夢の中で

綿来乙伽|小説と脚本

瞼は重いのに、動きは早い。

 午前七時。私は体をのけぞるように起こした。手汗を握って目を覚ますのは、もう何度目だろうか。


 今年の残暑がようやく終わりを迎え、知らない高校が甲子園で優勝した頃、私はある夢を見るようになっていた。同じ景色、同じ登場人物と同じ感情。そして、同じ場所でいつも目が覚める。それを毎日のように繰り返していた。


 早く現実に戻りたいと焦って夢から抜け出したいのは、滴り落ちるほどの手汗と、寝起きとは思えないくらいかっぴらく瞼だけだ。それ以外は特段何も変わりがなく、寝相が悪いとか、金縛りに遭ったとか、髪が乱れているとか、誰かに足を掴まれている気がするとか、そういったことは全くない。ただ右手と眼だけは、私をいつも夢から現実に引き戻そうとしているのだけは分かるのだ。


 私はベッドから起き上がり部屋を出てリビングへと向かった。一階のリビングダイニングに着くと、父親と母親が各々の行動をとっていた。父親は、私と自分の分の弁当におかずを詰めていた。父は料理が好きで、常日頃、脱サラして弁当屋を開きたいと母に懇願しているが計画性が無いと反対されている。店を持つことがどれだけ大変なのかを分かっていないと、店を持ったことのない母が怒る。この行事は一週間に二回ほどある。娘の私は、父が好きなことをやる分にはなんとも思わないが、家計を支えているのは父なので、私が大学を卒業し路頭に迷っても生きていけるくらいの資金を残して会社を辞めるなら考えてやっても良いと思っている。


 一方母は、今日の朝から情報番組に出演しているアイドルを凝視していた。母は去年デビューした男性アイドルが好きで、特に好きな「推し」なる人がいつも観ている情報番組のレギュラーになったことを聞きつけていた。母の推しは頭が良く、アイドルの傍らニュースキャスターやクイズ番組のチームリーダーを務めていた。そんな聡明な部分が垣間見える彼に惹かれたんだと母は言うが、そんなことより顔面偏差値が高過ぎるので、聡明さよりも美貌に惚れたんだと、私と父は思っている。母のおかげで朝流れるテレビ番組は固定されてしまったが、朝は夜の八分の一ほどの時間しかないので、テレビを眺めている暇はない。


 私はダイニングテーブルに置かれたパンを食べ始めた。


「今日もちゃんと起きたのか」

「うん」

「いつも寝坊してたのに、夏休み明けから気合入ってるのね」

「うん、まあ」


 私は両親に夢のことを話していない。夢に悩まされていると思っていた時、父に打ち明けようとしたのだが、言葉が詰まってしまい、自分が今父に何を話したいのかを思い出せなくなってしまった。誰かに口を塞がれているような、両親に話してしまったら何か良からぬことが起きてしまいそうな気持ちになって、口を噤んでしまう。それが何度も何度もあったのだ。だから私は両親に夢のことを話さなくなった。


 それに、夢を見始めて良かったこともある。目覚まし時計が無くても起きられるようになったことだ。


 細かく言えば、目覚まし時計があっても起きられていなかった。スマホの目覚まし機能を使っても、家中に響き渡る轟音目覚まし時計を使ってみても、両親が目を覚まして私の部屋で音を止めるだけだった。私はどんなに刺激が強い目覚ましでも一度眠りの姫になってしまえば戻って来れない。


 そんな私が午前七時になると目を覚まし、ゆっくりと階段を降りてリビングに迎えるようになったのは、絶対に夢のおかげなのだ。両親は、私の心持ちの変化があったのだとお勘違いしているが、私はいつだって寝ていたいし寝坊をする自分が変わった様子もない。ただ、夢が、私を起こすのだ。


「日記とか書いてみたら?」

「日記?」

「でも毎日同じ夢なら書いても意味なくね」

「そっか。じゃあ無し」


 友人というのは、簡単に何かを思い付いては提案し、矛盾点を見つけては取り下げる。私が興味を持った時には、その議題は却下に回っている。


「目が覚める夢なら私も見てみたーい」

「でもコトが起きる程の夢ってどんなの?めっちゃ怖いとか?」

「いや、怖くは無いんだけど」


 怖くはない。怖くはないのだ。ただ、怖いと思った方が良い夢なのかもしれない。


 私が毎日見る夢は、私が死ぬ夢だ。


 夢の中に入ると、大きな照明にいつも照らされていて瞼を上手く開けられなかった。女性のような、男性のような、複数いるような声がどこからか聞こえて、私を照らして楽しんでいるようだった。私は彼らが微笑んだ時には、右手に汗を握っているのだ。


 その後、体と体を覆う何かが大きく揺れ出す。元々無い視界も何やら不鮮明になり、何も入っていないはずの腹が何か吐きだしたくなる。だがそれよりも、自分を覆うこの大きな世界が壊れる方が心配で、これが壊れると自分と自分の大切な物が壊れる予感がするのだ。


 大きな地震のような感覚に襲われた後、若かりし頃の両親の顔が浮かび上がる。二人は私のことを見つめて今にも涙が溢れそうな表情を見せる。私が二人を悲しませるようなことをしたのだろうか。私が元凶となり、二人の涙を引き出してしまっているのだろうか。夢の中で、現実の私はそう思っているのに、なぜか心は安らかで、二人が今日も生きていて良かったと思う夢の中の自分がいる。


 その矛盾がいつも引っかかっていた。そもそも私に夢のような記憶は無いし、両親が悲しんでいる姿を見て、安心している自分もいない。これは私が見ている夢なのに、なぜか自分ではない目線で夢を見ている気がする。


 引っかかった感情の相違に耐えられないと頭を悩ませていると、私は現実に引き戻されて、目が覚めるのだ。


 私は夢の内容をノートに書き記した。日記とは言わなくても、一度文章に起こしてみると何か分かるのかもしれないからだ。


 高校に通って三年。初めてこんな文章量を記した。シャープペンシルを握る手汗は、夢から覚めた私と同じだ。


「コト入るぞ」


 父がノックをして扉を開けた。


「何?」

「夜食、あるぞ」

「夜食?」

「勉強が頑張ってるんだろ。ご飯食べて休憩したら良い」

「勉強、してないけど」

「え?」


 私は父にノートを渡した。私は勉強ではなく、夢を書いていただけだからだ。


 「なんだこれ」

 「私が毎日見てる夢。これを見ているから、毎日同じ時間に起きられるの」


 父は私が見た夢を隅から隅まで読んでいた。殴り書きで人様に見せているとは思えないような字の汚さだったが、父はそんなこと気にせず、目を見開いて読み進めていた。


 「これ、母さんにも見せて良いか」

 「え、なんで?」


 父はノートを持って階段を降りた。私は驚きながらも父を追い掛けた。


 私には姉がいた。私が生まれていない、ずっとずっと前の話だ。私は姉を見たことも、姉という存在が生きていた証も知らない。


 姉は本当は私より六つ上だった。姉を授かり、両親は初めての子供に喜んだ。子供服やベビーベッド、子供の為のグッズは買っても買っても足りないが、両親はそれがこれから生まれて来る娘への愛と似ているとさらに期待に心を膨らませていた。


 母がトラックに轢かれたのは、姉を妊娠して六か月が経った頃だった。


 母はその日もベビーグッズを買う為に一人で外出していた。これ以上お腹が大きくなると一人で買い物に来られなくなるからと、たくさんの紙袋を持ってデパートの入口まで歩いた。母がドアに手を掛けた時、小さな子供がドアを開けてくれたのだそう。その母親も小さく会釈をして、子供がいる幸せと、自分の子供が誰かに優しくしているのを見る幸せを噛み締めて、ドアを通った。その瞬間に、大型トラックがドアを突き抜けてデパートに突入したのだ。母はその拍子に転び、背中を打ち付けて動けなくなり、意識を失った。


 その日の夜父が病院に駆け付けた時、母は目を開けて、見えない窓をじっと見続けていた。母の段々と大きくなっていたお腹は、二人が出会った頃の、一人分のお腹に戻っていたのだという。


 たくさんのベビーグッズを並べて、両親は何度も泣いた。何度も泣いて、いなくなった姉を見続けた。悲しくてやり切れなくて、懺悔の気持ちでいっぱいだったのだと言う。


 「それは違うよ」


 ノートを読みながら泣いている両親に、私は訴えかけるように話した。


 「私の夢の中では、お父さん達が泣いているのを見て安心していた。どうして生んでくれなかったんだって怒ってるんじゃなくて、二人が生きていて良かったって喜んでいるんだと思う。それに、私がこの夢を見て目を覚ますのは、お父さん達に迷惑掛けないでって、お姉ちゃんが叩き起こしてるんだと思う」


 見たことのない姉は確かに私の姉で、私のことをいつも起こしてくれていた。それも、夢の中でだ。自分は大丈夫だから、お願いだからお前だけは両親と楽しく生きてくれという気持ちから、私を毎朝起こすことにしたのだ。夢の話を両親に話せなかったのはきっと、これを話してしまえばまた両親が悲しんでしまうと姉が思ったからだ。


 だが、両親は笑っていた。うちには見たこともない妹を夢で起こすような子が生まれていたんだなと笑っていた。


 お姉ちゃん。今両親は笑っているよ。これからも私を夢の中で起こし続けてね。

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