煙の街

水面

煙の街





靄がかかっている。

靄、というにはあまりにも濃く、白というより灰色が混じっていた。

私は暗い一本道の途中に立っていた。そこは誰もおらず何も落ちておらず、街灯が灰色のコンクリートを照らしているだけだった。

後ろを振り返ってみると、そこに道はなかった。

靄が吸い込んでしまったように私の数歩先で途切れ、見えなくなっていた。

誰かいませんか?

そう声を出そうとしてやめた。

ここは自分の夢の中だと気づいたからである。





目覚めて一番に思ったのは気分が晴れない、だった。夢を見た気がするのに夢の内容はほとんど思い出せず、ただ後味の悪い食事を食べた時のように嫌な感情が胸の中に留まっている。

私は柔らかい毛布からそろそろと足を出し、大きく伸びをした。ベッドフレームの冷たい感触が、マットレスから投げ出した足の親指に当たる。

そろそろとベッドから降りると、ゆっくりした足取りで洗面所に向かう。

水道の蛇口を捻り、水がお湯に変わるのを待ちながら、流れゆく水をただ眺める。どうしてこんな気持ちを朝から味わわなければならないのか不思議だった。

指先を水に浸して、その温度が変わったのを確かめてから、私は顔を洗った。石鹸は使わない。洗面台で本格的に顔を洗うと、水が飛び散って大変だからだ。お湯のみで、顔全体を覆うように手のひらを被せる。そうして洗い終えてからタオルで顔を拭く頃には、夢のことなど忘れてしまった。




昔の話など、誰も聞きたくはないだろう。

そこが楽しい記憶なら別だが、そうではない記憶なら。

ハッピーエンドではない絵本を子供はまた読みたいと思うだろうか?途中に怖い怪物が出てくる映画を「もう一回」とは決して言わない。

年齢を重ねても、そこの価値観は変わらないだろう。


私は気分転換に乗った電車で、窓の外を眺めていた。建物はその街並みを表していて興味深い。街並みを見れば、そこに居る人間の心が分かる、確証はないがそんな気がする。

終点までのアナウンスが流れる中、私はどこで降りようかと考える。

目の前の座席に座る女性はポーチを取り出し、リップを塗っている。隣に立つ男性は文庫本を手に電車の揺れに耐えていた。

人それぞれの暮らしがあり、何も知らない、関心を示さない人の群れが鉄の塊に乗って一つの場所に向かい輸送されていく。その世界が不思議と私にとっては居心地が良かった。

車内の混み具合が酷くなりそうになった時、私は電車を降りた。

降り立った駅は今まで降りたことのない場所だった。都会の中心に向かう道半ばのこの駅はちらほらと人は見えるものの、栄えている駅ではないらしい。きっとベッドタウンとしての役割があって、ここは眠る街なのだ。


寂れた駅の改札を出ると、住宅街が広がっていた。時刻はお昼の12時すぎくらい。起き抜けに飲んだのはコーヒーに牛乳を入れたものとコーンスープだけで、食べ物は口にしていなかったのでお腹が空いてきていた。

降りた駅間違えたかな、とも思ったが、店がなければコンビニでおにぎりでもサンドウィッチでも買えばいいし、ちょうど日差しも春のように柔らかかったので公園のベンチに座って軽いピクニックをしても構わなかった。

私は流れるままに北側の出口に広がる住宅街を歩く。古い瓦のついた家や、新しい綺麗な家を見ながら、きっと帰りは地図がないと駅まで帰れないだろうと思った。

住宅街は住めば道がわかるが、部外者はたどり着くこともできない。歩くたびにそんな印象だった。

しばらく歩いていると、こぢんまりとした、だけど可愛らしい店が目に入った。そこは店というには温かみがあったので私は一瞬見逃したのだが、その庭の前にある看板に、カフェの文字があって目を止めたのだ。



『cafe

lunch 11:00~17:00』



17時はもうディナーになるのではないかと思ったが、この店ではまだランチと定めているらしい。

価格帯もメニューも何も分からなかったが、とにかくお腹が空いていたので私はこの店に入ることに決めた。




扉を開くと、カランとベルが鳴った。

ベルの音に応えるように、厨房から女性が顔を出した。茶髪を一つにまとめ、薄い橙色のエプロンをしている。名札には『店主』の文字。名前じゃないんだ、という感想が頭の中を通り過ぎる。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

お好きな席、と言われて周りを見渡す。テーブル席は全部で6席ほど。店の外から見たように、そんなに多くはない席数だ。私の他に2組の客がいて、片方は女性の二人組。平日の時間帯的に主婦だろうか、仕事の休日だか不明だがどちらも30代半ばくらいの女性が会話しながら食事をとっていた。もう一組は夫婦のような男女が座っていた。

私は窓際の光がよく差し込む席に腰をかけた。

テーブルには花柄のレースのテーブルクロスがかけられていた。窓には薄紫色のカーテンが括られており、その間から陽の光が差し込んでいた。

テーブルの上に立てかけられている茶色のメニューを開くと、サンドウィッチやオムライス、スパゲッティなどのカフェの定番メニューが顔を覗かせた。

デザートはパフェ、アイス、ティラミス。飲み物はコーヒー、紅茶(どちらもホットアイスを選べる)、オレンジジュース、緑茶があった。

あまり数は多くないものの、全ての写真が美味しそうで、決めるのに少し迷ったが1番目を引いたオムライスと飲み物はアイスティーに決めた。

テーブルに置いてある呼び鈴を鳴らすと、すぐに店主がやってきた。

店主は特に書くものなどは持たず、手ぶらだった。

「えっと…オムライスとアイスティーをお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」

それだけ残すと、店主はすぐに背中を向けて厨房へ入っていった。一つに束ねた髪の毛が背中で揺れていた。

店の中は静かだが、小さめの音量で何かの音楽が鳴っていた。ピアノの音だったのでクラシックかと思いきや、歌声も入っていたので耳をすませて聴いてみると、それは普通のjpopだったので拍子抜けしてしまう。店内は純喫茶のような洒落た空間だったので、店主の様子だったりなんだかちぐはぐな場面が多い気がして、私はすこしだけ面白いなと感じ始めていた。


10分ほどしてオムライスとアイスティーが到着した。店主はやはり「お待たせしました」とだけ言って去っていく。

オムライスはメニューの写真で見た通りの見た目だった。ふんわりとした卵のベッドに赤色のケチャップがたっぷりとかかっている。スプーンで卵を割ると、中から白い湯気が上がり、チキンライスが顔を覗かせた。

スプーンでそれを掬う前に私はストローの袋を開け、アイスティーのグラスに刺してから喉を潤す。

この夏からアイスティーにハマってしまい、どの店でも必ずアイスティーを注文するようになった。

コーヒーの味の違いはよく分からなかったが、アイスティーは店によって顕著に味が違うことがわかった。私はシロップの入ったような甘いものより、甘味は感じず茶葉の風味がしっかりと感じられるものが好きだった。

その点、この店のアイスティーは当たりだった。

私は柔らかい陽射しに当たった身体を鎮めるように喉を濡らす。

オムライスは食べ終わるまで温かいままだった。卵は見た目と同じく口の中を包み込むような柔らかさだった。チキンライスのチキンも柔らかく、私はぺろりと完食してしまった。

窓の外に広がる店のテラスを眺めながら春になったらあそこで食べてもいいかもしれないと思っていると、店主が伝票を持ってきた。

「あの、このお店の名前ってcafeなんですか?」

私は気になっていたことを思わず口に出していた。

店主は顔色を変えないまま、「はい。そうですよ」と言った。それからちょっと考えるように黙って「変ですかね?」と言う。

「変というか、カフェにcafeって名前つけるのが斬新だなと思って。猫に猫ってつけるような感じで」

「名前が思いつかなくて。カフェだから、本当はカタカナで『カフェ』にしようかと思ったんですけど、それじゃあ格好つかないかなと思って英語にしたんです。今はグローバル化が進んでるから、英語にしとけばみんなわかるかなと思って」

なんて適当な名前の付け方なのだろう。拘った料理や店内のインテリア、その配置を選んだ人間の思考とは思えず、私は思わず固まった。

「最初は『店』にしようとしたら友人に止められて。名前なんてなんでも良かったんです。料理と空間が重要なので」

そう言って店主は微笑んだ。

先ほど飲んだアイスティーのようにスッキリとした笑顔だった。

私はお礼と、「また来ますね」と言って店から出た。






その夜、またあの夢を見た。

街灯で照らされた一本道に私は立っていた。背後の道は靄で隠れ、正面の道しか見えない。

前回の夢と違うのは、匂いが違うことだった。

空気を吸い込むと煙のような匂いが肺の中に広がって私は咳き込んだ。

2、3回咳をしたところで目が覚めた。頭元の時計はまだ深夜2時を指していた。





なぜこんな夢を見るのか、自分でなんとなく察しがついていた。

あの街に行かなければならないという強迫観念が、自分を苦しめていることに気づいていた。

あの街から離れて数年経っても、あの場所の記憶を完全に忘れることは難しかった。

あそこにはもう、私を支配するものや人たちが居ないことは分かっていた。ただあの街には幼かった自分を閉じ込めていた家が、まだ残っているのだ。

きっとそのせいで、私は悪夢を見ているのだと思った。



次の日、朝早くに目覚めると財布と携帯だけ持って家から出た。向かうのは空港。

思い立ったが吉日。

私はあの街に行くことにした。自分を苦しめていた何もかもが消えていることをもう一度確かめたかったからだ。

飛行機の便は平日ということもあり空いていた。

身体検査を済ませてフライトまで待合室の椅子に座って待つことにする。

時間になると、窓側の席から案内が始まった。私は廊下側の席だったので、飛行機に乗り込んだのは最後の方だった。

『フライトは約2時間を予定しております』

キャビンアテンダントのアナウンスを聞きながら、ゆっくりと目を閉じる。



『あの街はもうないよ』


いつか読んだ絵本のページの言葉が蘇る。

主人公の少年は誰もいない街に佇んでいた。建物が赤い光に包まれて、消えていく。

その時の光が幻想的で、まるでクリスマスのイルミネーションを連想させた。



睡眠不足のせいかいつの間にか寝入っていた私は、着陸の大きな揺れで目が覚めた。缶詰から湧き出る虫のように人が航空機から出ていく。

空港に降り立って腹が減ってはいけないと、私は空港で昼食をとった。ここの料理は好きだけど、それが私を呼ぶ理由にはならない。だから遠慮なく食べれた。料理は過去の思い出になれる。

腹を満たした後は電車に揺られた。約20分ほど乗った後、駅からさらに10分ほど歩けばあの家が見える。

だだっ広い庭は草が生い茂っていて、玄関までのコンクリートの道が唯一の救いだった。

憎しみに似た感情を抱いているくせに、この家の人間が居なくなるのが怖かった。

それと同時に、居なくなった途端ほっとしている自分もいた。もう、この街に来る理由が無くなったのだと。

持ってきた鍵で玄関の扉を開ける。

扉はなぜか建て付けが悪くなっており、開けると軋むような音を立てた。

家は、誰も住まなくなるとどんどん劣化していくらしい。だからたまに空気の入れ替えをしてあげるんだよ、と家に住んでいた人は言っていた。


「ごめんね。言いつけ守れないや」

そう呟いた時、視界がぼやけてきた。

この家には楽しい記憶なんかなかった。本当はあったのかもしれないけれど、思い出すのは辛さや苦しみ、そして悔しい気持ちだった。

私は買ってきた灯油を手に、その場に立ち尽くして落ち着くまで涙を流した。






*********************



数日後、私はまたあのcafeにやってきていた。

店主は前回と同じように注文をとりにきて、厨房へ引っ込んでいく。

16時。おやつの時間帯を過ぎているのに加えて平日なのもあってか客は私だけだった。

ぼんやり外を眺めていると、パンプキンケーキとホットコーヒーが運ばれてくる。

お礼を言いながらも手をつけずに景色を眺めていると、「ニャア」と猫の鳴き声が聞こえた。視線を向けると、足元に黒猫が擦り寄ってきていた。

「あんず」

そう言ったのは店主だった。

「すみません、奥の部屋から出てきちゃったみたいで」

言いながら、黒猫を抱える。

「あんずちゃん…猫って名前じゃないんですね」

以前の会話を思い出してそう言うと、店主は思い出すように思考を巡らせた後、「ああ…」と納得したように呟いた。

「この子も私の人生には重要なんです。だからちゃんと名前をつけないと」

あんずは応えるようにまた「ニャア」と鳴いた。

「重要か、重要じゃないかってどうやって決めるんですか?」

「自分と同じくらい、またはそれ以上に大事にしたいか、です。自分の何かを尽くしても手放したくないものか。それが私の重要です」

私が目の前の席を勧めると、店内を見渡した店主はそこに腰掛けた。他に客がいないことを確認したのだろう。

「私は……何が重要なのか分からなくなってしまったんです。自分を大切にしたくてあの街を離れたけれど、あの街が、いや、あの家がまだあることが苦しくていっそのこと焼いてしまおうかと思いました。それが自分を大事にすることだと思ったから。それで先日向かったんですが…出来ませんでした。準備万端だったのに、いざとなると涙が止まらなくて。あの家には嫌な記憶しか無かったのに」

一気に話して、ハッと我に返る。

どうしてこんな話をしてしまったのか。変な奴に思われないだろうか。そう思ったが、誰かに聞いてほしいのも本心だった。

突然の会話にも関わらず、店主は驚いた様子も見せなかった。

「その家はどうするつもりなんですか?」

「…売りに出すことにしました。私はもうあそこには帰らないし、帰るという言葉も使うに値しない人間なんです。ただ私のものでなくなれば、もう私があの街を訪れる理由にはならなくなると思って」

「それで良いと思います」

店主の声は静かな、それでいてはっきりと諭すような口調だった。

「人間が抱えられるのはそんなに多くないと思うんです。私はあなたがその街に囚われずに済んで良かったと思いますよ。家を焼いてしまったら、その時の光景や匂いを一生覚えているでしょうから。忘れてしまっていいんです。人間は、忘れるから生きていけるんです」

はい、と絞り出した返事に涙が混じりそうになる。

私はもうとっくに自由だったんだ。

店主はあんずの顎の下を撫で、その額にキスをしていた。

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