第2話 大災害と魔法
鉄骨の手すりに手を添え、由伸は深く息を吸い込んだ。
五年ぶりの現実世界の空気は、どこか懐かしく、同時に異質な感覚を伴っていた。
展望台からは街全体が一望でき、夕暮れの柔らかな光が建物の輪郭を優しく縁取っている。
「……この世界の夕焼けは、こんなにも綺麗だったんだ」
思わず呟いた言葉が、風に溶けていく。
異世界での戦いに明け暮れた日々を思えば、この穏やかな光景は夢のようだった。
しかし、その感傷的な気分は、一瞬にして氷解した。
遠くの市街地から、黒煙が立ち上る。
最初は一か所だと思った炎は、見る間に広がりを見せ、やがて街の至る所で火の手が上がっていることに気付く。
炎に照らされた空は、不吉な朱色に染まっていた。
「なんだ、これ……」
由伸の耳に、断続的な悲鳴が届く。
風に乗って運ばれてくる叫び声は、純粋な恐怖に満ちていた。
展望台の望遠鏡を覗き込むと、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
路上では車が無秩序に放置され、店舗のシャッターは壊され、窓ガラスは粉々に砕け散っている。
そして、最も衝撃的だったのは、人々の様子だった。
まるで獣のように四つん這いになって這いずり回る者、異様な叫び声を上げながら他人に襲いかかる者、血に染まった服で歩き回る者。
「これは、戦争? テロ? それとも……」
考えを巡らせる間にも、状況は刻一刻と悪化していくようだった。
遠くのでサイレンの音が鳴り響くが、それはすぐに悲鳴に掻き消される。
街灯が点き始める時間帯なのに、停電でもしたのか、辺りは不自然な暗さに包まれ始めていた。
展望台の階段を駆け下りながら、由伸の脳裏には様々な可能性が浮かんでは消えた。
未曾有の大災害。
突如として発生した感染症。
はたまた、テロリストによる無差別攻撃。
しかし、どの説明を当てはめても、目の前の状況を完全に説明することはできない。
「とにかく、家に戻らないと」
両親の顔が脳裏に浮かぶ。
そして、香澄の笑顔。
五年前、突如として異世界に召喚された時、由伸は誰にも別れを告げることができなかった。
今、この混乱の中で、まず確認しなければならないのは家族の安否だった。
街路樹の影が不気味に伸び、辺りは急速に暗さを増していく。
頭上では、オレンジ色に染まった雲が渦を巻くように流れていた。
その様は、まるで終末を予告する前兆のようだった。
アスファルトを踏みしめる足音が、不自然なほど大きく響く。
街には人影が見当たらず、ただ建物の陰から聞こえてくる唸り声だけが、この場所がまだ「生きている」ことを示していた。
由伸は展望台から離れ、実家のある住宅街へと足を向けた。街灯の明かりも届かない路地を抜けると、なだらかな坂道が続いている。夕暮れの影が長く伸び、建物の輪郭が次第に暗さに溶けていく。
不吉な予感が首筋を這う。
異世界での戦いで培った直感が、危険の接近を告げていた。
坂道の中ほどで、由伸の足が止まる。
路地の向こうから、不規則な足音が聞こえてきた。
まるで千切れた糸操り人形のように、よろよろと歩く人影が姿を現す。月明かりに照らされたその姿は、由伸の血を凍らせるのに十分だった。
「アンデッド……まさか、ここでも」
灰色に変色した皮膚は所々が腐敗し、目は虚ろに光を失っている。
かつて人間だった面影を残す顔には、深い裂傷が刻まれ、その口からは粘着質な体液が滴り落ちる。
異世界で幾度となく戦った不死の存在が、この現実世界にも出現していたのだ。
由伸の脳裏で、アンデッドに関する知識が瞬時に整理される。
死体に宿った魔力によって蘇った存在。
人を襲い、噛みつけばその人間も感染してアンデッド化する。
視覚よりも聴覚と嗅覚に優れ、動く物体や音のする方向に本能的に反応する。
そして最大の弱点は頭部―破壊されれば二度と動かない。
「くそ、こんな所で……」
一瞬の躊躇が命取りとなった。
背後からも足音が近づいてくる。
振り返ると、別のアンデッドが迫っていた。
学生服を着たそれは、まだ新鮮な死体だったのか、皮膚の腐敗は進んでいない。
しかし、首筋から肩にかけて深い咬傷があり、そこから黒ずんだ血が滲み出ている。
「前後から挟み打ちか」
由伸は冷静に状況を分析する。
正面のアンデッドは動きが遅く、その横を抜けることは可能かもしれない。
しかし背後の個体は比較的若く、動きも機敏そうだ。
どちらに対処すべきか、咄嗟の判断を迫られる。
坂道の傾斜を利用して駆け下りようとした瞬間、背後のアンデッドが驚異的な速さで襲いかかってきた。
由伸は咄嗟に身を捩ったが、バランスを崩して路地の壁に叩きつけられる。
腐敗臭が鼻を突く。
学生服のアンデッドが、牙をむき出して首筋に噛みつこうとしていた。
かつての人間らしい仕草は完全に失われ、今や純粋な捕食者としての本能だけが残っている。
由伸は必死に抵抗するが、アンデッドの怪力は尋常ではなかった。
両腕を押さえつけられ、冷たい体液が頬に滴る。
正面からも、もう一体のアンデッドがよろよろと近づいてくる。
「ここで、終わるのか……」
異世界での数々の戦いを生き抜いてきた由伸だが、素手での近接戦闘には限界があった。
死を覚悟した瞬間、由伸の内側で何かが共鳴するような感覚があった。
あの時のように魔法が使えれば、こんな状況も―。
異世界で幾度となく使った言葉が、自然と唇をついて出る。
「ファイヤーボールさえ使えれば……」
その言葉を発した瞬間、由伸の右手から眩い光が放たれた。
炎の球が、まるで生き物のように唸りを上げながら、学生服のアンデッドを包み込む。
轟音と共に不死者が吹き飛び、その体は瞬く間に業火に包まれた。
「……え?」
由伸は自分の手のひらを見つめた。
異世界で何度も使った魔法が、この現実世界でも発動したのだ。
しかし、考えている暇はなかった。
もう一体のアンデッドが、炎上する同胞に動じることなく近づいてきていた。
もう一度、今度は自覚して、その言葉を放つ。
「ファイヤーボール!」
再び詠唱すると、二発目のファイヤーボールが放たれる。
不死者は無惨な姿で崩れ落ち、黒煙を上げながら動きを停止した。
暗がりの中、燃え続ける二体の死体が、不気味な明かりを投げかけている。
由伸の全身に温かな光が走る。
まるで微細な電流が全身を駆け巡るような、しかし不快感のない心地よい感覚。
その瞬間、視界の端に青白い光が揺らめいた。
その時、由伸の視界に半透明な表示が浮かび上がった。
『レベル2に上昇しました』
「これは、ステータス画面?まさか、ゲームのようなシステムまで……」
由伸は思わず目を擦った。
しかし、表示は消えることなく、むしろより鮮明になっていく。
視線を動かすと、自身のステータスが数値として示されていた。
名前:佐伯由伸
レベル:2
『ステータスが上昇しました』
『HP:100 → 120 (+20)』
『MP:80 → 100 (+20)』
『筋力:15 → 17 (+2)』
『敏捷:12 → 14 (+2)』
『知力:18 → 21 (+3)』
一つ一つの数値が上昇するたびに、対応する部位に温かな感覚が広がっていく。
HPの上昇は体の芯からの活力として、MPの増加は頭部での清涼感として、筋力の向上は筋肉の充実感として、由伸の身体に実感として伝わってきた。
『新規スキル「ファイヤーボルト」「ウィンドブラスト」が習得可能になりました』
使用可能魔法:
・ファイヤーボール(消費MP:20)
・ファイヤーボルト(消費MP:25)※新規習得
・ウィンドブラスト(消費MP:20)※新規習得
半透明な文字が、まるでホログラムのように空中に浮かび上がる。
それと同時に、体の内側から力が湧き上がってくるのを感じた。
異世界で何度も経験した、あの懐かしい感覚。
「今、確かにレベルアップの感覚はあった。レベルアップの仕組みまで、異世界と同じか……」
由伸は自分の手のひらを見つめた。かすかに残る温もりは、この世界でも着実に力を育てていけることを示していた。
どこまで強くなれるのか、レベルの上限はあるのか。
異世界で培った戦闘経験が、この世界でも通用することに安堵する。
しかし同時に、不安も募る。
なぜ現実世界でこのようなシステムが機能しているのか。
そして何より、この世界に蔓延するアンデッドの存在。
遠くで爆発音が響き、黒煙が夜空に向かって立ち上る。
サイレンの音が断続的に鳴り響くが、それは次第に遠ざかっていく。
街は刻一刻と混沌を深めていた。
「今は考えている場合じゃない」
由伸は再び足を進め始めた。両親の顔が脳裏に浮かぶ。
五年前、突然姿を消した息子が帰ってきても、彼らは喜んで迎えてくれるだろうか。
坂道を駆け下りながら、由伸は祈るように心の中で繰り返す。
「無事でいてくれ、みんな」
街からは炎と悲鳴が立ち上り続け、空には不吉な雲が渦を巻いていた。
しかし由伸の足は、確かな意志に導かれるように、実家のある住宅街へと向かっていく。
時折、路地の陰からアンデッドの唸り声が聞こえてくる。
だが今や、由伸には対抗手段がある。
異世界での戦いで培った経験と、この世界で目覚めた力。
それらを駆使して、必ずや家族の元へ辿り着いてみせる。
夜の帳が街を覆い始める中、由伸の決意は固く胸の内で燃え続けていた。
異世界から帰ってきたら、人類は滅んでました。 猫飼いたい @ohohohoh
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