第4話 生命の対

 対になるものとして、

「凹凸の関係」

 というのも、一つ考えられるのではないだろうか?

 少し、卑猥なところもあるかも知れないが、これは、人類、いや、動物にとっての、

「種の保存」

 ということで大切なこと、

 そして、

「避けては通れない」

 という問題である。

 ここで、対になるものんお代表として、

「男と女」

 という関係があり、それが、

「種の保存」

 というものを著しているのだ。

 男女というのは、お互いにまったく違うものである。

 これは、同じ男同士で、

「年齢が天と地ほど違う」

 という場合と、

「同じ年であっても、男女の違い」

 という場合とでは、どちらの方が距離があるというのか、

 その質問をされた時、

「次元が違う」

 と答えるのではないだろうか?

「次元が違う」

 という言い方をそれば、ごまかせると言えばいいのか、確かに、難しい問題ではあるが、なるほど、

「他に答えようがない」

 といってもいいかも知れない。

「じゃあ、次元が違うというその次元というのは、どういう発想からなのだろうか?」

 ということで、

「一次元、二次元」

 という発想での次元ということであろうか?

 それとも、

「今では、ある程度解明されている三次元という世界と、概念でしかない四次元の世界。つまりは、時間軸という概念を付け加えて考えた時の距離感だ」

 ということになれば、その距離は、想像がつかないものだろう。

 もちろん、分かっていると考えられる、

「一次元の二次元の差」

 であったり、

「二次元と三次元の差」

 というものは、それぞれの概念は分かっているが、

「では、その距離感については、本当に分かっているのか?」

 と聞かれると、

「分かるはずがない」

 としか、答えられないのではないだろうか?

 それを考えると、

「次元が違う」

 というのは、

「答えられないこと」

 あるいは、文字通りの、

「比較にならない」

 というようなことを思い浮かべた時に出てくる発想なのではないだろうか?

 それを考えると、

「男女の差」

 というのは、

「自分は、男か女でしかないので、異性のことになると、分かるわけはない」

 といえるだろう。

 だから、普段からその差を考えているはずなのに、意識しないようになっているのかも知れない。

 それが、一種の、

「石ころのような感覚」

 といってもいいのではないだろうか?

 石ころというのは、河原であったり、そのまわりに見えているものであったりする、すべてのものを、

「その距離感」

 であったり、

「石ころそのもの」

 を見ている人間に意識させないという効力を持っているのだろう。

 それは、一つ一つが違っているものなのにも関わらず、最初から意識していないと、見えているものが、その違いを感じさせない思いから、さらには、

「そこに存在しているはずなのに、意識させない」

 ということで、

「そこにあって当たり前というものを、いちいち意識しない」

 という感覚にさせるのだ。

 これは、

「フレーム問題」

 というものに、

「微妙にかかわっているのではないか?」

 と考えられるのであった。

「フレーム問題」

 というのは、ロボット開発などの問題で言われることであるが、段階を追って考えると説明しやすい。

 まず、

「時系列で考える時、次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 ということが考えられるであろう。

 何かをする時、それまでに、いくつもの考えをもって、目標であったり、命令は達成されるということになる。

 たとえば、

「洞窟の中から箱を取ってこい」

 という命令を受けると、まず、

「洞窟に入る」

 というところから始まり、中を進んでいって、箱をもって。それを表に運び出す」

 というだけの段階を踏むことになるだろう。

 洞窟に入る時、広がっている無限の可能性の中で、考えられることだけを考え、

「危険がない」

 と判断すると、次のステップに入る。

 人間の場合は、それができるのだ。

 しかし、

「人工知能を取り付けたロボットであれば、どうだろう?」

 どんなに人間よりも計算速度が速く、発想を処理することができるとしても、その処理する可能性が、

「無限にある」

 ということであるから、いくら最高速で計算したとしても、計算が終わることはない。

 だとすると、

「無限にある可能性」

 というものを、少しずつ分解し、

「考えられることだけを計算の対象にできるように、枠に当てはめればいい」

 ということになる。

 だが、いかに分割しようとも、

「無限からは何で割っても、無限しか出てこない」

 ということで、

「結局、人工知能には処理ができない」

 ということになる。

 だから、

「ロボットは、結局なにもできずに、まったく動くことができない」

 ということになるのだ。

 それが、

「ロボット開発のフレーム問題」

 というものだ。

 しかし、人間には、それを理解することができる。しかも、

「無意識のうちに判断することができ、簡単に、中から箱をもってくることになるだろう」

 ということである。

 だったら、

「人工知能」

 は人間が作ったのに、フレーム問題を解決できないものしかできない。

 ということで、

「ロボットは、頭脳という意味でも、人間に近づくことすらできない」

 ということになる。

 つまり、

「人間が、人間と同じ頭脳を持ったものを作るということは、タブーだ」

 ということになるのではないか?

 それは、

「人間を作ったもの」

 という発想に似ているだろう。

 今までのいろいろな発想から考えれば、

「人間を作ったのは、神だ」

 ということになる。

 人間は、自分たちが、最高の生物だと思っているだろう。だから、神という存在を崇めながらも、

「神に近づいて、神を追い越そう」

 と考える輩も出てくるということになるだろう。

「そうなると、どうなるか?」

 その戒めとして考えられたのが、

「バベルの塔」

 という発想であった。

 あれは、

「旧約聖書の中に出てくる。伝説の塔」

 のことであるが、

 バビロニアの王であった、

「ニムロデ王」

 というのが、自分の権威を示そうと、天を衝くような、でかい建築物を建てようと考えた。

「権威を示す」

 という意味では、

「エジプトのピラミッド」

「日本であれば、巨大古墳」

 などと言ったものが古代と言われる時代に建てられている。

 これは、いみじくも、

「陵墓」

 という意味で、

「目的が同じ」

 ということで、興味深いことであるが、

「バベルの塔」

 は明らかに、

「天に対しての挑戦」

 であり、

「神への挑戦」

 といってもいいだろう。

 しかも、

「天に向かって矢を射る」

 という行為をしたことで、明らかに、

「神への冒涜」

 ということで、塔は神の怒りにふれ、壊された。

 しかも、その時にいた人民は、神から、

「言葉が通じない」

 という戒めを受け。王を見捨てて、

「全世界に散り散りになっていった」

 ということである。

 それだけ、

「神に近づく」

 ということはおろか、

「神を冒涜する」

 など考えられない暴挙をしたことは、

「人間を作った神からすれば、許しがたいことだった」

 ということに違いない。

 神は聖書の中で、何度となく、

「人類を滅ぼす」

 というようなことをしてきた。

 その一つに、

「ノアの箱舟」

 という話があった。

 これは、

「神が人間を滅ぼして、地上を浄化する」

 と考えたからであろう。

 人間は、それだけ、

「神が導こうとした形とは別の形に変わっていった」

 ということであろう。

 しかし、それでも、

「ニムロデ王」

 のような、傲慢な人間が出てきたということで、

「神の逆鱗に触れた」

 ということであろうが、それでも、神は人間を本当に滅ぼすということはなく、今に至っているわけである。

 それを、

「神の御加護」

 と考えるか、それとも、

「人間は放っておいても、自分たちで自分たちを滅亡させるものを作る」

 と考えているのか、そういう意味で、

「自然現象であったり、可能性」

 というものは、無限に広がっているものだが、

「人間に限らず、生命の存在しているものには、必ず限界がある」

 ともいえるだろう。

 それが、寿命であり、各動物に、それぞれ決まっているものだといえるだろう。

 人間の寿命として、

「ほぼ、百年未満」

 というこの長さが、

「長いのか短いのか?」

 というのは分からない。

 しかし、必ず死というのは訪れて、生き残った人間、いや動物は、実際に存在していないのだ。

「形あるものは、必ず滅びる」

 という、

「諸行無常」

 ということから、

「盛者必衰」

 と言われる、こちらも、

「盛者が無限ではない」

 ということで、それらが、

「宗教の発想」

 というところに結びついてくるのであろう。

 それを考えると、

「男女の営みによって、種の保存が保たれる」

 という考えは、実に重要なことである。

 生物が、無限ではないというのであれば、

「種をつないでいくしかない」

 ということであり、

「最初に生まれた時代が、永遠に死ぬことなく続いていく」

 ということが、

「タブーだ」

 ということになるのだろう。

 なぜ、

「タブーなのか?」

 ということを考えるが、その理屈は誰にも分からないだろう。

 何といっても、

「人間や、他の生物を作ったのは、神なのだから、人間が神にならない限り、そのタブーというのは分かるはずがない」

 それを考えると、

「バベルの塔」

 というものを作ったニムロデ王というのは、

「本当に、自分の力が神に届く」

 ということは、

「自分が神として、支配するという権力を持ちたかったからなのだろうか?」

 と、少しひいき目に考えてしまう。

 考え方を変えると、ニムロデ王は、神様に近づくことで、

「生物が無限ではなく、男女の営みという形で、種の保存を図っている」

 ということがどういうことなのか?

 ということを知ろうとしたと考えるのは、考えすぎなのだろうか?

 いや、

「種の保存や、生命の限界」

 ということの秘密に触れようとすること自体が、神からすれば、

「許しがたいこと」

 ということなのだろうか。

 それをニムロデ王以降の人たちがしないように、

「戒め」

 ということで、

「バベルの塔」

 の話を作ったのかも知れない。

 一種のでっちあげといってしまうと、それこそ神への冒涜になるのかも知れないが、ひょっとすると、

「それだけ神は、人間が自分たちに近づいていて、そのことを恐れている」

 ということなのかも知れない。

 聖書にしても、神話にしても、必ず出てくる存在として、

「人間の上には神様がいる」

 ということであり、

「その人間を創造したのは、神だ」

 ということになる。

 さらに、昔、聖書を題材にした映画があったが、そのタイトルが、

「天地創造」

 であった。

 そう、聖書というのは、

「まずは天と地をおつくりになり、そこから、人間を作った」

 ということになっている。

 日本の古事記にしても、神がまず、日本列島を作るところから始まるではないか。

「ピラミッドと古墳」

 という

「共通した陵墓」

 という発想もしかるべきで、

「古代で、しかも、相当遠い、アフリカや中東、ギリシャなどと日本なのに、同じような発想というのは、偶然という言葉で表すことができるものなのだろうか?」

 ということであった。

 そうやって考えると、

「生物における、男女というものは、神秘な存在」

 といってもいいのではないだろうか?

 人間が、フレーム問題を解決できているのは、

「石ころを意識しない」

 という発想からではないかと思うのは、少数意見であろうか?

 確かに、人間は無意識に、

「フレーム問題というものを解決している」

 ということになる。

 つまりは、

「その時に考えられる可能性の中から、本当に必要な発想だけを切り取って判断ができている。

 だから、迷うことなく、洞窟の中に入ることができるのであって、それは、

「フレームに当てはめる」

 という、

「何もないところから、生み出す」

 という発想ではなく、

「考えなくてもいいものは、最初から見えていない」

 という本能のようなものを持っていることで、できていることなのかも知れないと考えると、

「果たして、人間が作る人工知能に、それを埋め込むことができるのだろうか?」

 ということである。そうなると、

「それができるのは、神だけ」

 ということになり、やはり、

「人間は神にはかなわない」

 ということになるのだろう。

「凸凹の関係」

 というと、

「凸凹コンビ」

 という発想にあるように、それぞれに、対照的なところが多いという発想から言われるもので、

「あまりいい印象はない」

 という人もいれば、

「かわいらしさがある」

 と考える人もいるだろう。

 確かに、

「どっちも男性、女性」

 ということで、同性であれば、

「あまりいいイメージではない」

 といえるだろうが、これが、異性であれば、

「男性が背が高く、女性が低い」

 という状態であれば、

「つり合いが取れていて、いじらしい」

 という風に言われる場合が多い。

 それは、最初から、

「男性は背が高いので勇ましい」

 というもので、

「女性の場合は、小柄がかわいらしい」

 という印象がこびりついているから、そう感じるのであろう。

 そういう、

「肉体的なイメージの違い」

 というものから、

「男女の間に、最初から差別的なイメージがあった」

 ということになるだろう。

「男が表で狩猟を行い、家で、女が料理をしたり、衣類を作る」

 という習慣は、縄文時代からあったと言われている。

 もちろん、

「見てきた人がいるわけではないので、その根拠がどれほどのものかは分からないが、実際に残っている資料の最古から、

「男女の差別というものが歴然として存在した」

 というものがあるのだから、それが、根拠だということになるのだろう。

「歴史がそれを証明している」

 といってもいい。

 まるで禅問答のような話の中に、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という発想があるが、まさにその発想は、無限に解決されないものともいえるだろう。

「確かに人間は、神に作られたものだとすると、どちらが先なのかというのは、一目瞭然ではないだろうか?」

「ニワトリが先だ」

 というのが、一般的に言われることであろう。

 それは、

「たまごというのは、表に出るものではなく、母体の中に埋まっているものだから」

 ということで、

「哺乳類というものが、動物の中でも、高等動物に位置づけられるのは、そのためではないか?」

 といってもいいだろう。

 しかし、この、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 と言われる禅問答というものの中には、もう一つの発想として、

「人間を作ったのは、神だ」

 ということになれば、

「じゃあ、神は誰が作った?」

 ということになる、

 ギリシャ神話の世界であれば、あくまでも、勝手な発想であるが、

「全能の神であるゼウス」

 が、オリンポスの神々を作ったということではないか?

 ただ、そうであれば、

「ゼウスは誰が作ったのか?」

 ということになり、

「神を含めた生命というものは、必ず誰かが作った」

 という発想を結び付けるとすると、

「無限なものではないか?」

 としか思えない。

 ただ、それは、

「人間が発想する」

 ということで、神からすれば、その答えは分かっているのかも知れない。

 そして、そのことを、

「人間には決して知られてはいけない」

 ということで、神々を含めた世界は、成り立っているといってもいいだろう。

 それを考えると、

 男女の存在は、種の保存を可能にするものとして、不可欠であり、理屈に合う存在だということになれば、

「対というものが、必ずしも、同じような形であったり、対という発想である必要はない」

 といえる。

 動物であれば、人間から見れば、

「パッと見、それほど違っているようには見えない」

 というものであるが、歴然とした違いはある。

 だから、人間も他の動物から見れば、

「男なのか女なのか区別がつかない」

 と思われているのかも知れない。

 この男女の違いが、一種の

「凸凹の違い」

 ということになるのかも知れない。


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