凍えた吸血鬼

村崎沙貴

凍えた吸血鬼

 幸い、ここは雪深い。深く垂れ込めた雲を見るに、明日になれば再び、全てが白に覆われた世界に戻るだろう。

 願わくば、その白の中で、暴かれることなく、地に還りますように。

 銀世界の只中で倒れ伏す小さな身体を一瞥する。肩口から滲み出た赤は未だ止まらずに、包帯からじわじわと漏れていた。

 清い一色の世界を汚す、異物。

 彼女のせいではない。だからこそ、雲が晴れればこの無様が日の下にさらされるというのは、あまりに哀れだと思った。

 ――そうだ。

 マントを脱いでバサリと掛ける。いとも簡単に、全身がもれなくその下に隠れた。

 よし、と踵を返し、再び進み始める。

 ズボリ。ズボリ。ズボリ。

 一歩を踏み出すごとに、膝まであるロングブーツの半ば程まで沈み込む。

 これではまた、すぐに体力の限界が来そうだ。今は力がみなぎっている状態だが、道程は果てしない。

 ……次にありつけるかどうか、わからないのだから。

 確かに、格別の味だった。師匠の言う通りだ。少しの興奮をおぼえている自分が心底疎ましい。

 そして、気づいてしまった。師匠の唱えていた理屈は、おそらく全て言い訳でしかない。

『我らは、種族としての誇りを捨ててはいけない』

 この言葉の真意が、ここまであっけなく、私欲に満ちたものだなど。

 実際に味わって、わかってしまった。あれは、もう一度、もう一度と、繰り返し欲してしまうのも無理はない。

 化け物だ。師匠は、欲に呑まれてしまった成れの果て。

 吐く息が白くなる。空気が冷たいのはわかるが、寒いとは感じない。やはり、僕もまた、化け物なのだ。

 歩いてきた、かつての道なき道を振り返って思う。こんな僕が、この世に跡を残して良いのだろうか、と。

 自分達と似た姿の種族に手を出すようになるくらいならば。これ以上、化け物の側に堕ちるくらいなら、一人の異端として教会に処分される方が良いのかもしれない。

 師匠の辿った結末を、とっくに潔く迎えていれば……


 不意に、脚に何かが当たる感触。

 置いてきたはずのマントが、いつの間にかすぐ傍に現れ、もっこりと盛り上がってうごめいていた。

 ――!?

 後ずさった拍子に、窪みに足を取られて尻餅をつく。

「まあ、大丈夫?」

 ドサリ、という音に反応して、マントの下からにゅっと顔が突き出てくる。

 白肌。色素の薄い目と髪。それは間違いなく、先刻は雪原に倒れていた少女だった。

「し、死んだはずじゃ、」

「勝手に殺さないでよね」

 困惑と安堵が混ざってうっかり呟いた言葉に、少女は頬を膨らます。

「でも、ありがとう。貴方のおかげで助かったの」

「は……?」

 真正面から笑顔を向けられ、見つめ返すことしかできない。

「だって、私の怪我を治療してくれたじゃない。そして、マントもくれた」

 これ結構あったかいのよ、と言いつつ、吹きつけてきた風に首を縮める。鼻の頭が赤い。きめ細かな柔肌は、凍えるような空気にあまり長く晒していれば弾けそうに見えた。

 内心の慌てを悟ってくれる訳もなく、少女は平然と語り続ける。

「私ね。旅をしていたの。でも、吹雪に巻かれてみんなとはぐれちゃって。おまけに、風で飛んできた石がぶつかって、肩を怪我したの」

 なぜ、掘り返す。そんな姿を見つけてしまったから、僕は。思い出すと、ぞっとする。

 何の望みもない、先を急ぐだけの、長い旅路の果て。鮮烈な赤色が目に入った途端に、飢えも相まって理性が飛んでしまった。

 居た堪れない気持ちで目を逸らすが、少女は吐息をひとつ出すだけだ。単に、照れたとでも思われているのだろうか。

「寒いし、どっちを向いても真っ白で、進む方向すらわからない。今思うと、体力の前に、気力が尽きてしまったのかもね」

 早くマントに潜ってしまえ。そう願った。彼女より薄着の自分は棚に上げて、凄く寒そうだ、と感じた。他人事のように。いや。彼女が寒さを感じているなら、その責任の一端は……

「どんどん身体から力が抜けてって。ああもうだめだ。そう思ったところに、貴方が来てくれた。だから、」

「違う」

 遂に耐えきれなくなり、遮ってしまう。

「僕は君からだけだ」

 少女はきょとんとした。本気でわかっていないらしい。

「もらった? 何を?」

 服のポケットというポケットをゴソゴソと探って、コテンと首を傾げてみせる。

「別に、何も盗まれてないわよ」

「そうじゃない!」

 頭を抱える。あまりに鈍い。

 だが、自分の行為を口に出すのは憚られた。おぞまし過ぎて、あまり思い出したくなかった。

「僕は、」

 人間じゃない。君とは違う、化け物だ。

 ……言えない。何かが、怖い。

 とはいえ、黙っているのも酷く嫌だった。嘘をついて、騙しているようで。

 いきなり。少女が近づいてくる。身体を包んでいたマントを広げて。

「――寄るな!」

 自分でも驚くような声が出た。弾かれたようにズザッと離れる。過剰な反応に、少女は目を丸くした。

「いきなりごめんなさい。寒そうだったから」

「い、いや、」

 気分を害したかと慌てる。

「寒くは、ない。平気だ」

 弁解しようとしたが、それしか言えなかった。

「そんな格好で寒くない訳ないじゃない」

 案の定、痩せ我慢と判断されてしまったらしい。更に詰め寄られ、手をかざしてそれを拒んだ。

「僕に、近づかない方が良いんだ。君が」

「そんなことないわよ。貴方は私を助けてくれた、優しい人だもの」

「……違う」

「何も違わないわよ」

「違うんだ!!」

 あまりの剣幕だったからだろう。少女は少し怯えたように身体を反らす。

 ……やってしまった。真実を告げる勇気もないくせに。どうしてわかってくれないんだ、という一方的な苛立ちを爆発させてしまうなど。

 言うべきだ。

 ――っ!

 磔にされ、心臓に杭を打ち込まれる像がよぎる。

 反射的に身を縮め、うずくまる。震えが収まらない。

「大丈夫!?」

 強引に抱き寄せられ、我に返った。

「やっぱり寒いんじゃない!」

 掴まれた手を振り払おうとするが、上手くできない。じんわりと仄かな温かさが、指先をじわじわと解いてゆく。身体中から、力みが抜けてゆく。

「やめて、くれ……大丈夫、だから、」

「その嘘、聞き飽きたわ。往生際が悪いわよ」

 弱々しい抵抗も、ばっさり切り捨てられた。

「……や、君からこれ以上奪うのは」

「あら、知らないの?」

 少女はいたずらっぽく、とっておきの秘密を明かすように笑った。

「温もりは、分け合うものよ」

 雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだ。天界から神が手を差し伸べているような荘厳さ。罪深き身にとっては、逃げ出したくなるものでしかなかった。

「……そんなこと、誰も教えてくれなかった」

「……そう」

 どうか。もはや、何を願って良いのかすらもわからない。少なくとも今は、この温もりが心地よくて、愛しい。そんな気がする。

 これも、悪事になるのだろうか。彼女の優しさも、あののせいではなかろうか。

 師匠は、多くの女性を「陶酔」させていた。僕達が手を出してしまった者達は皆、その術中に置かれてしまうらしい。命を奪う程の量は必要ない。飢えるたびに身を捧げてくれる「陶酔」した人間さえ居れば。

 ただ、それすらも嫌だった。喰らうことにも死ぬことにも怖気づいて、代わりに動物の生肉で生き延びた。吐き気をもよおす味も、慣れればなんてことはなかった。

 ……僕はただ、人間と共に生きたかった。

「貴方、本当に冷えてるわ。焚き火ができると良いのだけど」

「それは、いやだ……」

「貴方は、拒んでばっかりね」

「……故郷では、毎日沢山の人が、火の中で死んでいった」

「あ……」

 気まずそうな顔をされてしまった。申し訳なさが込み上げてくる。

 身じろぎすると。身体を包む温もりが、更に強くなる。

「辛かったのね」

 首筋に、少しひんやりとしたものが落ちてきた。驚いて、身体を離してしまった。まじまじと見つめる。

「なぜ、泣く」

「だって!」

 不思議な気分だった。泣き顔とは、こんなにも綺麗だっただろうか。酷い悲劇にすり潰される人々の、最期の叫びが頭を巡る。どれも、哀れなまでに醜い。

 対して彼女は、内から光を発するようだった。いつの間にか出た太陽の光を受け、どこまでも清く白く、でも背景に溶けるでもない確かな存在感。

 泣く資格すらない身の悲しみを、肩代わりしてくれているようだった。

 気がつけば、その細い身体が腕の中に収まっていた。

「ふふっ。ありがとう」

 あったかい、と。未だ涙を流しながら、少女は嬉しそうにすり寄ってくる。

 これも、「陶酔」だろうか。いいや。今は温もりを分け合っているだけだ。一方的な関係を結んでいる訳ではない。言い訳がましく、自分に言い聞かせる。

 つむじ風で、煌めきが宙を踊る。

「ねえ。一緒に行かない?」

 いきなり、少女が提案した。

「もうちょっと、一緒に居たいわ」

 貴方に見せたい景色、沢山有るの。そうやって、手を引いた。

 そして、今までの旅路を語り聞かせてくれる。

 物心つく前から、気がつけば旅をしていたらしい。おそらく、生まれた瞬間から、旅は始まっていたのだろう、と。

 目的地はない。ただ、色々な場所で、色々なものを見て、色々な人達と触れ合って。

「ただ、その都度、必要なものを求めて歩くだけ」

 そんな表現に、虚しさは欠片も含まれていなかった。

「余所者だって冷たくされたり、危険な道を通らなきゃいけなかったり。色々あったわ」

 でも、と。愛しむような、とろりとした瞳で遠くに想いを馳せている。

「旅先で、綺麗なものを見たりすると、嫌なことも全部吹っ飛んじゃうの」

 それだけのために、先へ、先へ。果てしなくても、どこかで死ぬだけでも。

 そんな生き方そのものが、

「私の、生きる意味よ」

 そう言い切れるくらいには幸せだと、それが嘘でないことは一目瞭然だった。


「――イノ、アイノ!」

 不意に、遠くから声が近づいてきた。その方向に目を凝らすと、数人の大人が手を振っている。

「みんな!」

 少女は、パッと駆け出した。

 そして、先頭の女性に飛びつく。

「心配したのよ」

 先程までの包み込むような大人っぽさは消え、無邪気な子供がそこに居た。頭を撫でられて、すっかり甘えきっている。

「まあ、怪我してるじゃない!」

「大丈夫だったわ」

 少女は、立ち尽くすこちらを振り向いた。集団の視線が一斉に突き刺さる。

「この人に、助けてもらったの!」

「まあ……」

 大人達は、困惑しているようだった。旅先で様々なものを見てきた彼らには、素性が見破られてしまったのかもしれない。

「ど、どうも……」

 とりあえず、挨拶してみる。返事はない。

「……お礼がしたいわ」

「お、お構いなく!」

 踵を返して駆け出した。が、足が沈み込んでたたらを踏む。

 もたもたしているうちに、追いつかれてしまった。

「本当にありがとう。えっと……」

 そういえば、名前を聞いてなかったわね。そう言う顔が照れているように見えるのは、寒さで赤らんでいるからだろう。

「オーバン」

 名乗るだけなのに、声が裏返りそうになってしまう。この可愛らしい顔を前にすると、やたらソワソワする。

「オーバン、ありがとう!」

 少女は、大人達から預かったものを突き出した。凍った、生肉。長老と思しき老人が、こんなものしかなくてすまんと、したり顔で笑っている。……明らかに、わかってやっている。

「……君は、アイノだったか。こちらこそ、ありがとう」

 僕は、大切なものを貰ったよ。そんなキザな台詞は言えない。どう誤解されるか、わかったものではない。

 礼だけ素直に受け取って、今度こそ彼らから離れる方向に歩き出す。ほっとした気配が伝わってきた。それはそうだろう。行方知れずになった娘が変な男を連れてきたら、警戒するのは当たり前だ。そんな愛を、ほほ笑ましく思った。寂しさも羨ましさもない。むしろ、愉快なまであった。


 手頃な岩を見つけ、腰掛けて、貰った肉を食す。

 不味い。猛烈に不味い。を知ってしまったせいで、尚更そう感じた。

 あのぞっとする極上が幸せかどうかは、今でもよくわからないが。

 豚を啜ってでも、藪蚊を噛み潰してでも、もう少しだけ生き延びてみたい。そんな気がしていた。

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凍えた吸血鬼 村崎沙貴 @murasakisaki

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