カイロをひとつ

ジャック(JTW)

雪が降った朝

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 私の住む地域には、普段からあまり雪が降らない。

 降雪があればそれなりのニュースになるし、何センチか積もれば電車が簡単に止まる。

 だから、朝から降る雪が予報されていたその日は、電車が動いているうちに早めに家を出た。

 白に茶色が織り込まれた毛糸の手袋とマフラーを付けて、ダウンジャケットを着込んで。踏みしめた靴の下で、道の隅っこに積もった雪のかけらが潰れる感じがした。


 歩いて駅にたどり着き、朝の薄明かりの中、始発の電車に乗った。マスク越しで隠れることをいいことにあくびをしながら、私はのんびりと座席に座って電車に揺られていた。


(電車の中、あったか〜)


 寝ぼけ眼で外の景色を見ると、雪は少し積もっていたり溶けていたり。かと思えば重たい雪がちらついていたり。微妙な天候だったが電車は持ちこたえて頑張ってくれていた。


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 無事電車の区間を終えて、次はバスに乗り換え。

 しかしバスの乗り場がやけに混み合っていて、バス会社の人が何か叫んでいるのが聞こえる。運休、という言葉が聞こえた。運休かあ……。

 歩けない距離じゃないけど、こんな寒いし、地面が微妙に凍結していて滑りそうだし、歩いて出社は嫌だなあ。

 そう思っていたところ、よくよく話を聞いてみると、運休したのは私が普段使うバスではなく、その隣の路線だけだった。


 うーん……。ラッキー……かな? ラッキーだと思うことにしよう。ちょっと待つかもしれないが、寒空の中、冷たい風に吹かれながら歩いて出社しないで済みそうだ。

 そんなことを眠たい頭で考えていると、肩を軽くとんとんと叩かれて、年上の女性から声をかけられた。


「あの、突然すみません、運休って聞こえたんですけど、××番のバスって、動きますか!?」

「えっ? ええ、動くみたいです。さっきバス会社の人が、××番は通常通り運行しますっておっしゃってましたよ」


 ××番のバスは、私が普段使うものと同じだから、すぐ分かった。私がそう言うと、その優しそうな女性はホッとしたように胸を撫で下ろした。よく見ると女性の隣には、マフラーを付けて学生服を着た男子学生がいて、緊張した面持ちでバス停をチラチラと見ている。


「あの、息子が今日、受験なんです。普段この路線のバスに乗らないものだから、しかも遅れていて、運休って言葉も聞こえて、心配で心配で……。あの、××番は□□停留所には停まりますよね?」

「はい、停まります。通勤でいつも使ってるので、間違いないですよ」


 そう伝えると、その女性はまたホッとしたように胸を撫で下ろした。一応スマホで検索して、路線図を見せて、□□停留所があることを見せたら、女性は安心したように笑ってくれた。


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 そうこうしてバスを待っているうちに、空がまた暗くなってきて、重ための雪がちらつきはじめた。受験生だという男子学生も、そのお母さんも、寒そうにしている。上着は着ているものの、二人とも手に手袋はつけてなかった。


 私は寒い時期、いつも使い捨てカイロを持ち歩いている。

 私は生まれつき皮膚が弱くて、貼るタイプのカイロを使えない。長時間同じ位置に貼っていると、低温やけどのようになってしまう。だから、寒い時期は貼れないタイプのカイロを手に握って出かけている。貼れないタイプなら、熱くなったら別の位置に持ち変えればいいからだ。


 ……さっき私は毛糸の手袋をつけていると書いたが、それと状況は矛盾していない。

 つまり、その、要するにその日……私は使


 手袋をつけた手が膨らんだクリームパンみたいに見えて不格好なのは分かっているけど手先が冷えるから!!!

 仕方なかったってやつです!!! 

 同僚とは通勤経路被らないし、通勤途中、左手はポケットに突っ込んで隠してるし、バレないかなって思って、あの、あの。はい。毛糸の手袋が不格好に伸びるのでやらないほうがいいことはわかってるんです。でもその日すごい寒くて。はい。耐えられなくて……。


 ともかく、私は朝に弱く、忘れっぽいので、冬の時期は前日の夜にカイロの予備を常に鞄の中に入れておくことを習慣にしていた。

 早朝の寝ぼけた頭でも、なんとかそれを思い出して、鞄をごそごそすると、いつもの場所に未開封のカイロがすぐに見つかった。


(……あった。よかった。ひとつだけだけど……。流石に今使ってる左手に握りしめてる汗ばんだやつは相手も嫌だろうし、取り急ぎこれだけでも……いいか……)


「あの、よかったら、これ……」


 私は未開封の使い捨てカイロをひとつお母さんに差し出した。お母さんは、目の前のカイロを見てびっくりしていた。


「えっ、これ、いいんですか!? え、あなたのぶんは……」

「あります(※さりげなく背中側に隠した左手側の手袋の中に。)、それに、あったかい服着てるから大丈夫です、むしろ予備一個しかなくてすみません。そ、それより、息子さん……受験なんでしょう? ちょっとでも温かくして少しでも……えっと……」


 私はここで突然人見知りを発揮してしまい、小声になってしまった。ついでに間抜けなクリームパン手袋(受験生親子にバレないように後ろ手に隠した左手)の存在も拍車をかけている。別に犯罪でもないし見られたからといってどうということはないが、不格好なのでシンプルに恥ずかしいので隠したい気持ちが喉をこわばらせた。


 それでも突然黙り込むわけにもいかず、「あの、手とか冷たくするのよくないと思いますから……あの、よかったら……どうぞ……」ともごもご言い始めた。


 さっきまで普通に喋れていたのに。

 こんなこというの厚かましくないだろうか、失礼ではないだろうか、そもそも偽善かもしれない。そもそも親子はカイロを持ってきてて断られるかも。余計なお世話かも。そんなことを思って、クリームパン手袋のこともあって、なんだか猛烈に恥ずかしくなった。


 私はマスクもしていたから余計に聞きとりづらかっただろうに、それでもお母さんは意図を汲んでくれて、私の持っていた未開封のカイロをひとつ受け取ってくれた。そして嬉しそうに笑いかけてくれた。その表情を見られて嬉しかった。


「ありがとうございます!」


 そう言うと、お母さんは真っ先に息子さんのところに駆けていって、開封したカイロをすぐに息子さんに握らせた。その光景がなんだかまぶしくて幸せな気持ちになった。ああ、カイロを余分に持っててよかったな、声をかけて良かったなと思った。


 ちょっと離れた位置から、息子さんも私の方に向かってペコっと頭を下げたのが見えた。普段使わない道を通っていくだけでも緊張するだろうし、雪のせいで受験会場に遅刻するかもしれなくて気が気じゃないだろうに、それでもお礼ができるなんて、すごく立派なお子さんだなと思った。

 私ははにかんでお辞儀を返すことしかできなかった。


「あの、応援してます……」


 私はお母さんに向かってそう言った。受験生である息子さんに直接言うと、試験前に要らぬプレッシャーを与えることになりそうで、直接息子さんには言えなかった。『頑張ってください』なんて言われなくても、こんな早朝に出発する時点で、この親子は絶対に頑張っているし。


 でも応援している気持ちは伝えたいし……。

 そんなことを考えて、またもごもごしていると、お母さんはまたくしゃっとした笑顔で笑いかけてくれた。息子さんはその隣でまた頭を下げて会釈してくれた。


「ありがとうございます! ありがとうございます!」


 とお母さんは言ってくれて、ぺこぺこ頭を下げた。私も慌てて頭を下げ返した。どちらが悪いことをしたわけでもないのに頭を下げ合う光景がちょっと続いた。


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 そうこうしているうちに、受験生親子と私が乗るバスが時間より十分遅れくらいでなんとかやってきた。お母さんは、ちょっと焦った様子で私に問いかけた。


「あのバスですよね?」

「はい、これです。間違いないです」


 私はお母さんと息子さんを不安にさせないように、いつもよりキリッとした目つきと声で答えられるように頑張った。念の為スマホでも改めて確認してみたが、××番のバスで間違いなかった。


 少しとは言え遅延していたのと、雪の予報があったことが影響しているのか、バス停の周りはいつもよりかなり混んでいた。乗客が多いせいで、バスの車内はぎゅうぎゅう詰めになったが、つぶされるほどではなく、私だけでなく受験生親子もなんとか乗り込むことができたのが見えた。

 バスの車内は暖房がついていて温かく、ほっと一息ついた。息子さんやお母さんが乗っている場所は、私のいる場所とは少し離れていた。受験生親子がいる位置もあったかいといいなと思った。


「ドアが閉まります、ご注意ください。ドアが閉まります、発車します」


 運転手さんがいつもの声掛けを終えて、バスが動き出す。ゆっくりと、ゆっくりと進み始めた。


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 すし詰めのバスの車内は、基本的に静かだった。バスの運転手さんの声と、エンジン音、段差を超える時のガタンという音しか聞こえない。

 でも、少し離れた場所から、受験生の息子さんをお母さんが一生懸命励ましている声がかすかに聞こえる。それがなんだか微笑ましくて、心があったかくなった。


「次は〜、□□、□□、お降りの際はボタンでお知らせください」


 そして受験生親子が降りる停留所がやってきた。

 受験生親子はピンポンを押すと、慌ただしく「降ります!」と言って、頭を下げながら人混みをかき分けて降りていった。

 心なしか、周りの人達もカバンを避けてあげたり、体をずらして道を譲ってあげたりして、二人が降りることに協力的だった。なんとなく乗客皆が受験生親子を応援しているような気がした。

 急いで去っていく二人のその後ろ姿に私は小さく右手を振って、いってらっしゃいを心のなかでつぶやいた。


 ちなみに会社に着く前に、左手側の手袋に入っているカイロは取り除いてポケットに入れ直しました。はい。会社の人にはクリームパン手袋を見られずに済みました。はい。セーフです。セーフですよ。


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 その後、あの受験生親子と出会うことはなかったけれど、たぶん時間帯的に、受験会場には無事間に合ったと思う。二人とも風邪引いてないといいなと思った。


 それから、雪の降る日は、カバンの中にカイロをもうひとつ余分に入れておこうと思っている。そうすれば、今度もし同じようなことがあったら、二つ渡せるようになると思って。


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