第4話 中川カーチェイス

「中川には、美しい姉妹の物語がある」


 七、八年前だっただろうか。朝日新聞に連載されていたのを、女も追って読んでいた。川端康成の『古都』である。中川の集落にはまさに、千重子の訪れた……そして苗子が山仕事に勤しんだその風景がある。まっすぐに伸びた幹のその先端に、丸く残された枝葉。それは巨大な一本の花のようである。清滝川沿いに集落が形成され、川の反対側には木造の倉庫群が見て取れる。


 その時だった。カッと白い光が我々を照らす。続いてブロロンブロロンというエンジン音。正確な数は数えられないが、バイクである。数台のオフロードバイクが清滝川の対岸に現れる。


「なにごと?」

「鞍馬天狗の待ち伏せだ。しっかりつかまっておれ」


 天狗の仮面を被った異形の者どもがバイクに乗って一台のマイクロバスを追いかけてくる。彼らは鞍馬の刺客。狙いは女である。


「逃げ切れるの?」

「奴らは山の民であり闇の住人だから、街までは降りてこられない」


 どういう理屈なのかわからないが、そういうことらしい。山道を猛スピードで下っていく。オオサンショウウオは巧みなハンドルさばきで車体を左右に揺らし、追いすがってきたバイクを物理的に蹴散らしていく。描写する余裕がないが、高山寺、神護寺を通り過ぎて――バリン。突如バスのリアガラスが打ち砕かれ、そこから風のように一人の天狗が入ってくる。ガラスを砕いた斧を拾い上げ、女の元へ近づく。


「た、助けて!」


 女は思わず叫ぶ。斧が振り上げられたその時、フロントガラスから陽光が射す。いつの間にか夜が明け、東の山から太陽が現れたのだ。日の光を浴びた天狗は呪いのような悲鳴を上げ、瞬時に灰となって消えた。


「やはり君にはまだ、生きる意志がある」


 一体のオオサンショウウオと一人の女が、再び深泥池で向き合う。バスは半分ほど沈みかけていて、運転手はそのバスの上に腰掛けている。


「殺されるのは、痛そうやもん」


 女の声はどこか言い訳めいていた。


「やれやれ。とりあえずは夜が明けて、ひとまずの危機は去った。吾輩は元の時代へ帰る」

「そっか」

「君の選択によっては二度と会うこともなくなってしまうだろうが、願わくば、未来で会おう」

「気ぃ向いたらね」


 オオサンショウウオは親指をグッと上げて、泥の中にゆっくりと消えていった。


   ※


 タクシー運転手の速やかな通報によって、京大病院から消えた一人の女の捜索が始まったが、行方はようとして知れなかった。彼女の病室には、失踪前に読んでいたと思われる数冊の本が遺されていた。『伊勢物語』に『源氏物語』、そして『古都』。女が夢想の果てに深泥池へ身を投げたのか、あるいはどこかで第二の人生を送っているのか、それは今のところ、誰にもわからない。

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北山環状線オオサンショウウオ奇譚 美崎あらた @misaki_arata

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