第2話
《side女刑事》
あの事件が終わったのは、つい数時間前だった。
犯人は捕まった。でも、何も救えなかった。
被害者の小さな命は、私たちが現場に駆けつけるより早く失われていた。
親御さんが泣き崩れる姿を見ていると、胸がえぐられるような思いだった。悔しい。情けない。それでも、警察官である以上、泣くわけにはいかない。
「お前はもう帰れ。働きすぎだ」
同僚の言葉で、現場の整理を終えた頃には、すっかり夜になっていた。無意識のうちに路地裏を歩き回り、気づくと、古びた暖簾のかかった小さな店の前に立っていた。
「追憶?」
ぼろい外観に似つかわしくない、妙に情緒的な名前だと思って店に入った。飲み屋だろうか? 今は確かに飲みたい気分だ。とにかく、何か飲まなければやっていられない。私は店の扉を押し開けた。
店内はやっているのかと疑わしくなるほど静かだった。カウンターだけの小さな店で、奥に立っている店主らしき男がこちらをじっと見ている。
「いらっしゃい。誰かの紹介かい?」
柔らかい声だったが、今の私にはその穏やかさがかえって苛立たしかった。
「いや、酒が欲しい」
「はいよ」
キンキンに冷えた瓶ビールと、枝前が突き出しで出された。定番メニューに私は何も考えずにコップに注いだ一杯を飲み干した。
「食事は、何ができるんだい?」
「ここでは、あなたが思い出の“味”を作ります」
「は?」
ふざけているのかと思った。私は疲れ切っていたし、正直、こんな奇妙な店に付き合う気力もなかった。
「酒を出すなら、普通にメニューを見せてくれよ」
「メニューは一つだけです。お客様の思い出に残る料理をご注文ください」
そう言って、店主はカウンターの上に、木の札を置いた。そこには、たった一言、「思い出の味」とだけ書かれていた。
値段は時価? はぁ? ビールは普通に600円、突き出し400円。もう外に出てもいいんじゃないか?
「思い出の味って、何だよ……」
だけど、気になって……意味がわからないなり、店を出る気力もなかった私は、仕方なくカウンターに座り続けた。
「何か思い出の味はありますか?」
店主が鋭い声で聞いてくる。その鋭さに、犯人を追い詰める尋問みたいな雰囲気を感じ取って内心で毒づきたくなる。
雰囲気のある店主に、ふと浮かんだのは父の顔だった。
刑事だった父。小さい頃の私は、父の背中を追いかけて育った。
家には滅多にいなかったけど、休みの日に作ってくれたチャーハンだけは、今でも鮮明に覚えている。
「……じゃあ、チャーハン。父が作ってくれたチャーハンが食べたい」
ビール一杯で酔うはずがない。だけど、なんだか無性に親父のチャーハンが食べたくなった。
そう答えると、店主はゆっくりと頷いた。
「どんな味でしたか?」
「さあな、もう何年も食べてないし、細かいことなんて覚えてないよ」
親父は殉職して、私が刑事になる前に死んじまった。
「具材は?」
「……卵とネギ、それくらいだった気がする」
「味付けは?」
「だから、塩胡椒じゃねぇのかよ? 覚えてないって!」
だんだんイライラしてきた。疲れ果てた体と、心の中で燻る事件の後悔。それに追い打ちをかけるような店主の静かな質問攻めが、私の堪忍袋の緒を切った。
「いいから早く作ってくれよ!」
私は声を荒らげてしまった。だが、店主は何も言わず、ただ静かに奥へと歩き出した。その背中を見送ると、少しだけ後悔が胸をよぎる。
待っている間、ビールと枝前が妙に美味く感じて、静かな店内と穏やかな空気が私を包み込む。
事件の後悔で自然に涙が流れ、ふと、父の顔が思い浮かんだ。
父は決して器用な人間ではなかった。刑事という仕事に誇りを持っていたけど、家ではどこか不器用で、私に何かしてくれるときもぎこちない感じがあった。でも、休みの日に作ってくれたチャーハンだけは、妙に堂に入っていた。
「沙耶、これが俺の得意料理だ。普段は家にいなくてごめんな」
父が笑いながら差し出してくれた皿の上には、こんがり焼けたチャーハンが乗っていた。あの時の香り、味……今でも胸が温かくなる思い出だ。
「お待たせしました」
店主が皿を差し出すと、目の前にそれはあった。父のチャーハンそのものだった。見た目も香りも、記憶の中の一皿がそこに現れたようだった。
私は箸を取り、一口食べた。そして、その瞬間、涙が止めどなく溢れた。
「これ……これだ……父さんの味だ……」
口の中に広がる懐かしい味。
その裏にある父の笑顔。あの頃、私は父の背中を追いかけているだけで幸せだった。だけど、今は違う。私には父のような強さも、何かを守り切る力もない。
「……父さん、私はこんなに弱いよ」
涙で視界が滲む。箸を握りしめ、どうしようもなく震えが止まらなかった。
食べ終わると、私は店主に向かって頭を下げた。
「ありがとう……悪かったね。横柄な態度とって」
店主はただ静かに頷くだけだった。
「ねえ、どうして私の思い出の味がわかったんだい?」
「きっと、私が作ったのは本当の思い出の味ではありません」
「えっ?」
「ですが、もしも再現されるシンプルなチャーハンならと思っただけです」
店を出る頃には、少しだけ肩の荷が下りた気がした。私は父のようにはなれない。でも、また前に進もうと思えた。それだけでも、この店に入った意味はあった。
「一万円は公務員には痛いけどね」
路地裏の夜風が、少しだけ優しく感じられた。
ボッタクリ居酒屋「追憶」は訴えられない。 イコ @fhail
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