第5話 凸凹の関係
人類においての男女の関係というのは、
「種の保存」
ということで、お互いに、
「男女」
というものだけで分類できるというものであった。
もちろん、
「民族の違い」
というのは、その自然環境から変わってきているとすれば、それも必然のことであろう。
しかし、それが、聖書にある通り、
「バベルの塔」
の話の中で出てきた、
「言葉を通じなくして、全世界に、散っていった」
ということが、民族の始まりだということになると、それは、
「実に皮肉なことだ」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「バベルの塔」
というものが、聖書という物語の、
「節目になっている」
といってもいいかも知れない。
聖書は、その話、それぞれに、言いたいことがいくつも含まれているようだが、このお話の原点というのがあるとすれば、それが、
「バベルの塔」
の話だといってもいいのではないだろうか?
時代は、進んでいっても、
「男女差別」
というのはなくならない。
ただ。それが、本当に差別だったのかどうか、何ともいえない。
歴史において、
「絶対に男でないとできない」
あるいは、
「女性は、種の保存という意味を考えてなのか、無意識からなのか、守らなければいけない」
という存在だったとすれば、今までの歴史が、
「間違っていた」
といえるだろうか。
そもそも、
「歴史というもののどこに正解があるというのか?」
という考えもできるというもので、
確かに、時代時代で、
「歴史が答えを出してくれる」
と言われたりしているが、果たしてそうなのだろうか?
例えば、
「戦国時代の、群雄割拠の頃に行われていた、今では信じられないような風習であったり、慣習が、間違っていたのか正しいことなのか?」
というのを誰が判断するというのだろう?
歴史を研究するということで、
「考古学の発掘を中心にしている学者」
あるいは、過去の文献などを解読することによって、原始時代から新しい時代を読み解くという歴史の先生と呼ばれる人が、
「その答えを出せる」
というのだろうか?
今は、発掘などもどんどん進み、今まで言われてきたようなことが、
「実は違っていたのではないか?」
というのは、ここ十数年くらいの間に相当な数出てきたりしたものだった。
特に、
「肖像画に描かれている人で、実は言われていた人物ではない」
というのは、どんどん出てきている。
また、
「昔から言われてきた、謀反人であったり、裏切者」
ということでも、
「悪人」
というレッテルも、どんどん剥げていって、
「汚名返上」
というものが行われているのであった。
特に、過去の文献などというのは、その時代時代の支配者によって、書き換えられているということがある。
徳川時代になれば、
「徳川に都合のいいように、歴史書が書き換えられるというのは当たり前のことであった」
というのは、
「そうしておかないと、支配するにおいて、誰も従わない」
ということでは困るわけで、
「神話であってもいいから、まるで支配者が神であるかのように信じ込ませることで、庶民を従わせるということになる」
というわけである。
そう考えると、
「神という存在を、でっちあげ、支配者に都合のいいように解釈させる書物」
があってもいいということだ。
しかし、聖書であったり、神話というものは、必ずしも支配階級によって作られたものではなく、どちらかというと、
「宗教が絡んでいる」
というものが多い。
それは、
「宗教画政治に絡んでいた」
ということの証明かも知れない。
しかし、中世において、
「キリスト教などが、侵略に使われる」
という黒歴史などがあることや、
「宗教を使えば、人を支配することができる」
などという伝説が生まれたことで、今の時代、
「新興宗教」
であったり、
「カルト宗教」
などというものが、どれほど世の中に害を与えているかと考えると、ある意味、
「神の世界に導く」
という従来の宗教と、
「詐欺やテロ集団となっている」
というカルトな新興宗教とが、
「対になっている」
ともいえるのではないだろうか?
これこそ、
「凹凸の関係」
といってもいいかも知れない。
その場合の表現とすれば、
「でこぼこの関係」
というものであり、人間の男女などという関係は、
「おうとつの関係」
ということで、実際には、
「かなりの違いというものが、そこには存在しているのかも知れない」
ということになるであろう。
この、
「凸凹の関係」
として、
「男女の関係」
が考えられるが、これを、
「おうとつの関係」
ということであれば、
「古事記」
というものの中にあった、
「凹凸の関係」
のような描写で、それが、まるで、
「男女の営み」
を思わせるものがあるが、それは、まるで錠前のような発想からの表現ではないだろうか?
というのは、
「男にははめ込むものがあり、女にはそれを受け止めるものがある」
ということで、その二つを合わせると、
「ピッタリと重なり合う」
ということを示している。
鍵だって、びったりと合わないと、開かないではないか?
それと同じ発想である。
そこから、
「種の保存」
というものの基礎ができるわけで、
「人類をはじめとする高等動物の発展」
ということになるだろう。
そう考えると、
「人類の繁栄」
というものが、どこかで限界を迎えるということになれば、今度は、
「他の高等動物が、人間にとって代わる」
ということになるかも知れない。
考えてみれば、
「地球上で人類が生まれてくるまでに、他の生物が存在していたのである」
それが、恐竜であったりするわけで、その恐竜が、
「地上の王者」
だったのである。
だとすると、
「恐竜は誰が作ったのか?」
ということになる。
「これも神が作った」
ということなのだろうか?
だとすれば、氷河期によって、恐竜が滅亡したというのも、ただの偶然ではないのかも知れない。
そこに、神の考えが潜んでいて、
「恐竜の時代にも、そろそろ限界がある」
ということで、氷河期を使って。滅ぼしたのかも知れない。
何といっても、
「聖書」
というものの中で、一度神は、
「ノアの箱舟」
の中において、一度は、
「人類を滅ぼした」
ということになっている。
恐竜ほどでかいものは、
「氷河期というものでしか滅ぼせないが、人間くらいであれば、洪水で何とかなる」
ということなのだろうか?
人類が、滅んでしまう理由としては、いろいろあるのかも知れない。
しかし、
「一度使った洪水を、もう一度使うのかどうか?」
それは何ともいえないだろう。
世紀末に話題になった、
「ノストラダムスの大予言」
というもので、いわゆる、
「1999、7の月に、恐怖の大王が降ってくる」
ということで、
「人類なのか、地球全体なのかが滅びる」
と言われているが、それが実現しなかった。
それを、
「解釈が違っているのではないか?」:
ということで、もう一度、年月の逆算を考えているが、その人たちは、間違いなく、
「いずれ人類は滅亡する」
と考えているだろう。
ただ、
「それが地球規模なのか?」
それとも、
「人類だけの問題なのか?」
ということは、誰に分かるということなのだろうか?
「凹凸の関係」
というものの中で、いわゆる、
「レンズの関係」
というものが、一番しっくりくる発想ではないだろうか?
「凹レンズ」
「凸レンズ」
というものがあり、これが、メガネであったり、虫眼鏡などに、レンズとして使われていることで、生活に密着したものだったりする。
レンズという発想だけではなく、もう一つ考えられるものとして、
「鏡というものがある」
考え方によっては、
「鏡とレンズ」
というもので、それぞれに、
「対になっているもの」
と考えてもいいのではないだろうか?
というのも、
「レンズというものは、光を通すことで、屈折を生む」
というもので。
「鏡というのは、同じ効力を持ったものを、光を通さないで反射させることで、屈折ではなく、自分を写す」
というものとの違いだと考えると、
「対になる」
といえるのではないだろうか?
「対になるというものは、あくまでも、どこかまでは、同じ性質のものであり、それが途中で分かれることで、少しずつ離れていくことになるのだが、その距離が一気に離れたことで、対になっている」
と、考えさせるものではないだろうか?
そう考えると、
「対になっているものは、元々から対だったわけではなく、対になることで、いかに、自分たちに役立たせるか?」
というために、できたものではないだろうか?
そう考えりと、
「これが果たして神から与えられたものではない」
といえるかも知れない。
もっとも、
「男女のような、種の保存には不可欠なものは与えられたであろうが、それ以外は、その知能によって考えられたもの」
ということで、
「人間にしかないもの」
という対があるとすれば、それは、
「人間がオリジナルで作った」
ということになるだろう。
それを考えると、
「人間は、神から独立して、自分で成長してきた」
ということになるだろう。
そうなると、
「神というのは、人間を創造するだけの存在」
ということになり、
「人間を滅ぼすなどということはできない」
と考えると、
「神が人間を救ってくれる」
という発想は間違いであり。人間のある意味、傲慢さなのか、あるいは、
「救われたいということでの、依頼心からくるものなのか?」
ということで、
「宗教というものは、どこまで信じていいものなのか?」
ということになる。
カルト宗教が、
「人間の弱みを利用して、自分たちの利益を得ようと考えているのであれば、悪い神という存在は、人間の中に潜んでいるものなのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「神様というものがどういうものなのか?」
ということを考えると、
「人間にとって、いい存在として考えることができなければ、その時の支配者によって、いかようにも、操られる」
ということで、
「洗脳された国家」
ということになり、それが、
「独裁国家」
というものを生むことになる。
しかし、歴史には、そんな独裁国家がたくさんあったが、実際には、それが、
「洗脳によるもの」
ということではなく、
「強い政府を国民が求めた」
ということで、その強さを元首が宣伝しないといけないということで、出来上がった独裁国家というのが、
「ナチス」
だったりするのだ。
これは、最初から、
「宗教というものに裏付けられた国家」
ということではなかったので、
「元首が、国民を扇動する」
ということしかできなかった。
だから、扇動するということに長けたヒトラーが、国を一つにまとめただけのことであって、それは、
「宗教による裏付け」
というものがなかったからだろう。
だから、逆に戦勝国からすれば、
「国家を一人の人間が掌握し、洗脳し、扇動した」
ということで、
「独裁国家にして、亡国へと追いやったヒトラーは、極悪だ」
と言われるかも知れないが、実際にはどうであろうか?
確かに、
「大量虐殺」
ということで、
「ホロコースト」
などという、人道に外れたことをやったと言われるかも知れないが、
「戦争というそのものが、大量虐殺というものだ」
という事実があるにも関わらず、ナチスのみを悪者にしたのは、
「勝者の理論」
といってもいいかも知れない。
だから、日本でも、
「極東国際軍事裁判」
ということで、
「勝者が敗者を裁く」
ということになったのだ。
これは、本来であれば、おかしなことであり、第三国が、国家を裁くのであれば、分かるが、
「人間を裁く」
ということがあっていいのだろうか?
確かに昔の日本の戦国時代などでは、
「敗戦の将」
というのは、
「責任を取って、切腹」
というのが当たり前だった。
実際に、敗戦時に、自害した人もたくさんいた。
それがどこまでが、正義なのか、それは分からない。
これも、
「永遠に答えが出るわけのない」
という、
「歴史が出してくれるはずの答え」
ということになるのだろうか?
鏡というものも。一つの、
「対になるもの」
ということで考えると、
「合わせ鏡」
というものが考えられる。
この合わせ鏡というものは、
「人を真ん中に置いて、その前後に、鏡を置く」
ということから始まる。
「その鏡には、目の前に写っているものとして、自分が写っているのは当たり前で、その後ろに、鏡が写っている。その鏡にも写っているものがあるわけで、それが、背中を向けている自分というわけだ」
そして、
「その向こうには、また鏡があって……」
ということで、鏡は、永遠に続いていくものであり、それが無限かどうかということで、また考え方が変わっていく。
それが、
「合わせ鏡」
という発想である。
というのも、合わせ鏡というのは、普通の鏡というのが、発想の基本になっているわけで、鏡が途中にあって、また同じ場所を写しているということであり、
「そこに映っているものの距離は変わらない」
ということになるであろう。
要するに、
「距離が遠くなっていくにしたがって、どんどん小さくなっていく」
ということであり、それは逆に、
「実際には小さくなっているわけではなく、遠くなっているだけのことだ」
といえるであろう。
この発想が、
「限りなくゼロに近いもの」
ということになるわけで、これが数式における、
「整数から整数を割る場合に、何回やっても、ゼロになることはない」
ということである。
そして、そのことが、逆に、
「ゼロになることのない限りなくゼロに近いということで、そのものが存在している以上、合わせ鏡が映し出す範囲は、永遠だ」
といえるのではないかということであった。
要するに、鏡というのは、
「そこに反射して映っているというだけで、錯覚を起こしても分からないもの」
という発想になるのではないか?
ということであった。
それが、
「鏡の中でも不思議な発想」
ということで考えられるものとして、
「左右は反転して見えるが、上下は反転しない」
というものであった。
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