波紋

 どれくらい、そうしていただろうか。いつしか本の世界に惹き込まれていた繭は、ルイの声で意識を引き戻された。


「繭、食事の用意が出来たよ。良かったらどうかな?」


 気配を全く感じさせない彼の登場に、繭は驚いて本から顔を上げた。


「えっ? でも私、夕食はもう……」


 ――あれ?

 内心、首を傾げる。言われてみれば、お腹が空いた。昨夜はご飯を食べなかったのだろうか。毎日似たようなルーティンを繰り返しているから、食べたり食べなかったり記憶が混濁する。

 思慮に沈む繭にお構いなく、ルイは笑顔で彼女の手を引いた。


「食堂はこっちだよ」


 そのまま、連れられて図書室を後にした。再び長い廊下を進み、今度は階段を降りるとエントランスのような場所に出た。開けた空間の奥に見える、一際大きな二枚扉。――あれはまさか、玄関?

 息を呑む。しかし、今はどうすることも出来ない。後で一人になる機会があったら、行ってみよう。繭はそう決めて、ルイに続いた。


 彼が案内したのは、玄関とは真逆の方向だった。正に洋館の食堂といえばくあるべし、といった長い机に長い背もたれの椅子。そのいずれにも人の姿は無く、中央にのみ食事が並べられている。

 食欲をそそる、良い匂い。


「君の好きなビーフシチューにしたよ。コーンスープも好きだったよね。あと、マカロニサラダ。バケットもいくらでもお代わりしていいから、沢山食べて」


 繭の為に椅子を引きながら、ルイが楽しそうに紹介する。確かに、それらは彼女の好物だったが、まだ毒が入っていない保証はない。期待の眼差しに押されて着席し、食器を手に取ったものの、繭はそこで動きを止めた。

 彼女の迷いを察してか、ルイの碧眼に寂しげな色が滲む。それを見て、繭は覚悟を決めた。彼を気遣った訳ではない。ただ、相手の機嫌を損ねることを恐れた。


 思い切ってスプーンでシチューを掬い、口元に運ぶ。二、三息を吹きかけて冷ましてから、食べた。途端、口内に広がる深い味わい。

 ――美味しい。

 こんなに美味しいものを食べたのは、いつぶりだろう。母と暮らしていた時から、繭の食事は専らコンビニ弁当だった。母はあまり家に帰らなかったし、繭に自炊する気力も無かった。そもそもあまり食欲すらも無かったのだ。

 最近は特に仕事で遅くなることも多く、へろへろになって帰宅したら食事を摂ることすら億劫で、何も食べない日も少なくはなかった。――そして、食べても味がしない。

 繭にとって食事とは、単に胃に食物を詰め込むだけの苦痛な作業だった。


 だけど、これは違う。どうしてだろう、懐かしくてホッとするような、温かい味――。


 気が付いたら、頬を涙が濡らしていた。ルイが顔色を変え、心配そうに繭を覗き込む。


「繭、どうしたの? 美味しくなかった?」

「ちが……違うの」


 左右にかぶりを振り、繭は目元を手で拭った。


「とても……美味しかったから。こんなに美味しいの、久しぶりで……」


 ただそれだけのことで、自分でも何故涙が出てくるのか、分からなかった。しかし、ルイは理解を示すように頷きを返し、柔らかく微笑んだ。


「繭はいつも頑張ってるもんね。偉いよ。仕事で辛いことがあっても、愚痴一つ吐かないで毎日必死に働いて……」


 違う。愚痴を吐かないのは、聞いてくれる友達も居ないからだ。

 内気で人間関係の構築が苦手な繭は、どこに行っても周囲に馴染めず、浮いた存在だった。

 繭を嫌う同僚に挨拶を無視され、意地悪を言われても、上司に相談も出来ない。悪いのは、どん臭くてミスばかりする自分の方だからだ。


「違うの……私が悪いの。私がいつも、人をイライラさせてしまうから……お母さんだって」

「違うよ。繭は何も悪くない。お母さんのことだって、繭のせいなんかじゃない」

「でも、だって」

「自分を責めないで。繭は頑張っているよ。むしろ、頑張り過ぎなくらいなんだ。もっと、肩の力を抜いてもいいんだよ」


 滔々とうとうと響く、ルイの声。繭がずっと欲していた、誰かに言ってもらいたかった言葉を、彼は口にする。彼の言葉は、まるで麻酔のようだった。胸の痛みを紛らわす、麻薬。治ることのない傷。塞がることのないうろを、その声は優しく慰撫して麻痺させてくれる。

 身を委ねてしまいたくなる。抗い難い衝動――その時、彼は言った。


「お兄さんのことだって、辛かったよね。誰にも相談出来ずに、ずっと一人で抱え込んで……もう、いいんだ。我慢しないで。全て、僕に話して」


 頭を殴られたような強い衝撃に、繭は肩に添えられたルイの手を払った。


 ――お兄さんのこと?


「……どうして、あなたがそれを知っているの?」


 は、自分と兄しか知らないはずだ。

 他のことはまだ調べれば分かるかもしれないが、そのことだけは――。


「あなた、どこまで知っているの?」


 唇が震えた。繭に怪訝な瞳を向けられて、ルイは困ったように眉を下げる。


「繭のことなら、何でも知っているよ。君が小さい頃から、ずっと君のことを見てきたんだ。僕達は、ずっと一緒だったんだよ」


 意味が分からない。怖い。今更のように、繭の心を得体の知れない恐怖が支配した。戦慄わななく彼女の肩に、ルイが気遣わし気に手を伸ばす。


「繭――」

「やめて! 触らないでっ!」


 繭はそれを払い除けると、立ち上がり、駆け出した。


「繭!」

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