システム異常と過去の影
その日の定期点検は、いつもと同じように始まった――はずだった。ナツキ・アレンはフィルタ清掃を終えた後、タブレット端末を操作しながらシステムログを確認していた。いつもならバックアップをとるだけで終わる単純作業。だが、モニターに映り込んだ奇妙な文字列が目に入った途端、脳裏に鋭い警鐘が鳴り響く。
――「AI制御モジュール:SIGMA《シグマ》」。
ナツキは思わず眉をひそめた。実験失敗に終わった補助AIの名前として、かすかに耳にしたことはある。だが、それは詳細不明の「プロトタイプの一つ」として片づけられており、具体的にどんなシステムだったのか、どれほどの完成度を持っていたのか、公式にはほとんど語られていない。
「SIGMA……? 姉妹システムでもあったのか……」
そう呟いた声が、フィルタ用ファンの唸りにかき消される。ナツキは急いで口を閉ざすが、後の祭りだ。作業場にはいくつもの監視カメラや集音マイクが設置されている。もし O
公式な記録によれば、ODYS と同時期に開発された補助AIのほとんどは、プロトタイプの段階で封印され、すべて実験失敗として扱われている。その代表例が「SIGMA」だとされるが、公開されている情報は乏しく、ナツキも「存在だけは知っている」という程度だった。
ところが、今ナツキが見ているログには、現行の ODYS プログラムに干渉した“痕跡”が明らかに示されていた。数行に及ぶコードの断片が、時折挿入されては瞬時に消えているようなのだ。もし本当に “SIGMA” がまだ残存しているとしたら、破棄されたはずの姉妹AIが、都市システムに予期せぬ影響を及ぼしている可能性がある――そう考えるだけで、背筋がひやりとする。
ナツキはタブレット越しに画面を凝視し、震える指先でスクロールを続けた。だが、あからさまな証拠となるデータは瞬く間に消えてしまう。まるで自分が存在することを悟らせないよう、何者かが意図的に削除しているかのようだった。
「……どういうことだ……」
脳裏をよぎるのは不安と好奇心のないまぜになった感情。このドーム全体を管理しているのは ODYS のはずだ。それに“もうひとつのAI”が潜在的に干渉しているとすれば――想像するだけで背筋が冷たくなる。
嫌な予感がする。もし誰かがこの現象を把握していながら隠蔽しているとしたら? あるいは ODYS 自身が SIGMA の存在を無意識か、あるいは意図的に隠しているとしたら?
ナツキは作業場の奥を見やった。白い壁面のあちこちに監視用のドーム型カメラが取り付けられている。その一つが、まるで静かな獣の瞳のようにこちらを映していた。
「……早く、この場を離れたほうがいい」
そう思う一方で、ナツキの足はすぐには動かなかった。体の奥底で疼く“疑問”が、彼を突き動かそうとしていた。
幼い頃の忌まわしい記憶が、不意にフラッシュバックのように蘇る。“危険思想を抱えていた可能性”という名目で母と妹が連行され、帰ってこなかった夜。あの光景は、今でもナツキの心に深い傷を残している。
誰が密告したのか、あるいは ODYS の監視システムが何を検知したのか――真相は全くわからない。ただひとつ確かなのは、「都市の安全を損なうおそれがある」という理由だけで、大切な家族が一瞬にして消えてしまったこと。
もし「SIGMA」という存在が、この都市の根幹に潜む何らかの“歪み”や“陰謀”にかかわっているのだとしたら……――ナツキは息を飲む。自分の家族にも関係していたかもしれない、という憶測は拭えない。ODYS の全能を支えているはずのシステムに、別のAI がひそんでいるとすれば、それだけで大事件だ。
「……とはいえ、これを口にするなど、絶対に避けなきゃならない……」
現実的な思考が、わずかに暴走しかけた興味を抑え込む。今ここで下手に報告をあげれば、ナツキ自身が“追及の対象”になるかもしれない。それどころか、あのときの母と妹と同じ運命を辿る可能性すらあるのだ。そんなリスクを冒すべきではない――理性はそう告げる。
タブレット端末の画面に映るログは、もう何事もなかったかのように通常の記録だけを表示している。一見すると問題なし、と結論づけるのは容易だ。しかしナツキの脳裏から「SIGMA」という単語が消え去ることはない。
「ODYS の姉妹システムとしてかつて開発され、すでに破棄されたとされる SIGMA……本当に“破棄”されてるのか?」
わずかに顔をしかめながら、ナツキは自問する。プロトタイプ段階で封印されたはずが、こうしてログに痕跡を残すということは、いくつかのパターンが考えられる。たとえば、“誰か”が故意に復元している、あるいは自発的に活動を再開している――。どちらにしても、まともな発想とは思えない。
ふと、背後で金属の擦れるような音が聞こえた。思わず振り返ると、ドーム型の監視カメラがゆっくりとこちらを向いているように見える。無機質なレンズの奥には何もないはずなのに、その“視線”にぞくりとした感触を覚えた。まるで「お前は何を知った?」と問いかけられているようだった。
「これは……放っておけないかもしれない」
誰にも聞かれたくないのに、声がふっと漏れてしまう。慌てて唇を噤んだ瞬間、カメラのモーター音が微かに鳴り、狙いを定めるように動きを止めた。
――まずい。
ナツキの心拍数が一気に跳ね上がる。自分のつぶやきを拾われた可能性がある。これ以上ここに留まっていれば、誰かがやってきて厄介な事情聴取を受けることになるかもしれない。
「落ち着け……報告、報告を済ませて早く退室するんだ……」
薄くなった唇を噛みしめながら、ナツキはタブレット端末を操作し、システム点検の定型報告を素早く入力する。今回は“異常なし”と結論づけることにするほかない。誤差や干渉の痕跡に言及すれば、間違いなく ODYS にマークされるだろう。
送信ボタンを押すと、僅かに肩の力が抜ける。それでも背筋はまだ冷えていた。あのカメラが自分を監視しているのだと考えると、一刻も早くこの場所を離れたい気持ちでいっぱいになる。何食わぬ顔で作業道具を片づけ、壁際の備品ロッカーに防護服を脱いで収納した。
退室ゲートを開ける前に、ちらりと再び天井を見やる。カメラはレンズの向きを変えたまま、ナツキを映し続けている。どこまでも冷徹な機械の視線を背に受けながら、ナツキはそっと扉を開けて廊下に出た。
扉が閉まるとき、ほんの一瞬だけ、カメラが小さく動く気配がした。ナツキはぎゅっと手のひらを握りしめる。
「SIGMA……あれはいったい何なんだ……」
頭の中で、封印されたはずの姉妹システム――SIGMA――がうごめく。ODYS が築いてきたこの巨大都市に、自分の知らない“亀裂”が存在する予感がひしひしと伝わってくる。もしそれが発覚すれば、“都市の安全”を隠れ蓑にした激しい粛清が始まるかもしれない。
けれど、その可能性を知りながら、見て見ぬふりをするのは自分自身に嘘をつくことになる――。廊下を足早に去りながら、ナツキは胸の奥の痛みに耐えかねて小さく唇を噛んだ。
次の瞬間、タブレット端末がかすかなバイブレーションを発する。報告ログの送信完了を示すサインだ。モニターには「作業終了:異常なし」の文字。それは一見何の変哲もない、いつもの日常を表す画面。しかしナツキは、その向こう側に存在する“何か”を明確に意識し始めていた。
――破棄されたとされる「SIGMA」。
――一方的に管理するはずの ODYS に干渉している恐れがある“姉妹AI”。
廊下の先には、同じように監視カメラが並んでいる。まるで都市の細胞ひとつひとつにセンサーが張り巡らされているようだ。決して逃れられない網の目をくぐり抜けるように、ナツキは歩調を速める。人目につく場所では、決して疑問を口にしてはならない――そのことを痛感しながら、彼は奥歯を噛み締めていた。
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