クリスマスイブ

紫陽花 雨希

クリスマスイブ

 あれは何年前のクリスマスのことだっただろうか。

 校舎の玄関に飾られた、イエス・キリストの生誕の場面を表した人形飾りを、私とルカはしゃがみ込んで眺めていた。

 私たちの制服は、学校を運営する修道会のシスターと同じ真っ黒なジャンパースカートで、丈が長いためしゃがむと裾が床についてしまう。けれどルカはこの一年ですごく背が伸びたせいで、膝小僧があらわになっていた。

「寒くない?」

 私の問いに、ルカは小さく首を横に振った。人形飾りの端っこにあった羊の置物に手を伸ばそうとし、けれど触ることなくだらりと下ろす。うつろな目をして、乾燥して血の滲んだ膝を抱える。

「ねえ、カナエちゃんはクリスマスに歌う聖歌で何が一番好き?」

「もろびとこぞりて、かな」

「ルカ、ミサでそれ歌うよ」

「楽しみだなぁ」

 ルカの声はよく通る。それ故に和を乱すとして、聖歌隊の他のメンバーによく思われていないようだった。ひどい陰口は部外者である私にまで聞こえてくるが、ルカは気付いているのかいないのか、飄々としている。そして、いつでも全力で声を張るのだ。

 大人しくしていれぱ良いのに、と思うことがある。出る杭だから打たれてしまう。鳴かなければ射たれない。

 私のように、教室の隅で息をひそめていれば良い。友だちなんて作らず、必要最低限の声しか出さず、先生やその場の空気に従って。中学校の三年間なんて、長い人生のほんの少しの時間でしかない。やり過ごせさえすれば、その先にはきっと楽しい高校生活が待っている。こんな地味なスカートじゃなくて、セーラー服を着て、恋人を作って、東京の街を歩くのだ。

「カナエちゃんは、ハンドベル部のみんなで演奏するんでしょ? ルカも楽しみ!」

「ありがと、ルカ。ハンドベル部の、年に一回の晴れ舞台だからな」

 とは言え、私はどの曲でもほとんど出番のないベルしか持たないのだけれど。

「ミサが終わったら、一緒に帰ろ。クリスマスマーケット行きたい」

「先生に寄り道がバレないように私服のコート持ってくるか」

「約束ね」

 ルカが小指を差し出してくる。私は苦笑しながら、小指をからめた。


 黒いカーテンがひかれた講堂の中は真夜中のように暗く、ろうそくの灯された舞台の上だけがぼんやりとしたオレンジ色に包まれている。聖歌集の最後のページにあるミサの式次第を、他の参加者たちと一緒に読み上げていた私は、ふと口を閉じて舞台を見上げた。階段状になった足場の上に、聖歌隊が並んでいる。少女たちは制服の上に白いガウンを羽織り、胸の所で金色のリボンを結んでいた。

 さざめく波のような祈りの声が途切れ、グランドピアノが鳴り始めた。少女たちが脚を広げ、歌う姿勢をとる。

 高らかに、ルカの声が響いた。彼女の声はろうそくを優しく揺らし、人々の頭の上を吹き渡って、私の心に真っ直ぐに届く。

 胸が苦しい。なぜだろう。私は泣き出しそうになっている。

 どうしてそんなに、いつも全力なんだ。叩かれても傷付けられてもめげずに、歌えるんだ。

 日々をただやり過ごすことしかできない自分が、とても惨めだった。


 生徒たちが退場し、冬の午後の陽射しに満ちた講堂の隅で、私は壁にもたれかかっていた。片付けを終えたルカが、ガウンを羽織ったまま駆け寄って来る。

「カナエちゃん! ルカ、頑張ったよ」

「うん、聞いてた」

 幸せそうに頬を上気させたルカを見ていると、また胸がひどく苦しくなる。私は手を伸ばした。きょとんとするルカ。彼女の胸の上で結ばれた金のリボンを、そっとほどく。

「これ、ちょうだい」

「ん、良いけど……」

 不思議そうに首を傾げる彼女を、抱きしめたくなった。けれど私には、できなかった。


 私とルカは制服をすっぽり隠すコートを羽織り、駅前のクリスマスマーケットへと向かった。夕暮れの空。私たちが手を繋いで街へと踏み入ったとき、街路樹に一斉にイルミネーションが灯った。

「びっくりした!」

「きれいだねー」

 雑貨の屋台で、ルカは電池式でくねくね動く雪だるまのおもちゃに釘付けになっていた。

「ルカ、これ欲しい」

「買えば良いじゃん」

「お金足りない」

「水筒あるのに、毎日自動販売機でジュース買ってるからだよ」

 私はため息をついて、屋台の上を見回す。ふ、と目に留まったのはスノードームだった。オレンジ色の光に包まれてキラキラ輝く雪が、小さな小屋の上に舞っている。

「私、これ欲しい」

「買いなよ」

「お金足りない。昨日漫画の単行本買っちゃった」

 私たちは顔を見合わせて、やれやれと笑い合った。


 その夜、家に帰ると部屋の電気がついていなかった。誰もいないリビングのテーブルの上に、切り分けられたケーキが潰れた状態でのっていた。

 呆然とする私の携帯電話が、「ゆーがっとめーる」と鳴く。助けを求めるように、開く。しかし、届いていたのは、父の会社が倒産したことを知らせる兄からのメールだった。

 高校から上京するという目標は潰えた。将来咲くためのつぼみであったはずの私の中学三年間は、ただただ暗い日々として立ち枯れた。 


 あれからどれだけの日々が過ぎただろう。勉強だけはよくできた私は高校卒業後すぐに公務員試験を受け、トップの成績で入ることができた。給料はあまり良くない。けれど、何も高望みせず、希望なんて持たず、ただ日々をやり過ごすことが癖になっている私には十分だ。

 定時で上がり、通勤路の途中にあるスーパーに寄る。お惣菜コーナーにオードブルやチキンが並んでいるのを見て、今日がクリスマスイブであることを思い出す。

 季節なんて全く関係のない生活をしている私だけれど、割引のシールが貼られていたのでチキンを買った。最近は予約制なのか、ケーキはあまり並んでいなかった。糖尿病予備軍なので要らないか。絶望の豚。ぜっとーん……

 安アパートのきしむ階段を上り、自分の部屋の扉の前に何か箱が置かれていることに気付く。宅配業者が置いていったようだ。ラベルを見て首を傾げる。密林から私が注文したことになっていた。恐らく、私の住所を知っている誰かが、私を宛先にして注文してくれたのだろう。

 冷え冷えとした部屋に灯りをともし、ジャケットを脱ぎ捨ててこたつをつける。しばらく手を温めてから、箱を開けた。

「なんじゃこれ」

 スイッチを入れるとくねくね動く雪だるまのおもちゃと、小さなスノードームだった。

 呆れていると、玄関のインターホンが鳴った。

「カナエちゃん、メリークリスマス!」

「ルカ、これ……」

「懐かしいでしょ!」

 上着を着たまま身を寄せてきたルカの体に腕を回し、ジャンパーの首元のリボンをそっとほどいた。

 希望なんてなくても、彼女がここにいるだけで、私が生きている意味は確かにあるのだ。

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