空の貼り紙の話

 近所の道を歩いていると、『空あります』とやたらと達筆で書かれた手書きの貼り紙を見ることがある。おそらく駐車場のきがあることを表す貼り紙なのだろう、私はそう考え、特になにをするでもなくその道を日々、利用していた。


 ある日、早朝にその道を歩いていると貼り紙の前にお爺さんがいた、その老人はかなり高齢のようで、腰が曲がっており杖をついていた、私の見立てでは七十代だと思う。

 その老人は貼り紙のあった場所に紙を貼り付けているようだった。

おそらく元の貼り紙を貼った本人が新しい紙に貼り替えるのだと思った。

しっかりと貼り替えられたのか老人は貼り紙の前から杖をつきながら移動し始めた。


見えるようになった貼り紙には

『空あります。虹もあります』と書かれていた。


虹とはなんだろう、空とは駐車場のきのことではないのか、居ても立っても居られず私は家に帰ろうとしていたお爺さんに尋ねた。


「すみません、ってなんですか?」

「ん〜?なんだって?」


突然、話しかけた私を怪訝そうに見ながら聞き返してきた。どうやら声が聞き取り辛いらしい。

「すみません!ってなんですか?!」

「そう大きな声出さんでも聞こえるわ」


老人は自分の家なのだろう場所の階段に座り込み、手慣れた様子で煙草を取り出しライターで火をつけた。

私はこの時点で老人に衝動的に話しかけたことを後悔しつつあった。

老人という生き物は怖い、自分よりも歳を重ね、己よりも人生についての高度な知識を待ち、この日まで生き残っている戦士たち、それだけで私にとって同じ種族であるということを忘れそうになるほど恐ろしいのだ。


そんな失礼なことを考えていると、老人が口を開いた。


そらにじが欲しいんやっけ?」

「あ、いえ、空と虹があると書いてあったのでなんの貼り紙なのかな、と」

「ああ、そんなん商品紹介に決まっとる」


見た目の弱々しい姿からは考えられないほど覇気に満ち溢れた声にわたしは吹き飛びそうになったがなんとかこらえる。


「商品紹介、ということは『そら』と『にじ』っていう商品があるんですか?」

「商品名っつーかなあ、うちは空と虹を売ってんのよ、買う? 一つ二百円だよ」


 いまいち老人の話が掴めないが、二百円であれば対した出費でもない、もしこれで全くいらない物を貰ったとしても話のタネにはなるだろう。そう考え、私は老人に二百円を渡し、そらをください、と言った。

老人は本当に買うとは思っていなかった、とありありと読み取れる驚きの顔を浮かべたのち、自宅へと入り、数分間待ったのち、老人は自宅から一つの箱を持って戻ってきた。


 老人は先ほどよりもにこにことしており機嫌が良さそうだ。


「へい、これがそらの箱、割れやすいから慎重に持ち帰んな」

「はい、ありがとうございます」


そらは割れ物なのか、と思いつつ箱を見るが小さめの箱で持ち帰ることに支障はなさそうだ、内容物に関してはいつの物かわからない新聞紙で梱包されており、まったくわからない。


「それにしても兄ちゃん、若いのにそらってのは渋い趣味だね、俺ぁNっていうもんだ、今度なんかあったらうちの店に来い」


去り際にはなにが老人の琴線を触れたのか妙に気に入られ一方的に名前とSNSの連絡先を教えられた。最近の老人はスマホなどの電子機器を当たり前のように使いこなす人とまったくわからないという人が混在していて、それを外見から判断することは不可能だ。それもまた私にとって怖いという印象があるのかもしれない。


なんとも不思議な体験をしたものだ、そう思いながら自宅の鍵を開ける、ワンルームの必要最低限の家具しか置いていない殺風景な我が自宅だ。

さっそく先ほど購入したそらの箱を開けてみる。

中にはが入っていた。そうとしか表現できない、これは紛れもなく空そのものだ、そう直感した。ベランダから外の空を見上げると箱の中のと同じものだと感じた。

これはなんとも凄い物だ、どんな技術で作られているのか全くわからない。

一つ二百円でいいのだろうか、私はぼんやりとそう感じた。

しばらくを持ち上げて色んな角度から見たり、感触を確かめていたりしていたが、ここであることに気づく。


これはなにに使えばいいのだろうか? 観賞用だろうか。確かに凄いものだが空なら外にもあるのだ、わざわざ室内で見る必要性を感じない、そう私は思った。



***



 それからしばらく部屋の隅にを置いていたが、どうやらは外の空の状態と連動しているようで、綺麗な夜空の日は空も同じ光景を映し出し、眩しい晴れの日も同じように晴れの空を映し出した。

そうなるといよいよ外の空を見れば良いじゃないかと私は思った。

ある日、なにか使い道がある筈だとお風呂に空を浮かべてみた。風呂に空が浮かんでいる光景は不思議なものではあったが、慣れるとお風呂の上に空が浮かんでいるなあ、としか感じなくなった。


 私は空を棚の奥に入れ、その後、引き出すことは無かった。

老人にもその後、特に会うことはない。

私が思うに、空を楽しむ素養が私には無かったのだと思う。いくら凄いものであっても見慣れてしまえばそれを楽しむことはなくなる。

そんなことを星の見えない夜空を窓から見上げながら思うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嘘日記 河狩優 @raihu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ