答えの日
夢幻
第1話 はじまりの、その直後 ①
ベッドの上にいる。
氷海響子は死人の目でニュースを見ている。映っているのは戦場近くだという遠い異国の街だ。煙がそこここでたなびき、人々は瓦礫の中で悲壮な表情だ。子供を抱えて走る母親がいた。痩せ細った子供の腕はだらりと下がり、揺れるに任せている。その目には本当の死があった。母親は泣き叫ぶが、子供を救ってやれる者はいない。辺りの全員が似通った状況なのだ。その空をミサイルが飛び交う。殺しても殺しても飽き足らずにまだ殺す。何人死ねば満足するのか、少なくとも戦いを始めた者は、その戦場にはいない。
リモコンを握っていたことに気づき、チャンネルを切り替えると、洪水の街が映った。レポーターの声も濁流の音にかき消されそうだ。もう一週間も降り続く雨が、普段は風光明媚な観光地に襲い掛かり、濁流の底に沈めた。建物の一階はほぼ川の中に水没している。濁った水が道路だったはずのそこを流れていく。流れに押されて自動車が街灯に激突した。レポーターは、国の救援が遅いという市民の声を紹介した。
響子はチャンネルを替えた。次に映ったのは、海底火山が噴火する映像だった。テロップには百七十年ぶりだという説明文があった。そのあまりの規模に、南の島々は津波に襲われ、大量の噴煙のせいで航空機には欠航が相次いでいるとも書かれている。ため息を零してチャンネルを他に替えると、料理番組が映った。季節の野菜の工夫料理を紹介する料理研究家もアシスタントも満面の笑みを見せている。
「楽しそうで何より」
響子はテレビを消して身体を起こした。自分で自分の身体を抱きすくめ、確かめてみる。痛みはない。夢の中ではあれほど痛むのに――そう思うが、夢なのだから当たり前だと苦笑する。そして嘆息し、時計を見た。午前八時だ。バックライトが青なのは土曜を示している。
「最高の目覚めだわ」
こめかみを押さえて俯いた。自分が服を着たまま寝ていたことに初めて気づいた。
「あっぶね…。家だったらおばあちゃんに庭に引きずり出されてる」
苦笑してジーンズとパンツを一緒に脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。上のシャツを脱ぐと、自分が鏡に映る。両肩を抱くようにあるのはタトゥーではない。生まれながらにある、いわばアザだ。だが、調べたことはないが、正確にはアザでもない。それは左右対称で、巨大な手に握られた痕のように見える。手の先は三本に分かれ、それぞれに長い爪がある。爪は響子の胸元にまで伸びている。子供だった頃、身体測定で服を脱いだ時に周囲の視線に気づいた。兄弟姉妹のない響子が、自分と皆の身体が違うことを知った最初だ。クラスの誰一人にも自分と同じ紋様はない。誰の背にも響子にあるような黒い円などなかったのだ。
驚いた担任から響子の身体の異様を指摘された祖母の美笹は、不安げにする響子の前で平然と答えた。
「大丈夫です」
なにが大丈夫なのか響子には分からなかったが、父と母のない自分を誰よりも大切にしてくれる祖母の言う事なので、信じないはずが無い。人と違うというだけで気味悪そうに自分を見る教師を、響子も気味悪そうに見返した。
以来、紋様のことで誰かから何か言われても響子は意に介さない。大丈夫なのだから。学校でプール授業があった時も、響子は自分の紋様を隠しはしなかった。教員も生徒も誰もが見ない振りをした。申し訳ないなと思うこともあったが、むしろ響子には〈何故みんなは自分と他人の違いばかり気にするのだろう〉という思いがあった。成績も容姿も背の高さ低さも違いでは無いかとしか思えない。ただ、その違いが〈何故大丈夫なのか〉を祖母に尋ねることはしなかった。信じているから。
浴室で頭から湯を浴びた。無駄のない体のラインを湯が流れ落ちていく。それを半眼で見ていると夢の風景が思い出された。その夢は響子が七歳の誕生日を迎えた〈その日〉から不定期的にずっと見てきたものだ。
夢の中の響子は光の中に居る。目映い明かりが辺りすべてを照らしている。腕で目を覆うが、不思議なことにそうしていても眩しさは変わらない。その響子の前方に変化が生まれる。それは初め小さな点だ。点は眩しさの中でゆっくりと大きくなっていく。黒点はやがて視界のすべてを覆うほど巨大になり、一切が見えなくなる。その瞬間、誰かが呼ぶ声が聞こえる気がするが、覚えのない声だ。いつもそこで目は覚めた。奇妙なことに、その夢を見ている間中ずっと全身が痛むのだ。起きてまで残る痛みではない。ただ、得体の知れない〈もの悲しさ〉だけが毎回残っていた。
湯を止め、しばらく足下を見つめていたが頭を振ってバスルームを出た。湯が滴ることも気にしない。バスタオルを掴んで頭からかぶり、床を濡らしながら歩いた。テレビではまだ世界各地の災害の様子を報じている。
「最近多いね」
ベッドに腰を下ろして呟いた。
「アメリカ西海岸の大地震に南米の火山噴火……海底火山も爆発してそこら中で大洪水か」
西海岸の地震では、あまりの規模の大きさに大統領から国家非常事態の宣言まで発せられたほどだ。
「中国でも佐渡島くらいの広さの地滑りだったし、アイスランドでも大噴火って……なに、地球の終わり?北極と南極がどうしたとかニュースでも言ってたけど」
髪を拭く。中学時代、しきりと響子に絡んでくる男子生徒がいた。その生徒から〈おっかねえ入れ墨入れてるやつが女の子みたいに髪伸ばしてんじゃねえよ〉と言われてからずっとショートだ。気にしたわけではなく、そう言えばそうかも知れないと思ったからだが、その男子生徒は何故か分からないが、その後学校で見かけることがなくなった。
服を着て一応髪をとかし、中も確かめずにバッグを取ってドアに向かった。
「バイト、めんどくさ」
つぶやきを残し、外に出て鍵を掛けた。
答えの日 夢幻 @arueru1016
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