赤を待つ日々

@JULIA_JULIA

第1話

 一人きりでは広すぎる部屋に、堪え難い空気が漂っている。極めて遅いメトロノームの如く、水が滴る。静寂という程ではないが、それなりに静かな空間に刻まれる音。刻まれては消え、刻まれては消え。そんなのことの繰り返し。締まりが緩くなった蛇口は黙ることがない。そうして溜まりゆく鬱屈に溺れてしまいそうになり、その場から去ることにした。


 調理実習室の扉を閉めるや、俯き加減の頬をさらう柔風やわかぜ。秋が半分ほど姿を現しているためか、中々に心地よい。先程までの陰鬱は影を潜め、自然と目線が上がる。解放されている窓の先には、大きな壁。行儀よく同じ向きで三連に並んでいる校舎棟の次男が建っている。その向こうには三男がいて、更にその先には数多の生徒がつどっているであろう校庭。


 賑わいを感じさせる声が耳を撫でる。小さなボールを投げたり、程よく大きなボールを蹴ったり。そんな生徒たちの声は、それなりの距離と二枚の大きな壁により、決して煩くはない。しかしながら、耳障りではある。疎外感と孤独感に押し潰されてしまいそうだ。彼らには同好の士がいるが、俺にはいない。少なくとも、いま現在は……。このままでは、廊下にまで鬱屈が溜まってしまいそうだ。


 放課後の調理実習室は、俺とあのコの居場所となっている。大抵の場合、俺の方が早くやってくる。彼女はに時間を要するため、授業が終わっても、すぐには来ない。だから俺は彼女を待つ日々を送っている。初めのうちこそ慣れなかったが、もう慣れた。彼女を待っている時間もそれなりに楽しい。今日は一体どんな下らないことをするのだろう、と頬を緩ませる。暫く前から、そう思うようになっていた。


 しかしながら、昨日までに二連続で待ちぼうけを食らった。ここ二日、彼女は現れていない。なぜなのだろう。クラスに押し掛けて問い詰めようかとも思ったが、そんな度胸など持ち合わせていないことに、すぐ気付いた。俺はそこそこに不真面目な生徒ではあるが、それと同時に中々の人見知りでもある。よって、人様の教室に乗り込むことなどできよう筈がない。


 またも吹き付けた柔風やわかぜが頬をさする。なにもかもをさらってくれれば、ラクになれるのに。このときも、この想いも……。もしかしたら彼女は辞めてしまったのだろうか。そんなことを思い、景色がにじんだ。






 世の中のあらゆることに興味を示し、探究する。そのために立ち上げられた、森羅万象探究同好会。えらく大層な『お題目だいもく』と、なんともふざけた名前。そんな可笑しな団体が、俺と彼女が所属している同好会だ。会員は二名のみ。彼女が会長で、俺は副会長。『役職付き』しかいないとは、豪勢な構成ではある。そんな森羅万象探究同好会を創設したのは彼女だ。俺は偶々たまたまその場に居合わせただけ。数学教師に押収されていた漫画本を取り戻すため、職員室にいただけだ。しかし、いつの間にやら副会長に任命されていた。それは、四月の中旬に入った頃の話。






 入学早々、授業中に漫画を読んでいた俺は男性教師からの説教をシッカリと浴び、漸く愛読書との再会を果たした。野太い声の残滓ざんしが脳内を彷徨さまよう中、床を見るようにして速やかに職員室からの脱出を試みる。しかし、不意に腕を掴まれた。まだ追加の説教があるのかと気が滅入る。だが、そうではないのだと直後に分かる。俺の左腕が感じ取ったのは、幾分小さな手。そして、なんとも弱々しい握り。どう考えても先程の男性教師ではない。彼は数学を専攻している割には体つきが良い。相手を確認するため、顔を上げる。すると一人の女子生徒の姿が、俺の目に強く焼き付けられた。


 燃えるような赤。そんな髪をたたえている女子。所謂いわゆるところの赤毛ではなく、赤髪だ。この高校は生徒の自主性を重んじるため、頭髪に関する規定はない。だから金髪や太股に掛かるほどに長髪の生徒もいる。しかしながら、緋色ひいろの髪は見たことがない。そのため、俺の心はざわついた。


「会員なら他にもいます!! この人です!!」


 職員室内に轟いた、けたたましい声。赤髪女子のそんな声と共に、俺の腕は高々と上げられた、まるで電車内で痴漢行為を働いた下手人のように。そんな状況とは裏腹に、なんだか甘い感情が訪れる。見知らぬ女子に捕まり、妙な喜びが芽生えたらしい。俺はそんな趣味趣向など持っていない筈なのだが……。なにがなにやら訳が分からず戸惑う中、赤髪女子と対峙している女性教師が訊いてくる。


「……そうなの?」


 眉間に深いしわを刻み込み、不快感を含んだ声を発した女性教師。イスに腰掛け、固い腕組みをしながら、厳しい目つきで俺の顔を見上げている。


「はい! 副会長です!」 


 代返だいへんを頼んだつもりなど微塵もないのに赤髪女子が答えた。その直後、彼女からの熱い視線が俺に向く。燃えるような赤い髪と、なにかに燃えているらしいダークブラウンの瞳。それらとは対称的に、なんとも爽やかな笑顔。俺の心は流されて、現れたのは生返事。


「そうです……」


 そうして俺は副会長に就任した。職員室から出たあと、赤髪女子から言い訳のような説明を受ける。彼女は同好会を立ち上げるべく、職員室にて自らの担任と交渉をしていたらしい。しかし、如何いかに生徒の自主性を重んじる校風とはいえ、流石に会員が一名の同好会は認められなかった。そんなとき、赤髪女子の後ろを通り過ぎようとした俺。そうして彼女に確保されてしまった訳だ。赤髪女子にとって、『渡りに船』とは、このことだろう。そうして俺と彼女は、未知なる海へと旅立つことになった。






 あれから、およそ半年。暦の上では、うに秋に入っている。しかし今年も残暑が厳しく、到底秋とは呼べない。いや、呼びたくない。照りつける陽射ひざしや吹き出る汗など、秋という季節には不釣り合いだ。秋とは、あでやかな紅葉をでては心を癒し、それでいて、なんだか物悲しくなる季節のことだろうと思う。だから、まだ秋ではないのだ。しかし漸く、その気配が表れつつある。とはいえ、俺の心は二ヶ月も前から秋模様だ。秋というのが、あでやかな赤をでては心を癒し、それでいて、なんだか物悲しくなることだとするならば。






 春のあいだ、困惑と面倒臭さと呆気あっけが俺の心を支配していた。森羅万象探究同好会とは詰まるところ、『なんでも、やってみる』という大雑把な同好会だからだ。そのため赤髪女子は、カードゲームや小説を持参しては俺に感想を求めたり、定番のスナック菓子を味変あじへんさせるための調味料の最適解を導き出したりしていた。しかし梅雨時つゆどきになると、困惑と面倒臭さは悦楽へと変化していった。更に夏になると、享楽へと変貌した。とはいえ、呆気あっけは残されたままだった。赤髪女子のやること、やろうとすることは、驚きつつも呆れるモノが多かったからだ。


 そんな俺の心に秋が訪れたのは突然のことだった。それは、夏休みに入って一週間ばかりが経った頃。俺は無性に赤髪女子に会いたくなっていた。夏休みのあいだは同好会の活動はない。部活動のように、なにかしらの大会や発表会などがある訳ではないので、休暇中にまで活動をする必要はないからだ。しかしながら、俺は活動を求めていた。いや、欲していた。なにをしたい訳でもないが、とにかく赤髪女子に会いたかった。そして、その感情が恋心であることに気付いた。






 鬱屈した調理実習室と同じく、廊下でも一人きり。眼下の中庭には、数人の生徒。彼ら彼女らの顔は随分と穏やかで、俺の心にとげを刺す。仲睦まじい光景に背を向け、腰を下ろす。ここは、程々に賑やかな校庭や、随分と穏やかな中庭とは、隔絶した世界。ただただ孤独な世界。もう秋になりそうだというのに、あでやかな赤は今日も訪れそうにない。


 膝を抱え、顔をうずめる。別に泣きそうになった訳ではない。その逆だ、思わず叫びそうになったのだ。孤独に堪え兼ね、絶え間なく膨らむ想いによって、この体が破裂しそうになったためだ。叫ばないと、なにかを出さないと、この体が持ちそうになかったからだ。


 うずくまったまま、鼻歌をなびかせる。それは、いま流行はやりの歌。報われない愛を歌ったモノだ。歌に興味などない俺でもテレビや街中まちなかでことあるごとに聞かされ、ある程度の歌詞を覚えてしまった程に流行はやっている歌だ。迂闊にも、その歌詞に共感してしまったため、時折こうしてメロディーを紡いでいる。しかし、きちんと歌うことはしない。そんなことをすれば宙を舞う歌詞により、それこそ泣いてしまうだろう。


 報われない愛のメロディーを半分ほど消化した頃、不意にリズムが刻まれた。俺のメロディーとは相容あいいれないリズム。誰かが階段を上がってくる。俺は鼻歌をめ、すっくと立ち上がる。


 調理実習室は、端の端にある。孤独な俺と同様に、疎外されている。長男である校舎棟の四階、その端にある。森羅万象探究同好会の部屋の周りには、部室として使われている教室はない。よって、こんな場所を訪れる人間は限られている。俺は期待を持ち、足音を待つ。そのリズムを刻んでいる人間を待つ。爽やかな笑顔を持つ、あでやかな赤を待つ。


 しかし現れたのは、黒い髪。その三十代半ばの女性は森羅万象探究同好会の顧問である。同好会は部活ほど規定に縛られてはいない。しかし当然のことながら、野放図に振る舞える訳ではない。顧問は必要なのだ。彼女が同好会に出席することは、極めてまれである。よって些か驚いた。するとその驚きが伝播でんぱしたかのように、顧問は口を開く。


「あれ、なにしてるの? 部活───いえ、同好会は?」


「今日も一人なんで、なにをしようかと……」


「今日も?」


「昨日と一昨日おとといも一人でした」


「え? 会長はどうしたの?」


「さぁ……」


 それは俺が知りたいくらいだ。ともかく顧問からの指導により、調理実習室へと戻ることになった。そうして俺が扉に手を掛けると、またもや足音が聞こえてくる。慌ただしいほどのリズムを刻みながら、どんどんと音量が増していく。そのリズムにつられるように高鳴る胸の鼓動。なんだか体が熱い、駆け巡る血液の流れを感じ取れるかのようだ。程なくして現れたのは、待ち焦がれていた──いや、恋い焦がれていた燃えるような赤。


「ゴメンね! 遅くなっ───。ゲッ!? せ、先生……なんで?」


 赤髪女子は俺の顔を一瞥したあと、顧問の存在に気付き、酷く慌てている。妙ちくりんな装置を両手で抱えながら。それは、縦横無尽に張り巡らされた回廊とでも言おうか。またしても呆れるような活動をするつもりなのだろう。


「……なに、それ?」


 顧問の顔が曇る中、赤髪女子は必死に言い逃れを始める。


「こ、これは! 重力エネルギーを球体の運動エネルギーに変換し、その挙動を確認するための実験装置です!」


 要約すると、『ピタゴラなんちゃら』のようなモノだろう。赤髪女子の返答を受け、顧問はまたも問い掛ける。


「もしかして……、自分で造ったの?」


「はい! 二日掛かりで!」


 やはり呆れてしまう。そんなことのために同好会を休んでいたのか、と。俺に言ってくれれば手伝ったのに、と。たとえ、それがどんなに下らないことであったとしても、俺は喜んで手伝うだろう。彼女と一緒にいられるならば。


 顧問に促され、活動の場である調理実習室へと入る俺と赤髪女子。窓の端からは暮れゆく西陽にしびによる神々こうごうしい煌めきが漏れている。暫く前まで溜まっていた鬱屈はまるで幻であったかのようにすっかりと晴れ、穏やかな陽気に満ちている部屋。じきに沈みそうな夕日に照らされて、調理実習室の壁は赤く染まっていた。


 いよいよ完全に秋が訪れそうだ、俺の心のように。赤髪女子のにこやかな横顔を流し見て、そう感じたのは十月初めのことだった。



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