微熱

夜賀千速

断片

 わたしには、小学二年生よりも前の記憶がない。まるで誰かに奪われてしまったかのように、それ以前の記憶が丸々抜け落ちているのだ。誰と仲が良かったのかも思い出せないし、小学一年生のときの担任が誰だったのかもわからない。通知表を見せられても首を傾げることしかできなかったし、写真を渡されたってそれが事実であるとは到底思えなかった。


 小学三年生のときの記憶は、脳裏にかすかに残っている。それも、毎日三十七度台の微熱が続いて、学校を休みがちになっていたという記憶だ。一日中眠って、お腹が空いたらご飯を食べて、そしてまた眠る、そんな日々が続いた。本を読む気力も、お絵かきをする元気もなかった。思い出は、たったそれだけだった。


 小学四年生になって、わたしはひどく元気になった。人が変わった、と言ってもいいのかもしれない。その大きな変化を、周りの大人は怪奇の目で見ていたらしい。お母さんは最初、もとのわたしが神隠しにあったんじゃないかとさえ思ったそうだ。まぁ、そう思うのも無理はない。確かな記憶こそないけれど、病気がちで物静かだったわたしが、いきなりクラス委員長に立候補したのだから。わたしは性格も明るくなり、物怖じせずになんでもはっきりと喋る子供になった。学校の縄跳び大会では六年生を抜かして一位になり、理科の実験で県から表彰状をもらった。そのときから、わたしは優秀な生徒になった。



 四年生の時のわたしは、今のわたしにそのまま引き継がれている。今のわたしは十五歳、中学三年生。通っている中学校では生徒会長をつとめている。陸上部では駅伝のキャプテンをやっているし、この間の期末テストは余裕で学年一位だった。品行方正で非の打ち所がない、どこまでも模範的な生徒だ。小学二年生以前のわたしは、もうどこにもいない。


 今だって、ほら。

「千鶴」

 時刻は朝六時。自室で用意をしていたところ、お母さんがわたしを呼ぶ声がした。手元にあった教科書を鞄に詰め込み、急ぎ足でキッチンへ向かう。

「そういえば、来週三者面談じゃなかったっけ。志望校、決まったの」

「うん。前から言ってたじゃん、西高だよ」

 大丈夫だよ、とわたしは何度も言った。西高は県内屈指の難関高だけれど、わたしならきっと受かるはずだ。模試でもA以外の判定は見たことがないし、合格はほぼ確実だろう。

 お母さんは満足そうな顔を浮かべる。そうね、あなたなら大丈夫よね、といつものようにそう繰り返した。

「一応、お父さんにも言っときなさいよ」

 わかった、とすぐに返事をした。お父さんは毎日忙しく、わたしが起きた時にはもう家を出ている。仕事人間だけれど、なんだかんだ優しいお父さんだ。



 自転車を飛ばして学校へ向かい、自分のクラスに足を踏み入れる。晴れた朝だというのに、教室の空気はどことなく張り詰めていた。まぁ仕方ない、受験前なのだ。推薦の人たちはもうすぐ入試だし、学力テストも迫ってきている。

 机の上に公民のノートを広げて復習していたところ、友達の三奈がやって来た。

「ねー、千鶴。今日の英語のプリント見せてくれない?宿題だったとこ」

「いいよ、今回だけね」

「やったぁ、やっさしい」

 あからさまに喜んだ三奈はすぐにわたしの答えを書き写し、昨日の夜の出来事を話し始めた。わたしくらいしか、まともに話を聞いてくれる人がいないのだろう。教科書の太字を眺めながら、適当に相槌を打った。

「でね、弟が……」

「矢野。ちょっと生徒会の話があるんだが」

 教卓の方から低い声がした。担任の先生だった。

「あっ、はい」

 話が途中で終わってしまったことを謝り、わたしは席を立った。



 ◇



 それから、二週間ほど後のことだった。

 わたしは突然リビングに呼ばれ、お母さんの前に座らされた。何か怒られるのではないかと身構えていたが、お母さんの口から出た言葉はあまりに予想外だった。

「お母さんね、赤ちゃんができたの」

「え」

「二月に生まれるのよ、もう結構すぐ」

 お母さんは、わたしの見たことのない表情をしていた。口紅で赤くなった、厚ぼったい唇を動かす。

「よかったわね、千鶴。今度こそお姉ちゃんになれるわ」

「そうだね、楽しみ」

 言葉が、するりと口からこぼれて落ちた。


 少し寂しい気もするけれど、妹ができるというのは中々に感慨深いものだ。これまでお母さんを独り占めしてきたのはわたしなのだし、十五歳も歳が離れているのだから、あまり鬱陶しく感じることもないはずだ。このわたしの妹なのだから、きっと可愛くて優秀な子なのだろう。今から、妹の顔を見るのが楽しみだった。



 ◇



 月日は流れ、受験の日がやってきた。二月十九日、県立高校の一般入試だ。


 お母さんは、一週間前ほどから入院していた。もうすぐ、赤ちゃんが生まれるのだ。わたしは誰もいない家を出て、電車を乗り継いで会場へ向かった。教室に入り、手元の受験票を確認する。落ち着いて深呼吸をして、絶対大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 最初の教科は英語だった。リスニング問題を順調に解いて、文法問題も片付けて、長文読解に入った、その時だった。頭の横のあたりが、ひどく痛み始めたのだ。風邪を引いたときのような寒気と恐ろしい熱が、突如わたしを襲った。握りしめたシャーペンは動かず、解答用紙の余白を見つめることしかできなかった。


 わたしは結局、その高校に落ちた。進学することになったのは、そこから何個もレベルを落とした高校だった。涙も流れなかった。ただ、心に穴が空いたような絶望と、これは本当のわたしじゃないんだ、というどこか言い訳じみた反抗だけが自分の中に残っていた。


 受験が終わって自由登校になり、わたしは家に引きこもるようになった。熱がいつまで経っても下がらず、起き上がることさえもままならなかったのだ。

 経緯は覚えていないけれど、いつだったか、深夜に家中を動き回ったことがあった。わたしはやっとの思いで見つけた母子手帳を開き、両親の名前を確認した。間違いなく、今のお母さんとお父さんの名前だった。疑ったわたしが馬鹿だったのだと思い、すぐさま胸をなでおろした。私の母子手帳の隣に置かれていたそれは、この間生まれた妹のものだった。出生日は、二月十九日と書かれていた。



 ◇



 数年経って、この家には母子手帳が三冊あることを知った。一冊はわたし、二冊目は妹、三冊目はもうどこにもいない妹だ。一番目の妹がお母さんのお腹から流れたのは、わたしが小学二年生のときだということを知った。


 小さかった妹はすくすくと成長し、その代わりわたしはわたしでなくなった。いや、わたしなんて本当はどこにもいなかったのだろう。きっとずっと、あの魂を借りていただけだ。わたしにはもう、何も残っていない。今のわたしが覚えているのは、最後に見た妹の顔がひどく美しかったということだけだ。



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微熱 夜賀千速 @ChihayaYoruga39

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