微睡みの城

夜薙 実寿

覚醒

 ゆらゆらと揺蕩たゆたう木の葉ように、深い泥濘でいねいの底に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上していく。

 はらり、はらり、纏わりつく睡魔を徐々に振り落として、重たい瞼を上げた。

 ――開いた瞳に映り込んだのは、知らない顔だった。


「おはよう、まゆ。目が覚めたかい?」


 優しい声。柔和な微笑で訊ねてきたのは、見たこともないような美しい青年だった。白磁の肌、金糸の如く輝くブロンドの髪。湖の底を思わせる深い青の瞳。

 異国の人だろうか、十代にも二十代にも見える。いずれにせよ、初めて会う人物だった。

 齋藤さいとう 繭は混乱した。


 誰? 何?

 自分は確か、仕事から帰っていつものように遅い夕飯の後、眠ったはずではなかったか。

 半身を起こし、辺りに視線を巡らせる。そこもまた知らない場所だった。まるで映画のセットみたいな豪華な寝室。白とピンクを基調に金細工が施されたロココ調の繊細な家具。

 小さい頃に憧れたお姫様みたいな部屋。しかし、心をときめかせるよりも、それは一層の混乱を呼んだ。


「こ、ここはどこですか? ……あなたは?」


 繭は恐る恐る問い掛けた。怯える彼女の視線を受けて、ブロンドの青年は少し悲しげに苦笑した。


「やっぱり、覚えていないんだね。僕はルイ。昔、よく一緒に遊んだんだよ」

「え?」


 言われて記憶を探るが、繭には覚えがない。こんなに特徴的な知人が居たのなら忘れる訳がないと思うが……。


「そうだ。喉、乾いたよね。何か飲み物を持ってくるね」

「あ……」


 戸惑う繭を置いて、ルイと名乗った青年は早々に部屋を出て行った。残された繭は暫し呆然と扉を見つめた後、今一度己の置かれた状況を整理することにした。

 まずは自身を検める。普段着ているようなラフなパジャマではなく、フリルとレースの施された生成きなりのワンピースを着ていた。彼女の持ち物にこんなものはなかったはずだし、どこかで着替えたような覚えもない。

 ということは、あの青年が……?


 その可能性に行き当たった時、背筋が粟立った。

 ――まさか、これは誘拐?

 眠っている間にここに連れてこられたのか。一体、どんなことをされたのかも分からない。

 凄まじい嫌悪感と恐怖に駆られ、全身を隈無く調べた。とりあえず怪我の類は見当たらない。服装以外には特に変化はなさそうだったが、全く安心は出来なかった。


 とにかく、逃げなくては。

 あの青年が何者なのか、何の目的で繭を攫ったのかは不明だが、幸い拘束はされていない。彼の姿が見えない内に、ここから出よう。

 そう決めて、繭は立ち上がった。改めて室内を見回す。繭が普段過ごしているゴミ屋敷のようなそれとは正反対に綺麗な部屋。カーテンの向こう、窓の外には漆黒の闇が広がっていた。まだ夜なのか。


 ふと、サイドテーブルの上に置かれた、ある物体に目が行った。花柄のラバーケースを付けたピンクの携帯端末。間違いない。繭のものだ。

 見知らぬものばかりの中、唯一見つけた自分の所持品。縋るような想いで手に取り、ロック画面を解いた。

 しかし、すぐに表示が圏外になっていることに気付く。

 駄目だ。これじゃあ、連絡が出来ない。そう考えてから、繭はハッとして自問した。


 ――誰に?


 一体、誰に連絡をすればいいというのか。思い浮かぶような人物が、彼女には誰一人として存在しなかった。

 仄暗い気持ちが胸の奥底から湧き出してきて、表情を奪う。

 そうだ。逃げてどうするというのだろう。逃げて、いつもと変わらない日常に戻るのか。あの鬱屈とした、何一つ楽しみも生き甲斐も見いだせない、ただ惰性で生き過ごすだけの毎日に――。


 そう思うと、急に全てがどうでも良くなった。逃げる気力さえも失せて、その場に立ち尽くす。

 そこへ、不意にノック音が響いた。扉が外から開かれる。

 ふわり、華やかで甘い香りが繭の嗅覚を刺激した。

 ――何だろう。嗅いだことのある匂い。どこか懐かしい。


 虚ろだった繭の黒瞳に光が宿る。見ると、あの青年がティーセットを運んできたところだった。


「カモミールミルクティだよ。繭、好きだったよね」


 ――カモミール。

 そうだ。カモミールの香りだ。確かに、繭が小さい頃、一時期このミルクティにハマっていた時期があった。

 スーパーの見切り品コーナーにお湯で溶かす粉末状のものがあって、母が気まぐれに買ってくれたのだった。初めて飲むその味にたちまち虜となり、以来、繭の好物となった。

 けれど、いつでも手に入るものではなかったので、子供の繭には貴重な嗜好品だったのだ。


 ――なんで、この青年がそれを知っているのだろう。

 偶然? こんな偶然があるだろうか?


「あなたは……誰なの?」


 もう一度、同じ疑問をぶつけた。彼は困ったように微笑わらうのみだった。

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