第6話 大団円

「鏡というのは、確かに不思議な発想で成り立っている」

 といえる。

 合わせ鏡の発想もそうであるが、それ以上に不思議なものとして、

「上下に、なぜ反転しないのか?」

 ということである。

 これを、普通に、

「当たり前のこと」

 ということで、意識している人はなかなかいないだろう。

 そして、人から、問題提起を受けて、初めて、

「ああ、そうだ。確かにおかしい」

 と感じるのではないだろうか?

 これは、

「石ころの発想」

 というものと似ているかも知れない。

 石ころのように、目の前にあっても、まったく意識することもない。

 このような、

「上下が反転しない」

 という発想も、どのように考えればいいかということであり、

「そもそも、石ころのように、考えないでもいいこと」

 というものを、無意識に判断しているということであれば、

「その発想に理屈をつけるということは無理なのではないか?」

 と考えられるだろう。

 だが、いくつか、考えられることを論議しているのだろうが、

「これと言った決定的な理屈があるわけではなく、しかも、それをそれぞれに証明できるかどうか?」

 ということになれば難しいだろう。

 一つの考え方ということで、

「本当は。そこに鏡があるから分からないということで、後ろを向いている自分がそこに隠れていると考えれば、鏡の向こうにいる自分が見ると、左右は反対になるが、上下は反対になるわけではない」

 ということだ。

 これは、一種の

「合わせ鏡」

 というものを、

「交互に見ている」

 という発想になるのではないだろうか?

 それを考えると、

「合わせ鏡」

 というのは、

「鏡の反転が、左右の反転だけで、上下ではならない」

 ということの証明として使えるのではないか?

 ということである。

 対という発想も、そこからくるものだと考えると、うまく発想できるものではないといえるのではないだろうか?

 だから、最初に書いたように、

「肉体的に、表から見える部分は、二つあって、それが対になっている」

 ということに繋がっていくのではないか?

 最初の章では、

「顔の部分」

 と、

「内臓」

 というものの比較であったが、身体にだって、

「左右対称のものがある」

 ということである。

 それが、

「手というものであり、足というものである」

 それぞれに、

「二つなければいけない」

 という意味では、顔とは違う。

 顔の場合は、五感というものでの、

「視覚」

「聴覚」

「嗅覚」

「味覚」

 というものを感じるためのものであるが、

「触覚」

 という意味では、

「身体全体」

 がその対象になっているわけであり、ある意味、

「その触覚が、他の4つの感覚に匹敵するだけの役割をしている」

 という意味で、

「手足というのは、それだけの役割を持っている」

 ということである。

 身体の中にある

「対になっているもの」

 それが、

「どれほど大切なものであるか?」

 それが、今回のお話ということになるのであった。

「もし、人間に対という概念がなかったら」

 と考えると、

「知性という意味で、人間は、最下等動物になってしまうかも知れない」


                 (  完  )

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対になるもの(考) 森本 晃次 @kakku

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