懐古

「はい、どうぞ。熱いから気を付けてね。繭は猫舌だったよね」


 ティーカップを渡される。受け取ってしまってから、繭は躊躇ためらった。これに毒が入っていないとも限らない。先程は自暴自棄な気持ちになっていたが、痛いのも苦しいのも正直嫌だ。

 動きを止めた彼女を見て、ルイ青年は寂しげな笑みを浮かべた。


「大丈夫。変なものは入っていないよ。僕は君が嫌がるようなこと、君を傷付けるようなことは絶対にしない」


 真摯な眼差しだった。けれど、だからといって簡単に信用は出来ない。依然として繭が紅茶に口を付けずにいると、やがてルイは諦めたように別の提案をしてきた。


「そうだ、この屋敷には図書室があるんだよ。繭、本好きだったよね。案内するよ」

「え……でも」

「きっと、気に入ると思う」


 これ以上拒むのもはばかられ、繭はとりあえず彼に従うことにした。

 導かれるままに部屋を出て、長い回廊を歩く。随分広い屋敷のようだが、他に人の居る気配は無かった。廊下は薄暗く、そこかしこに闇がわだかまっている。

 ――今、何時なんだろう。

 先程携帯端末で時計を目にしたはずなのに、何故か印象に無い。


 やがて、ルイは突き当たりの扉の前で足を止めた。窺うように振り向いて繭に微笑みかけてから、それを開く。

 中には、所狭しと本棚が立ち並んでいた。思わず、繭は感嘆の息を吐く。


「ここにある本は、全部君のものだよ。君の好きにしていい」


 促され、繭はおずおずと内部に足を踏み入れた。昔よく通った地元の図書館を彷彿とさせる、古書の臭い。一番手前にある本棚を覗き込み、瞠目した。


「これ……」


 既視感。その棚に並べられた本のタイトルには、全て覚えがあった。


「私、持ってた」


 ――そうだ。

 ここにある本は、昔繭が趣味で集めていたものと全く同じラインナップだった。

 今はもう、全て失われてしまったコレクション。

 本当は、手放したくなどなかった。けれど、床が抜けると母に叱られて、泣く泣く処分させられた大切な心の拠り所。


 お小遣いで買ったものなのだから、親の物と同然だと。大人になって自分でお金を稼ぐようになってからまた買い直せばいいと言われたが、空っぽになった本棚が悲しくて、虚しくて……以来、繭は本を一切手に取らなくなってしまっていた。


「どうして、ここに……」


 問おうと振り返ったらルイの姿が消えていて、繭は面食らった。

 一体、どこへ。繭が本に集中出来るようにと気でも利かせたのだろうか。

 よもや閉じ込められたのでは、と不安になったが、図書室の扉は開いたままだった。逃げるなら今がチャンスだと思ったが、廊下の闇に気圧されて足踏みする。


 それに、ルイのことも気になった。どうも悪い人ではないように思える。少なくとも、彼は確かに繭のことを知っているようだった。

 もう少し様子を見てもいいかもしれない。

 ひとまず、他にすることもなく本を手に取った。中身に目を通すと、懐かしさに胸が締め付けられる。

 それから、数年前に病で亡くなった母のことを思った。


 母とは、最後まで分かり合えなかった。

 性格や価値観が百八十度違った。恋愛に奔放で社交的な母。内向的で人と関わるのが苦手な繭。

 自分にまるで似ていない、別れた父にそっくりな繭を、母はあまり快く思っていなかった。


 母は父が嫌いだった。顔を合わせればヒステリックに喚きたて、長時間ずっと罵倒し続けた。楽しいはずの旅行やイベント事も、いつも母の不機嫌で台無しになった。

 父は無口で何も言わず、頑なに黙り込むその態度が余計に母を苛立たせていたようだった。

 そんなに仲が悪いのに、何故結婚したのか。答えは明白だ。母が父との間に繭を身篭ったからだ。


 母は当時バツイチ子持ちを隠して夜職をしていて、店で出会った父と関係を持った。繭の件で結婚することになって初めて、父は母が既に子持ちであることを知ったという。

 だから、繭には父親違いの兄が居る。この兄はよく出来た息子だった。社交的で母に似て、頭も運動神経も良く、その他何をやらせても優秀で、幼い頃から数々の賞状を貰っていた。


 それに比べて、繭は全てにおいて劣っていた。頭が悪い訳ではない。運動神経もそこまで酷くはない。けれど、兄には遠く及ばなかった。

 それだから、余計に母には失望されたのだろう。それまで父にぶつけていた母の怒りの矛先は、離婚後は繭に向いた。


「お前は本当にあの男にそっくり」

「お前さえ居なければ」

「お前みたいなのが出来ると知ってたら産まなかった」

「あの男が欲しいと言ったから、仕方なく産んだ」

「産むんじゃなかった。早く死ね」

 ――繭は、よくそう言われて育った。


 それでも、繭は母を憎めなかった。優しい時もあったからだ。母は母なりに自分のことを愛しているのだと、そう思いたかった。


 父と別れてからの母は、何人もの男と関係を持ち、あまり家には帰らなくなった。最終的には癌が発見され、僅か半年であれよという間に儚くなってしまった。

 数年経った今でも、繭は母の死をあまり実感出来ていない。泣くことすらも出来なかった。


 ただ、母を殺したのは自分だと思っている。


「お前が私をイラつかせるから、私の具合が悪くなる」

「私が死んだらお前のせいだ」

「人殺し」――投げかけられた言葉が今でも消えず、何度もリフレインしては繭を苛んだ。

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