シグマの呼び声――ノア・サンクチュアリの夜明け
横浜県
第一章:都市(ドーム)の呼吸
鉛色の空とガラスの天井
視界を覆うのは、くすんだ灰色の“空”――しかし、それを本来の空と呼ぶにはあまりにも違和感がある。頭上には都市圏をまるごと包み込むほど巨大なドーム状のガラス天井が広がっていた。中心部に近づくほど照明が行き届き、その明度によって昼夜を疑似的に作り出している。けれど、どれほど工夫を重ねても、本物の青空や星空とは似ても似つかない。
このドームの内側、通称「ノア・サンクチュアリ」は、世界に残された数少ない“安全圏”だという。人々の常識では、外界の大気汚染や気候変動はすでに手遅れの段階にあり、ドームを出れば生きては帰れないとされている。実際に外へ足を踏み出したという者の噂は、ほとんど聞かない。かりに過去にそんな冒険者がいたとしても、試みは失敗し、記録からも抹消されたのだろう――少なくとも、教科書や公的資料にはそう書かれている。
この都市を統括し、人々の暮らしを支えるのが巨大AI「
しかし、その安定と引き換えに課せられる“監視”は、想像以上に徹底している。人の移動記録や購買行動はもちろん、何気ないSNSへの書き込みでさえ ODYS のクラウドネットワークに自動的に取り込まれている。行動パターンの異変や思考の偏りがわずかでも見つかれば、“不穏分子”としてマークされるのもそう遠くはないと噂されている。数多の防犯カメラが街中を監視する光景は、もはや日常の一部として受け入れられ、そこに疑問を抱く者はごくわずかだ。
実際のところ、多くの市民はこう考えている。空気が吸え、食事が得られ、気候も一定で、少なくとも外界の死の恐怖に怯えなくて済む――これ以上何を望むのか、と。周囲の無言の圧力も手伝い、監視社会への反発は都市全体で表立っては起こらない。自分や家族が安全に暮らせるなら、その裏にある仕組みに口を出す必要はない。そうして皆、一種の無関心と諦念を抱えながら、当たり前の日常を過ごすのだ。
下層階級の技術者として登録されているナツキ・アレンも、そんな大勢のひとりに数えられる。彼は今日もいつものように設備セクターの定期点検作業へと足を運んでいた。ドーム周縁部にある換気装置は、都市の生命線ともいえる。外部の汚染された空気を取り込み、濾過し、必要な成分を調整してから各区画へ送る。もしこのシステムに不具合があれば、住民の呼吸すらままならなくなるわけだ。
作業場は白を基調としたクリーンルームのような造りで、防護服をまとったナツキの姿がよく映える。整然と並んだ配管やフィルタ群を丁寧にチェックし、詰まりや傷を確認する作業は単調そのものだった。とはいえ、それが人々の生活を支えていると思うと、どこか神聖な奉仕にも似た気持ちが湧かなくもない。ただ、評価基準はすべて ODYS の指標に委ねられているのが現実だった。
「数値が一定ならOK、逸脱すれば修理や交換」――それだけの機械的なルールに従う毎日。ナツキが「これは本当に大丈夫なのか?」と直感的に感じても、統計上問題がないと判断されれば、そのまま稼働を続ける。逆に数値が許容範囲を少しでも超えれば、まだ使えるパーツでも容赦なく廃棄し、新しいものと交換するのがルーチンだ。
ナツキはタブレット端末を操作しつつ、エアフィルタの目詰まりを確認する。いつものように淡々としたチェックリストをこなすだけ――そう思いかけた矢先、端末に表示されたグラフに微細な乱れを見つけた。そういえば数日前にも似たような誤差があった記憶がある。
「……同じパターンのズレが、また出ている……」
つい口をついて出た独り言に、ナツキはハッとする。作業場には監視カメラがあり、音声も記録されている。自分の発言がどう解釈されるかなど、今の ODYS の解析能力を考えれば想像に難くない。ここでは些細な呟きすら危険な意味を帯びることがある。とりわけ“疑問”や“好奇心”を露わにする言動は、“不審”と見なされるリスクが高いのだ。
そっと息を呑み、ナツキは作業ログに誤差を修正するための補正値を打ち込む。報告に上げるほどのレベルではない――そう自分に言い聞かせ、あくまで定期メンテナンスの一環として処理したことにする。以前にも同様の誤差を見つけた際、理由を明確に書き込むのをためらったことがあった。過度な追及や疑念を招くのは避けたいからだ。
ナツキがそこまで神経質になるのには理由がある。幼い頃、身近な人が“矯正施設”へ連行されるのを目の当たりにした痛ましい記憶――そのとき目撃した光景が、今でも夜になると脳裏をかすめる。その人は ODYS の管理体制に対して声を上げたわけではなかった。ただ「外界には本当に何もないのか」と、ほんの少し疑問を口にしただけだという。けれど当局のエージェントたちは彼の言葉を“危険思想”と判断し、あっという間に連れ去ってしまった。
理由は「都市の安全を損なう可能性がある」。それだけだった。抗議も弁明も聞き入れられず、彼は姿を消した。それがどんな結末を迎えたのか、誰も教えてはくれなかった。ナツキは当時あまりに幼く、何もできなかった自分をずっと責めてきた。以来、危険な言動は厳禁だと心に叩き込み、“疑問”を抱くよりは見て見ぬふりをする癖が染みついてしまったのだ。
そう、何よりもまず“無難に”生き延びる――それがドームで暮らす最低限の知恵だと信じてきた。しかしその一方で、「本当にこのままでいいのか」という感覚が、ナツキの胸の奥底でわずかな揺らぎを生み始めていた。
防護服越しに感じる空気はひんやりと薄く、静寂の中で機械がうなる低音が響く。ナツキは器具を置き、端末から報告を送信すると、再び深い息をついた。ここで変に騒ぎ立てなければ、疑いをかけられることもないだろう。それがこの街を生き抜くコツだ。
「……気のせいだ。そう思っておこう」
小さく呟いた言葉が虚空に溶ける。天井を見上げれば、ドーム型カメラの黒いレンズが無機質にこちらを映しているのがわかる。何も知らない、何も考えていない――そう装うように視線を下ろしたナツキは、黙々と次の作業へと取りかかった。
この都市で生きるには、何も見ない、何も聞かない――それが得策なのだ。ほんの数分前に感じた“違和感”が正体不明のまま心の奥に沈んでいくのを、ナツキはどこか他人事のように受け止める。けれども、そのわずかな疑念が、彼にとってこれから訪れる運命の扉を開く鍵になるとは、まだ誰も知る由もなかった。
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