泥濘
背に掛かるルイの呼び声を、振り切るように一目散に玄関へと向かう。
何で、何で。
繭は心中で繰り返した。
――何で、知っているの?
兄のこと。
数年ぶりに、兄から連絡が来た。〈久しぶりに会おうぜ〉メッセージアプリを通しての軽いお誘い。
繭は戸惑った。警戒していた。だけど、もうあれから数年経っている。それに、兄は既に結婚していた。兄妹として、家族として相手の近況を知る為、顔を合わせるのは至極当たり前のことのように思えた。
だから、会うことにした。大丈夫だろうと思った。
◆◇◆
食堂の反対側。エントランスホールを抜けて、先刻見たばかりの大きな二枚扉の前に辿り着く。考える間もなく、取りつくようにして玄関扉に手を掛けた。
扉は重く、繭はありったけの力を込めた。
◆◇◆
最初に、喫茶店でパフェを食べて、普通に雑談をして――油断していた。
次に連れて行かれた先。違和感はあった。けれど、世間知らずな繭は、漫画喫茶やインターネットカフェの類だと思ってしまった。……思いたかった。
だけど、鍵の掛かった扉を開いて、通された室内には、
◆◇◆
「……ッ!」
玄関扉の向こうには、暗闇が待ち受けていた。墨を塗りたくったような、一点の光も無い漆黒。夜だからといって、こんなに何も見えなくなることがあるだろうか。まるで、そこから先の空間には何も存在していないかのような……見ていると不安になり、足を踏み出すことを躊躇った。
――ここは違う。こっちは怖い。
本能が告げる言葉に従い、繭は引き返した。けれど、ルイの元へ戻る気には到底なれず、階段を上がって最初に自分が居た寝室へと向かった。あそこなら、何となく安心出来る気がした。
◆◇◆
兄は優しかった。算数が苦手な繭に、いつも勉強を教えてくれた。
だけど、いつからだったか。繭の身体に興味を持つようになった。
最初は、触れるだけだった。けれど、次第に行為はエスカレートして、前戯まで行うようになった。
繭は強く拒めなかった。繭に優しくしてくれるのは、兄だけだったから。兄の機嫌を損ねてしまうのが、怖かったから。
それでも、最後までは駄目だと、何とか貞操は守ろうとした。――だけど、ある日。
兄の眼鏡を、繭が踏んで壊してしまった。兄は怒って、言った。
「これは、やっぱり最後までしてもらわないとだな」
そうして繭は、兄に処女を捧げた。
それから、何度も、何度も。親の目を盗んで、背徳行為は続いた。――兄が大学から都会で一人暮らしを始めるまで、ずっと。
◆◇◆
寝室に転がり込み、勢いよく扉を閉ざした。久々の全力疾走に、繭は肩で息をする。廊下にはまだルイの姿は見掛けなかった。彼はまだ、こちらに来ていない。今の内に扉を塞がなくては。扉自体に鍵は掛からないようなので、繭は手近にある小さめのキャビネットを掴むと、扉の前まで移動させた。バリケードを作るつもりだった。
◆◇◆
誰にも話せなかった。
ゴムをしていても、百パーセント妊娠しない訳ではない。
生理が遅れていると、不安になった。怖かった。
無事に生理が来た時は、心から安堵して泣いた。
恋人は何度か出来た。いずれも、向こうから告白をしてきて結んだ関係だった。
繭には恋愛感情というものが欠けているらしく――あるいはそれは、恋愛に奔放過ぎる母を見てきた反動故かもしれないが――正直相手のことが好きかどうかは分からなかった。それでもいつかは好きになれるかもしれない。そんな淡い希望が捨てきれずに、交際を受けた。
けれど、いつも長続きはしなかった。大概、相手から冷めてしまうのだ。それというのも、繭が肉体関係を拒むからだ。
相手がそうした関係に進もうとする段階で、繭は相手から逃げてしまう。――怖かった。その行為をすること自体も。兄とのことを知られてしまうのではないかということも。
◆◇◆
バサバサッ
斜めになったキャビネットから、引き出しが飛び出した。中身が床にぶち撒けられる。
それは、どこにでもあるような数冊の大学ノートだった。開かれたページに目を落とし、繭は目を
「――これは」
◆◇◆
――キスをした。
ファーストキスだった。数年ぶりの再会で、連れ込まれたホテルの一室。一つだけ置かれたベッドの上で、兄と身体を重ねながら。
それだけは、いつか本気で好きになった人の為にと、処女を捧げた後もずっと残していた大切なものだったのに。
兄は言った。「どうせお前はこの先誰にも愛されやしないんだから、別にいいだろ」と。
その通りだと思ってしまった。同時に、もう何もかも全部どうでもいいような気分になった。
だから、した。
家に帰ったら、兄からのメッセージが端末の通知センターに届いていた。
〈今度はいつやる?〉
繭はメッセージを開くことなく、通知を削除した。
それから、家にある薬を全て集め、一気に飲んだ。
◆◇◆
――そうだ。思い出した。
拾い上げた大学ノートを纏めてキャビネットの上に置くと、繭はそれを扉の前から退かした。塞ごうとしていた扉を自らの手で開き、そこに立っていたルイに正面から向き合う。悟ったような表情の彼に、繭は告げた。
「あなたは、私の生んだキャラクターなのね」
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