温かい日、僕は雪になる瞬間を見に行く。

田中鈴木

第1話

「今日の外気温は平均180度。観測点によっては最高で190度を超えるでしょう」

 朝のニュースでそう言っていたので、僕はこっそり部屋から抜け出して着替えを始めた。お母さんはちょうど出掛けていて家にいない。厚手の防寒服を着込みながら、保温バッグの中にデバイスを放り込む。玄関の防護服ロッカーの鍵は取り上げられているが、お母さんが何をどこに隠すかなんて全部知ってる。だいたい個人用防護服を取り上げるなんて法律違反のはずだ。お母さんだからって取り上げていいはずがない。怖いから言わないけど。

 ロッカーの鍵を開け、防護服に足から体を滑り込ませていく。3箇所のロックを閉め、システムのオートチェックが完了するのを待つ。バイザーに表示されるステータスはオールグリーン。……いやバッテリーは80%か。まあちょっとした散歩くらいなら問題ないはずだ。保温バッグを肩から斜めに掛けたら、お出かけ準備は完了。あとはこのアパートから出るまでにご近所さんに見つからないことを祈るのみ。お出かけを止められはしないけど、お母さんに『おたくのお子さん、防護服着て出ていったけど?』って告げ口されるに決まってる。そしたらすぐデバイスの位置情報を調べられて、下手すれば施設管理に通報される。そうなったらお説教じゃ済まない。

 そっとドアを開けて通路を窺うが、誰もいない。カチャカチャうるさい防護服の靴で通路を駆け、裏の通用口から管理用通路に出るとほっと一息ついた。管理用通路は人通りが少ないし、たまに防護服を着た人も通る。防護服を着た子供が通ることは滅多にないけど、表通路よりは目立たない。僕は『いつもこんな感じですけど?』って顔をして歩きだした。バイザーで顔は見えないだろうけど、表情は行動も変えるってお母さんが言ってた。平気そうな顔をしていれば平気そうに見える動きをするもんなんだ。

 管理用通路を進み、本幹通路に出る。本幹通路に出るにはデバイスの認証が必要だけど、市民なら誰でも通過できる。後で何かあったら確認できるようにしているだけだ。ロックを抜けて広い通路に出ると、バイザーに表示される外気温が一気に下がった。今で280度。冷蔵庫の中みたいな温度に、防護服のヒーターが静かに唸りだす。防護服は100度まで耐えられるようにできているけど、さすがにそんな温度じゃバッテリーが保たない。

 本幹通路を進んでポートまで出ると、外気温はもっと下がった。地表まで1マイルあるが、ゲートが全部開いているせいだ。閉鎖すれば熱効率は上がるけど、条約で閉鎖してはならないと決められている。もう100年以上前に決められた条約だ。


 そもそもの発端は、昔の人が太陽からエネルギーを取り出そうとしたことにあるらしい。太陽はものすごく大きくてエネルギーもたっぷりなので、そこから地球に必要なエネルギーをちょっと取ったところで問題はない、と当時の科学者は考えた。月と火星で大きな工作船が建造され、水星の内側まで送り込まれた。太陽からちょっとだけエネルギーをもらって、人類の抱えるエネルギー問題を永遠に解決する。そんな計画は、太陽のエネルギー減少がほんのちょっと試算からズレただけで破綻した。

 想定よりも太陽から放出されるエネルギーが少ないな、と思っている間に、太陽はどんどん暗くなっていった。慌てて工作船の稼働を止めたが、計算外のエネルギー減少は止まらない。暗くなった太陽は元に戻らず、太陽からの熱を失った太陽系はぐっと冷え込んだ。

 そこからの悲惨な歴史は学校で繰り返し習う。凍り付いた地表を離れ、地下に移住した人類は、なんとかこうして生きている。月や火星の基地はとっくに放棄されて、今は観測データを送ってくるだけ。地球上の拠点同士で争うことがないよう条約が結ばれ、その中の一つがさっきの『ゲートは閉じない』だ。もう地上には誰も住んでいないけど、もし誰かが助けを求めてきたらいつでも入ってこれるように。最低でも一晩の宿と食糧を提供するのも条約で決まっている。


 いつもは誰もいないポートに、今日は防護服を着た人達がいた。僕を気にしている様子はないけど、見咎められたら面倒だ。壁沿いにそっと進んで、地上を目指す。数分も歩けば、いつも通りの誰もいない通路だ。少しずつ下がる気温が、地表が近いことを告げている。外気温200度になる頃になって、遠くに出口が見えてきた。バッテリー残量は77%。ヒーター、気密グリーン。バイザーの表示を確認して、息を整えながら地表を目指す。

 ゲートを出ると、深い藍色の空が僕を出迎えてくれた。太陽はまだ低い位置で輝いている。昔はもっと空が明るくて太陽も直視できないくらいだったって言うけど、僕は今のこの空も綺麗だと思う。昔は地表でも水が液体で存在していて、空には雲っていう水蒸気の塊があったそうだ。その頃の映像は見たことがあるけど、今目の前に広がる風景とはどうしても繋がらない。

 デバイスの位置情報が正常なのを確認して、ゲートから離れて『道路』を進む。大昔、ここが軍隊の基地だった頃は自動車っていうのが走っていたらしい。今は分厚い氷とドライアイスに埋もれているけど、掘削すればその頃の遺跡が出てくるって聞いた。

 外気温は182度。太陽が元気な頃は、気温が300度になることもあったんだって。その頃は水が凍る温度を0度にしていたり32度にしていたりしたみたい。なんかいっぱい単位があるより今の方が分かりやすくていいと思う。

 道路をしばらく進むと、僕が目印にしている氷の柱が見えてきた。昔は地上にも木が生えていて、その名残だ。この柱を曲がって斜面を登ると、このへんでいちばん表面温度が高くなる場所に出る。南向きの斜面では、今日みたいに温かい日にはドライアイスが溶けて気体になり、また凍ってキラキラ降り積もるんだ。藍色の空と太陽の光を受けて虹色に輝く小さな粒。何の音もしない景色はいくら見ていても飽きない。お母さんに怒られてもやめられない、僕の秘密の場所だ。

 柱の横を曲がろうとした時、聞き慣れない音がした気がして足が止まった。聞き間違いじゃない。ゴロゴロ響く低音が、『道路』に沿って近付いてくる。外には動くものなんてないはず。緊張でぎゅっと喉が鳴った。

 もくもく白い煙が迫ってきたと思ったら、巨大な塊が飛び出してきて、僕の横で止まった。ホバーだ。拠点間移動で使われることはあるって聞くけど、実際に見るのは初めてだ。吐き出される熱でドライアイスがぐんぐん溶け、空気がゆらゆらゆらめいている。白い世界で目立つように緑と黄色で塗装されたそれを呆然として見上げていると、防護服に通信が入ってきた。

『遭難者か?』

 基本的に動くものがいない世界で、防護服の熱源は目立つ。外でふらふら歩いていた僕を、何かの事故に巻き込まれたと思って止まってくれたらしい。

『違います、あの』

『乗るか?』

 大事になる前に逃げようと思っていた僕の心は、あまりにも魅惑的な申し出にぐらぐら揺れた。ホバーに乗る機会なんて一生ないかもしれない。力強く熱を吐き出す、緑と黄色の大きな塊。でも乗ったら絶対お母さんに怒られる。しばらく外出禁止になるかも。

『乗ります』

 当たり前だ。乗らないなんて選択肢はない。怒られるのは未来の僕に任せればいい。

 ホバーの側面が開き、防護服を着た人が手招きしてきた。タラップに足をかけると、その人が手を引いてくれる。僕が乗り込むと後ろでドアが閉まり、振動が強まった。ホバーがまたゆっくりと動き出す。

「ええと、子供か?シャイアン所属か?どうしてあんな所に?」

 防護服のヘルメットを外し、明るいブラウンの髪の男の人が聞いてきた。僕も防護服のロックを解除し、ヘルメットを背中に押しやる。

「はい、シャイアン市民です。あの、ちょっと、散歩というか」

「散歩?そうか」

 あまり納得がいかないようだったが、男の人はそれ以上聞いてこなかった。ついてこいと手で示す彼についていくと、少し広い空間に出た。キャビンとして使っているようで、他にも人がいる。皆外出規定通りに防護服を着ているが、ヘルメットは外していた。

「我々もシャイアンに向かうところなので、ポートまで送ろう。ニューヨーク市使節船『ブロードウェイ』号にようこそ」

 座るように促されて戸惑っていると、同じくらいの歳の子が隣の席をぽんぽん叩いた。ブロンドの髪の女の子だ。おずおず座ると、グリーンがかった瞳でまっすぐ僕を見つめてくる。

「あんなとこで何してたの?」

「えっと、ちょっと」

「ちょっと何?」

「散歩してた」

「散歩?わざわざ?防護服着て?」

 ぐいぐい聞いてくる女の子にたじたじになりながら、僕は何を話せばいいか考える。正直に話してもいいんだろうか。

「あのね、今日みたいに温かい日はドライアイスが溶けるんだ。それで、それがまた凍って降ってくるんだ。雪みたいに」

「雪って水が凍ってできるんだよ。ドライアイスじゃない」

 女の子がちょっとバカにしたように言ってきた。僕だってそんなことは知ってるさ。でもきっと、あの景色は昔の人が見ていた雪と一緒だと思う。それを綺麗だと思うのも、きっと。

「君も見れば分かるよ」

 もし望むなら、案内してあげるよ。このシャイアンで一番綺麗な、僕の秘密の場所に。

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温かい日、僕は雪になる瞬間を見に行く。 田中鈴木 @tanaka_suzuki

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