涙の温度

亥之子餅。

涙の温度

 ほほを刺す風が冷たい。夜中、誰もいない公園のベンチに一人座ってぼうっと考え事をしていた。


 今日は雲が少なくて、星がたくさん見える。寒さで目を細めると、星々は睫毛まつげの隙間からまたたいて、いつもより明るく輝いて見えた。

 こんな日に、あなたが隣にいてくれたなら。ふと頭をよぎった台詞せりふに、胸の奥がぎゅっと痛くなった。

 私に、価値なんてない。冷えていく指先をてのひらに押し付け、震える唇を嚙み締めた。


 先日、仲の良かった友人と喧嘩をして、縁が切れてしまった。

 本当に些細なことだったのだ。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に多くのことを乗り越えた仲間だったのだ。

 もう二度と口を利かない――そんな啖呵たんかまで切られたというのに、星の綺麗な夜はこうやって空を見上げて、あなたのことを思い出してしまう。


「どうして……こんなにも、生きるのって難しいのかな」


 呆然として呟いた。

 いつもそうだ。何を言っても、誰かを傷つける。何も言わなくても、誰かに辛い思いをさせてしまう。自分の心配りは、いつだってあだになる。

「人生の主人公は自分だ」なんて、世渡り上手の戯言ざれごとだ。傷つけるのが嫌で、傷つくのが怖くて、どんどん臆病になっていく。何のために生きているのか、本当に生きているのかさえ、分からなくなっていく。そんな自分はまるで、この世界の背景だ。


 またおもむろに、星空を仰いだ。

 輝きのひとつひとつが、自分は自分なのだと、声高らかにうたっている。もっと自分のために生きなよと、地上の自分に語りかけている。


 ああ、こんな私って――――。


 光の粒が、じんわりとぼやけていく。広い紺色の空が、瞳にたたえた涙で滲んで、水面みなもみたいにゆらゆらと揺れ動く。

 その夜空を切り取るように、ゆっくりとひとつまばたきをした。


 心の奥からせり上がった想いは、まぶたの端からあふれ出して、冷え切った頬を伝って流れ落ちる。


 そして、思いがけずはっとした。



 ――――ああ、あたたかい。

 自分の内側からこぼれたとは、思えないくらいに。



 分かっていたんだ。自分の臆病さも、自分のための人生なんだってことも、自分が一番よく知っていたんだ。

 それでも、できなかった、変われなかった。だから生きていく自信が持てなかった。

 私は、生きている証が欲しかったんだ。ここにいる実感が欲しかったんだ。


 冷え切った頬を、優しいしずくが温める。

 疑いようもなく、それは生きている温もりだった。


 その一粒を境に、ぽろぽろと止めどなく溢れ出した涙が、何度も顔を濡らして落ちていく。喉にこみ上げる想いは次第に嗚咽おえつになって、白い吐息は冷たい冬の空をかしていく。透明な雫をぬぐうことも忘れて、ただ感情のままにむせび泣いた。


 久しく泣いていなかったから分からなかった。分からないふりをしていた。

 心配してまたたく星々に応えるように、語りかける。



「――――私……ずっとずっと、苦しかったんだね」



 誰かに認めてほしかったんだね。優しさが報われてほしかったんだね。

 ずっと押し殺していた想いの波は、迷いと後悔で曇っていた心を、穏やかに洗い流していった。


 ***

 

 どのくらい経っただろうか。頬を刺す風は一段と冷たく、失ったものの大きさを突き付けるように、涙を乾かして去っていく。しんと静まる公園には、時折鼻をすする音がぽつりと鳴るだけだ。


 ベンチから立ち上がり、赤くれた目元を袖口でこすった。

 それからひとつ、胸いっぱいに深呼吸をする。



 より良い生き方なんて、私には分からない。

 これからもきっと、たくさん誰かを傷つけて、その度に自分も傷つくのだろう。こんな風に泣く夜だって、何度も訪れるのだろう。

 自分のための人生だと思える日は、まだまだ先かもしれない。


 それでも、ようやく認められた。

 自分はここにいるのだと。ここで確かに、生きているのだと。


 今はこの体温を、少しだけ抱いていたい。

 頬に残る温もりの跡を、もう少しだけ信じていたい。



「――――生きるのって、難しいな」



 もう一度、空を見上げる。


 目に映った星たちは、さっきよりもまぶしくはなかった。



<了>

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涙の温度 亥之子餅。 @ockeys_monologues

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