルールに、ずっと従順に従ってきた。下手に疑問を持てば、自分も家族のように連行されるかもしれない。そう考えると、どんな小さな好奇心も押し殺してきたのだ。


 しかし今日ばかりは、“SIGMA”という未確認の存在を前に、かすかな違和感や興味が拭えなかった。ODYS の完璧な計画がほんの少し崩れたような気がして――その歪みを見過ごすのは、自分自身に嘘をつくことのように思えた。


 ――コンクリートの壁越しに、誰かの足音が通り過ぎる。おそらく巡回スタッフか、あるいは通報案件が出て出動したエージェントだろう。下層の夜はいつだって、こうした無機質な動きだけが舞台の幕を上げる。

 やがて、ブザーの短い電子音が鳴り、「下層エリアにおける外出規制が厳格化されます」といった自動放送が告げられる。これで完全に外へ出ていく道は絶たれた。もちろん、ナツキ自身も出るつもりはないが、こうして物理的にも精神的にも閉ざされる感覚は、いつまで経っても慣れない。


 横になったまま、ベッド脇のスイッチを押して部屋の照明を一段落落とすと、なおさら窮屈な思いが増してくる。薄暗闇の中、ナツキは天井を見つめつつ、まぶたの裏側に映る妹の笑顔を思い出した。あの頃は、こんなに窮屈な世界になるとは思っていなかった。

 ドームの空の向こうには、もしかしたら本当の青空や雲が今でも広がっているかもしれない――そんな幼い期待を、妹と語り合った夜もあった。しかし今、その夢を口にすることすら、あまりに危険だ。いや、夢を見ること自体が罪だとされるかもしれない。だから皆、夢を見ることをやめた。見ないふりをして、ただただ従順に生きている。


「……それでも、息が苦しいんだよ」


 口をついて出た呟きは、誰にも聞こえないようにかすれた声だった。天井に取り付けられた薄い監視カメラのレンズが、どこまで音を拾っているのか――ナツキにはわからない。

 けれど、心の底に燻る違和感はどうしても抑えられない。彼はシーツを握りしめ、目を閉じる。夜のモードが深まり、ドーム全体が静寂に包まれてゆく。明日がやってきても、たぶんまた同じ一日が始まるのだろう。いつものように点検作業をこなし、ODYS に指示された通りに動くだけの日常――。


 だが、あの“SIGMA”の痕跡を思い出すたびに、ナツキの中で何かがうずく。これは本当に自分が望む生き方なのか。この世界は、ODYS が言うほど“安定”で満ち足りているのか――。

 自問自答を繰り返しているうちに、ナツキの瞳はかすかに眠気を帯び始める。疲れが限界まで溜まっていたのだろう。思考の糸がほどけ、意識が闇に沈んでいく直前、ふいに部屋のスクリーンが切り替わり、宣伝映像の途切れに合わせてぼそりとした音声が聞こえたような気がした。


「……ご安心ください。ODYS は常に、あなたの安全と幸福を見守っています……」


 嘘だ、と胸の奥で誰かが囁く。けれど答えは返ってこない。巡回ドローンの低いモーター音が通り過ぎていくのを最後に、ナツキの意識は暗い眠りへと落ちていった。

 こうしてまた一晩が終わる。下層労働者の住む居住区は今宵も静寂に支配され、明かりの消えた廊下とコンクリートの壁だけがそこにある。大半の市民は“何も考えないこと”を選び、次の朝を待つ。

 しかし、ナツキの胸には小さな棘のようなものが残っていた。それはやがて眠りの底で凝縮し、やがて次の行動へと彼を駆り立てるだろう。下層の夜は不自由と絶望に満ちている――けれど、その暗闇の奥には、まだ見ぬ光が隠れていると信じたい。そんな淡い希望が、彼の閉じかかった瞼の裏で微かに揺れていた。

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2024年12月29日 18:00
2024年12月30日 18:00

シグマの呼び声――ノア・サンクチュアリの夜明け 横浜県 @makenyoko

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