ボッタクリ居酒屋「追憶」は訴えられない。
イコ
第1話
ここは、居酒屋「追憶」
小さな路地裏にひっそりと店を構えている。看板も出さず、飾り気のない店構え。通りがかりの人はまず足を止めないが、たまに噂を聞きつけて訪れる客がいる。
この店の売りは、「思い出の味」を再現すること。ただの料理ではない。
客の心に眠る曖昧な記憶を手繰り寄せ、その記憶を形にするのが私の仕事だ。
だが、そのためには客の言葉以上のものを読み取る必要がある。
人間は、自分の大切な記憶すら言葉にできないものだ。だからこそ、彼らの表情や声色、ふとした仕草や体調などを観察し、その背後にある感情を感じ取るのが重要なのだ。
♢
その日、扉を開けて入ってきたのは、少し疲れた顔をした若い男性だった。
外の暑さによって汗を大量にかき、ハンカチで顔を拭きながら入ってきた時点で、何か覚悟を決めているような顔をしていた。
「いらっしゃい」
カウンター席に腰を下ろした彼の目はどこか虚ろで、しかし何かを求めているように感じた。
人の目にはその人が抱える感情が表れる。
彼の場合、それは「迷い」と「寂しさ」だった。
「追憶」という店名を見てやってきたのだろう。
彼が言葉を切り出すまで、私は静かに待つ。こういう客は自分の気持ちを整理しながら話したいものだからだ。
しばらくして、彼がぽつりと語り始めた。
「母が作ってくれた卵焼きの味を再現してほしいんです」
私は頷いて応じる。
「どんな味でしたか?」
しかし、彼の返事は曖昧だった。
甘かった気がする、いや、しょっぱかったかも……と、記憶がぼやけている様子が伝わってきた。その言葉の裏には、「もう母がいない」という感情が透けて見える。
若くして母親を亡くした彼の思い出に残る味の再現。
それはとても難しいことだ。
彼はその味を再現したいのではなく、母とのつながりを取り戻したいのだ。
私はいつものように質問を続けた。
「お母さんの卵焼きには、どんな具材が入っていましたか?」
「たぶん、卵だけだと思います。でも、ちょっと甘めだったような苦味もあって……ずっと忙しくても焼いてくれて」
彼の声がほんの少し震えた。具体的な味や具材は思い出せない。しかし、彼が本当に覚えているのは「母が忙しい中でも手を抜かずに作ってくれた」という思い出だろう。
その言葉を聞いた瞬間、彼の目の奥に小さな光が見えた。おそらく、母の背中や笑顔が心に浮かんでいるのだろう。
私はさらに問いかける。
「お母さんはどちらのご出身でしたか? 使っていた調味料や、家庭での習慣など、覚えていることがあれば教えてください」
彼はしばらく記憶を掘り起こすように考え込んでから、小さな声で答えた。
「関西出身だったので、醤油は薄口だったかもしれません。でも、特別な醤油とか出なかったと思います。あとは……母が甘いもの好きだったから、砂糖を多めに使っていたかも……それに、いつも夏になると思い出すんです!」
私は「それで十分です」と静かに伝えた。
この程度の情報で足りるか不安そうな顔をしていたが、彼の話の端々から、必要なヒントはすでに十分に得られていた。
思い出の料理は、謎を解く探偵の気分でまずは考える。
調理場に立つと、彼の言葉を反芻する。
「甘かったり、しょっぱかったり、苦味も少し」
「母が忙しい中でも作ってくれた」
「夏に思い出す」
味の記憶は曖昧だが、彼の心にはしっかりと「温かさ」が刻まれている。
彼が幼い頃に食べていたであろう卵焼きを想像しながら、材料を用意する。
砂糖を少し多めに使い、薄口醤油で調整。焦げ目がほんの少しつく程度に火を入れる。母親が急いで焼いていたのなら、このくらいの仕上がりだったはずだ。
料理を作りながら、彼の表情が頭をよぎる。料理が完成した瞬間の彼の顔が目に浮かぶようだった。
再現をしながら、彼の汗を流すように、少々の塩を足した。
そこに母の愛が込められているのだろう。
卵焼きをカウンターに運び、「どうぞ」と差し出す。彼は一瞬、不安げな目で皿を見つめた。そして、箸を手に取り、一口食べる。
その瞬間、彼の瞳が潤んだ。
「これだ……これが、母さんの卵焼きです!」
彼は箸を置き、顔を覆った。
その肩が小さく震えるのを見て、私は胸が少し熱くなる。
謎がすべて解けたということはない。
記憶とは、長い年月が経てば曖昧になっていく。
だが、眠っていたものを形にする瞬間を何度も経験してきたからこそ検討をつけられる。
それでも、この瞬間にはいつも心を動かされる。
料理というのは、ただの食べ物ではない。人の心を満たし、心に触れるものだ。
♢
涙を拭き終えて、思い出の卵焼きを食べ終えた若い男性が立ち上がる。
「お会計をお願いします」
食べ終えた彼が会計を尋ねる。私は静かに告げる。
「1万円です」
一瞬、彼は目を見開いた。しかし、それが高すぎるとは感じなかったのだろう。
「高くなんかないですよ。ありがとうございました。でも、どうして母の味がわかったのですか?」
深々と頭を下げて、顔を上げた彼が問いかけてきた。
「多分ですが、記憶にある卵焼きは十年以上前ではないですか?」
「はい! 母は十五年前に病気でなくなって」
「まだ若いあなたの十五年は、もっと若くて、塩味や甘味が強く感じたことでしょう。大人になるとそれらを調整してしまう。だから当時のものよりも少し味を濃くして提供させていただきました」
彼の思い出について解説を加えると、驚いた後に納得した顔をしていた。
「なるほど、すでに変わってしまったのは私の舌だったんですね」
店を出ていく彼の背中を見送りながら、私は思う。彼の心に母とのつながりが戻ったのなら、この料理の役目は果たされたのだと。
♢
「追憶」はただの居酒屋ではない。
ここでは、人が失った大切なものを記憶から引き出し、形にして届ける。料理が単なる料理ではないのは、それが人の心を動かす力を持っているからだ。
私はそれを信じて、今日も静かに包丁を握る。
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あとがき
どうも作者のイコです。
日常系ミステリーです。
短編なので、もう一話ぐらい書こうかな。
何かしら通ったら、シリーズ化したいけど、まぁそんな願いを込めてw
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