私のわたしのその先の

夏澤波留海

私のわたしのその先の

九月になった。私は九月が嫌いだ。一年の中で最も嫌い。なぜなら九月は夏のふりをするから。過ぎ去ってしまった夏に未練たらしくしがみついているからだ。

始業式が終わって、ぐったりしながら帰り道を歩いていた。

「こんにちは」突然話しかけられた。声のする方を見ると誰もいない。

「こんにちは」また声がした。声がする方を向くもやはり誰もいない。

気のせいかと思って歩き出すと、また声がするので気のせいではないようだった。

「誰ですか」

「わたしは私です」あまりの突拍子のなさに聞き間違いかと思った。

「何言ってるんですか」

「そんなことどうでもいいじゃないですか」どうでもよくない。そう言いたかったけれど、ママチャリに乗った主婦がこちらを通り過ぎざまにじーっと見たので、恥ずかしくて何も言えなかった。

家についてからも声は続いた。

「私のことすべてわかるのよ」私は言葉の終わりに「よ」なんてつけない、と思いながら聞いていた。

「私はわたしが好き。そうでしょう」好き。そんなもの、私はわからない。しかも、声の主が言うことが本当ならば、私はわたしのことが好きということになる。そんなナルシストみたいな考え、うらやましいくらいだ。私は何をやってもダメなのだ。

 体育の授業中、テントウムシの蛹が人通りの多いところにポツンと落ちているのを見つけた。壁からはがれた時点で生きるのは難しいとわかっていたが、壁側の日陰に移してやった。放課後、蛹を見に行くと、そこにはすりつぶされたような残骸があるだけだった。蛹の模様がそのまま地面に射影されたみたいに、オレンジと黒の縞々がコンクリートの上に残っていた。私が動かしたせいで死んでしまったのだ。つまりは私が殺したも当然。気づかなければよかったと思った。気づかなければこの蛹は少なくとも私に殺される必要もなく、成虫になれたかもしれないと思った。それに私が動かしたのは、蛹のためではなく、むしろ私自身のために動かしたのだった。何をやってもダメな自分が気に食わなくて、私に救える命があることを確かめたかった。結局、確かめられたのは、私がどうしようもなくダメであるということだけだった。

「好きなんてありえないし、そんなことわかんない」母がこっちを睨んだ。しまったと思って、急いで学校でもらったプリントを渡し、階段を上がって部屋に入った。

「私、テストも渡しちゃってるわよ」

「アッ」ランドセルを確認すると、隠しておくはずだった、算数のテストがそこにはないのだった。薄い教科書の隙間から覗くランドセルの底が嫌に暗かった。

 母が階段を上ってくる音がした。音が近づいてくるにつれて心臓が大きく揺れるのがわかった。階段の音は、何かの映画で聞いた音そっくりに着々と近づいてきた。音は大きくなって、やがて止まった。

 ドアが勢いよく開かれた。その勢いのせいで開かれたドアは再び半開きまで戻った。半開きのドアを押しのけて母が勢いよく入ってきた。丸めた新聞を持っていた。新聞は私の顔を叩くためのものだと知っていた。左耳がキーンとしてあたまがくらくらした。この前よりも強く、熱くなっている気がした。くらくらしている中に「殺す」という単語がはっきりと聞こえた。今まで幾度となく言われてきて、私は生きてきた。けれどこうなるたびにほんとに今度こそは殺されるのではないかと思う。今回も母は私を殺そうとすることなく、部屋の中を暴れまわった。暴れまわったというのはあまりにすごい勢いで私の部屋を物色するものだからそう見えるのだ。嵐のように部屋をめちゃくちゃにして、私がこれまで隠してきたくしゃくしゃのテストを発見し、点数を見た途端、右耳もキーンとした。それからは押し倒されてぼこスカ叩かれた。これはさほどつらいことではないのだが、今回は両耳とも叩かれてしまった。こうなると治るのにしばらくかかる。ただでさえ何をやってもダメな私にとっては体の機能すら失うということが重大なことだった。目まぐるしく動く母の唇をぼんやり眺めていた。

「私は母が嫌いでしょう」嫌い。そうかもしれない。耳はキーンとしているけれど、わたしの声ははっきり聞こえる。私は母が嫌い。その通りだ。殺してやりたいと思う。

 母はしばらく私を叩いて満足したのか、奇声を上げながら階段をどんどん降りて行った。心臓はもう鳴っていないような気がした。驚くほど急に部屋は静かになった。こんなに静かなのは初めてのことだった。私はカーペットの上に平たくなって、めちゃくちゃになった教科書や本棚を見た。

「静かだねえ」

「うるさい」

そう言ったけれど、なんだかその声は心地よくて、かまわず話し続けてほしかった。けれども、部屋はさっきよりもさらに静かになって、私は暗い海の底にいるみたいな気持ちになった。胸元にかいた汗が鬱陶しかった。


 しばらくしても私の耳は治らなかった。私以外のだれからの声も聞こえず、以前よりいっそうわたしの声は大きくなった。そのせいで臨時の三者面談が開かれた。私は座っているけれど、何も聞こえないのでずっと校庭を見ていた。小さな砂の竜巻に追われながらたくさんの人たちがはしゃいでいた。母は話していたというよりも担任の今永先生の話をただ一方的に聞いてうんうんとうなずいているだけに思えた。母の唇が「すみません」の形に動いたのを見てぞっとした。また謝らせてしまった。

「グレーだって」

「なに」二人がこっちを見たので、「あ、何でもないです」と言った。うつむいたけれど、二人はずっとこっちを見ているような気がした。

「私はグレーなんだって、先生が言ってるよ」グレーというのは何のことだろう。世界のどこかには肌が黒い人がいるのを知っているが、私の肌は実はグレーということだろうか。腕を見てみるけれど、それは色鉛筆の肌色だった。そういえば肌色というのはなんだか不思議な感じだ。私にとって本当の肌色はグレーなのかもしれないから。皮をめくったらわかるのだけれど、それはとても痛そうでできる気がしなかった。顔を上げると母の唇はまた「すみません」と動いた。

 二人で帰る間、母は何も言わなかった。何か言っていたとしても聞こえないのだけれど。家の玄関を閉めると、母はどかどか鳴らしながら廊下を進んでいった。戻ってきたとき母の右手にはラップの芯が握られていた。今度こそは死んでしまうと思った。

「私は死なないよ」

「死ぬよ」

「死なないよ」

「死ぬってば!」

「しなない」

その瞬間、テレビの電源みたいにふっと気が抜けた。

 目が覚めた。真っ暗な廊下に倒れて、私はしっかりと生きていた。リーリーと虫のなく声が寂しげに聞こえた。私の声はしなかった。

「おーい。おーい」呼びかけてみる。

…あぁ。しがみつこうとしているのは私も同じだった。

外に出ると、そこは紛れもなく秋だった。足元に振り落とされた九月が落ちているのに気づいて、透明なそれを大切に抱きかかえた。

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