手書きのメリークリスマス

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手書きのメリークリスマス

栞(しおり)には、願いごとを叶える力がある。


他の人にはない、特別な力が備わっていることに栞自身が気づいたのは、ひらがなとカタカナと、簡単な漢字を用いて、手書きの字をしたためることが出来るようになったころだ。いつからそれが出来たのかは定かでないが、遅かれ早かれ、この力とともに生きる運命にあったのだろう。


栞は字を書く行為が好きだった。特に、両親のスマホを使って電子テキストを入力するよりも、紙に自分の指先で力を込めて手書きすることを好んだ。自分のさじ加減で字のスタイルを決める自由さや、思いを込めてインクを滑らせると、脳内がワーンと熱くなり、そこに自分の魂が宿るような気がした。


そしてそれは実際、栞の手書きした字には、読んだ人の意識を根っこから変えてしまう大きな力があったのだ。

鉛筆でもボールペンでも、インクとして使えれば何でもいい。栞が誰かにお願いごとをしたいと念じながら手書きの文字をしたため、書いたものを目的の相手に読ませた時、相手はその内容が当たり前の事実のように、お願いごとを聞いてくれるのだ。


サンタクロースにクリスマスプレゼントのお願いごとをする時、当初の栞は、書いた通りのものが必ず届いて当たり前、そういうものだと思っていた。

ゲームは希望通りのタイトルが必ず届くし、お菓子のプールで泳ぎたいと書いた時には、自宅のお風呂がスナック菓子で埋め尽くされていた。学校で周りの子が、希望通りのものが届かなかったとグチを言っていると、字を間違えて読めなかったのかな、と不思議に思っていたくらいだ。


転機がおとずれたのは、小学4年生の時だ。栞はたくさんの願いを聞いてくれたサンタさんに自分も何か貢献したいと思い、クリスマスのお願いとして、「私をサンタ一味に加えて、クリスマスのお手伝いをさせてほしい」というお手紙を書いた。


その翌朝、栞が朝食に昨晩のケーキの残りを食べていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。そこに立っていたのは赤い服のふくよかな老人で、サンタクロース協会の日本支部関東第一課の課長であると自己紹介を受けた。そこからは面接もそこそこにトントン拍子で、栞はサンタクロース協会とスポット契約を結ぶことになった。


協会のお仕事は取り組んでみると、小学生やセカンドキャリアを積むナイスミドルにも無理のない内容で、月に1回のズームミーティングと、クリスマス前にプレゼントの格納倉庫に行き、届け先とプレゼント内容が一致しているかを確認するというものだった。栞も7年キャリアを積んだころには、関東第一課の貴重な戦力となっていた。


栞はしかし、この力を便利だと思うことができず、むしろ扱いにくさを感じていた。


ある日、こんなことがあった。

幼い栞は子供心に、毎日がハンバーグだったら良いのにという思いつきをした。母のつくる合挽きのハンバーグは絶品だ。ちょっとしたいたずら心がはたらいて、母に「夕食は毎日ハンバーグが良い」というメモを渡した。


その日の夜、果たしてハンバーグが出た。栞は大変ご満悦(まんえつ)な顔で肉汁をほおばった。

翌日の夜、その次の夜、次の次の夜も、ハンバーグが出続けた。家族はまるで、夕食はハンバーグが出ることが当たり前のように食卓を囲み、楽しそうに話している。いっぽうの栞はハンバーグにすっかり飽きてしまって、食生活の乱れから胃もたれも感じていた。栞は自分の失敗に気づいた。

このままでは自分や家族の健康が危ない。慎重に考えた結果、「子供の成長に良い、栄養バランスのとれたご飯を食べたい」というメモを母に渡して事なきを得たのだった。


小学校高学年の時には、こんなこともあった。

栞も思春期を迎えると、クラスでスポーツのできる、皆からカッコイイと呼ばれる男の子が気になり始めた。今思い返せば、その子の何を特別と感じていたのか、皆がカッコイイと思う子を自分のものにできればトクベツになれると憧れていたのか、当時は色んな感情があったのだと思う。


栞は、男の子に手紙を書いた。「私のことを好きになってほしい」と。

翌日から早速、栞はカッコイイ男の子とお付き合いをすることになった。自分を好きと言ってくれるのはいつの時代も嬉しいものだし、皆からアコガレの的になることも悪い気分ではなかった。


しかし円満な日々は、あまり長くは続かなかった。

肝心の男の子はというと、「スキだ」とは言ってくれるが、では私のどこが好きなのかと問うと、不思議そうな顔で「分からないよ」と言うのだ。

ただ隣にいて、スキとだけ言わされ続ける男の子に、栞は次第に息苦しさと申し訳なさを覚えた。好きとは、少なくともこういうことではない、と悟った。

栞はある朝、男の子に「仲の良い友達に戻ろう」という手紙を渡した。


〜〜〜

元々がそんなに仲が良かったかと言われると…少しだけ自分に特になるようなお願いをしたことは素直に認めよう。

〜〜〜


高校生になった栞は、未熟なりにも大人になるということについて考え始め、世の中の役に立つにはどうしたら良いかを思案した。この特別な力を持ったからには、自分が世界の救世主にならないといけないのかもしれない、そんな使命感があった。


書いた内容を相手に直接読ませさえすれば、お願い通りの行動をしてくれる。相手が読める文字ならばそれで良い。犬や猫などの動物や、日本語の読めない外国人には通じないようだった。

それならまずは、我が国の内閣総理大臣に会って、各地の問題が平和に向かうよう説得すれば良いのではないか。


栞は、街頭演説をしている与党議員の一人に「私を総理大臣に会わせて」というメモを渡した。議員は最初、不審そうな顔だったが、しかし有権者の見ている前で子供を無視できないという気持ちなのか、メモを受け取って読んだ。そうして読み終わると議員はにこやかな顔で、「手配しよう」と依頼を請け負った。


数ヶ月後、栞のもとにラインが届く。~時に官邸で首相とアポが取れたので来てほしい、という内容だった。

栞は緊張の面もちで部屋に通されると、果たしてそこには日本の内閣総理大臣がいた。面会は5分で大丈夫、と言っていたため、栞はあいさつを終えると首相に、「世界を争いのない、平和なものにするため全力を尽くしてほしい」という手書きメッセージを贈った。首相は、承知した、と首を縦に振った。


しかし翌日になっても、一週間が経っても、翌年の同じ日を迎えた時も、世界のどこかで紛争は続き、我が国は武器を放棄することがなかった。栞は不審に思っていたがやがて、この社会がきわめて複雑な構造になっていることを悟った。

つまり、首相や国をつくる官僚などの多くは、最初からそれぞれの思う方法で世界の平和を実現しようとしていたのだ。そしてそれは、武器を持つことや世界のどこかで紛争が起きることと矛盾しない。


栞は、この力は、何をなすためにここに存在するのか。





「次の、この過去分詞の演習問題だが。一条(いちじょう)、解いてくれるか」

そうして一条栞が思索にふけっていると、英文法の授業に呼び戻された。


政治活動も行き詰まったため、栞はこの力を持て余しながら、変哲のない高校生を続けていた。

英文法を教える権藤(ごんどう)は栞の担任教師で、端的で分かりやすい授業をすることで生徒の間から一定の評判があった。顔立ちは30代くらいに思われ、一部の女子生徒からはイケメンの太鼓判を押されることもあった。


栞が権藤から話しかけられる時はたいがい、栞の英語の勉強を応援しているから頑張れよ、という内容のものだった。栞は国語のテストでは常にぶっちぎりの学年1位を取り続けていたが、英語は人並みだった。

他の教科に決して力が入らないわけではないのだが、この日もぼんやりと思索にふけっていたのを見つかってしまったらしい。


帰りのホームルームが終わり、栞はトレンチコートに身を包み、赤いマフラーを巻いた。今年もあっという間に最後の月を迎え、新年になれば進路を真剣に考えなければならない。

自分の進路について、栞はまったく良い提案を持っていなかった。長年続けているサンタクロース協会で正社員になるか、いっそのことヒーローや革命家にでもなろうか…いやいや、無難に公務員か。


ショッピングモールの本屋に立ち寄り、学校の近くの駅前広場に戻ってきたころには、もうすっかり冬の凍てつく夜の様相になっていた。電車の暖房を求めて足早に歩き出した栞だったが。

その足は、すぐにぴたりと止まることとなる。


広場の中央に鎮座(ちんざ)するクリスマスツリーを背に、一人の女性がギターを抱えていた。

周囲にはまばらに数人、何かが始まる予感に期待を寄せる人が、それを見守っていた。


この広場ではしょっちゅう路上ライブが行われていたため、普段の栞なら特段気にすることなく直帰していた。しかしこの人をひと目見た瞬間に、何かがいつもと違うと栞は直感したのだ。出会うとはそういうことだ。

CDの販売もなければ、名前の紹介すらもない。ただインスタのQRが1枚、A4の紙に印刷されて譜面台にマスキングテープで貼られていた。


17時になると女性はマイクに電源を入れ、足を止めていただいて有難うございます、早速聴いてください、とギターに指をかけた。

歌い手は、自分のことを「ことのは」と名乗った。


「ことのは」は歌う。叶えるために。


『涙が溢れるこの夜は』という曲だった。夜の訪れを思う静かな歌い出しが曲の世界への没入を誘い、次の瞬間にはきめ細やかに刻まれるギターの弦の音に、心の奥が呼び起こされる。「ことのは」の決して難解な用語を使わない歌詞は、それを聴く人々の自分ごととして腑(ふ)に落ちていき、メロディとして彩りを与えられた言の葉が様々な解釈を誘った。


気づけば、栞の目からは涙が溢れていた。周りに集まっている観客も目から溢れるままに任せ、「ことのは」のステージを見守っていた。


と思うと「ことのは」は、今度は明るく元気のわいてくる曲で観客を温めた。手拍子とともに穏やかな笑顔に包まれる。繰り返し歌われるフレーズに、観客は白い息をはきながらも懸命に口ずさんだ。


「ことのは」が深く頭を下げると、栞は手を真っ赤にするくらい叩いて賞賛した。驚いたのは、背後から予想外の大きな拍手の音が迫ってきたことだった。振り返ると、いつの間にか50名程度の集団になっていた。


この人と、このままで終わってはいけない。

ギターをケースにしまう女性のもとに、栞はおそるおそる近づいた。

「あ、あの…!」

音の魔法使いは、手を止めて栞のほうに振り返った。


この時の栞は、特別なものを感じたとか、自分の力を使えばもっと大きな舞台が用意できるとか、でも以前のように力の使い方に失敗して、お姉さんの大事なものを壊してしまわないかとか、複雑に絡まった感情を渦巻かせていた。


「ライブ、とても良かったです…!」

顔を紅潮させて言葉を紡ぐ高校生に、「ことのは」はにっこりと微笑んだ。

「聴いてくれて、感想も伝えてくれて、ありがとう。笑顔になって貰えて嬉しいよ」

「心にしみる、素晴らしい曲でした。ことのはさんなら、路上ライブよりもっともっと大きな舞台で活躍できると思います」


んー、それは素晴らしいことだねえ、と、「ことのは」は少し考えるような顔をした。

「赤マフラーちゃんさ、ゆめって、なに?」

「ゆめ。」

栞はその言葉を口に出し、漢字変換をして夢のことを言っているのだと分かった。そこで栞は気づいた。

生まれてからというもの、自分の人生は何かしたいことがあれば、手書きメモを渡して叶えるか、叶えないかのニ択しかなかった。叶わないことに直面した時、今は不可能でも未来では可能になるかもしれない、そのために真っ直ぐな気持ちになる「夢」について、栞は考えたことがなかったのだ。

「すいません。基本的に叶えることしか考えてこなかったので、夢が何なのか、まだよく分からないです」

「面白い回答だね!赤マフラーちゃんは超ストイックなのか、ひょっとして能力者なのかな」

そう言って、「ことのは」は大きな声で笑った。


「叶っていう字、あるじゃん。くちにじゅう、って書くやつ」

栞の前で、「ことのは」が自分の指で空中に、四角と十字を描いた。

「叶の字はね、協力の「協」と同じ仲間の字らしいんだ。この字からも少し想像がつく通り、複数の口が合致すること、兼ね合うこと、というのが、叶うという言葉の語原らしいんですな」

自分にとって、と「ことのは」は続ける。

「叶うとは、私の歌を聴いた誰かが笑顔になり、一緒に口ずさんで音楽を楽しみ、ロジカルな説明抜きに、プラスの感情が芽生える状態のこと。そうした旋律と歌詞の組み合わせを生きている間に1つでも多くつくって、それが後世に残ることが、私の夢かな」


〜〜〜

この日の「ことのは」との出会いは、栞という無限の可能性を秘める土壌(どじょう)に、夢という双葉を発芽させたのである。

〜〜〜


私も夢を持った大人になって、私にしかできないことを成し遂げよう!栞は意気込んで帰りの電車に乗るべく、駅の改札に入った。

本屋と路上ライブと二本回しをしたことにより、サラリーマンの帰宅ラッシュに重なる時間となっていた。栞にとってはよくあることなので特段問題はなかったが、栞の数メートル前を歩いていた、杖をついたおばあさんにとっては違っていた。


都会のリーマンたちは何かに憑りつかれたように、階段を全力で登っていく。その流れの邪魔にならないようにと、おばあさんは階段の端のほうをゆっくり進んでいた。

急行電車が到着し、さらに大量のリーマンが、電車のどこにそんなに入っていたのだというほど掃き出されて階段に向かってくる。次第にその流れに翻弄されて、おばあさんは階段を登り切ろうというところで、身体の重心が後ろに下がった。


「あ、危ない!」

とっさに、栞は一気に駆け上がっておばあさんの背中を後ろから支えた。間一髪、おばあさんは体勢を立て直した。ありがとうねえ、と栞に手厚い感謝の言葉を述べてくれた。

「いえいえ、ご無理なさらず」

栞は少し照れくさそうにしながら、1つ下の段に足をかける。


その足が、空を切った。


しまった、と思った時にはもう、目をまん丸にするおばあさんの姿が徐々に遠のいていた。これから運動神経はそこそこの私が階段を落ちる、どうにか急所は守ろうと、手をできる限り頭のほうに回した。





「右腕の軽い怪我だけで済んで良かったですねー。利き手なので治るまでは生活が不便かもしれませんが、受験の年ではなかったのをラッキーだと思っていただければ」

病院の医師は元気づけてくれつつも、しかし事実はしっかり正面から伝えてくる、そういう人なのだなと栞は思った。ちなみに軽い怪我とは、骨折のことだ。

駅の階段から落ちた栞は幸いにも、命に関わる大事にはならなかった。ただし最初に右手を出して庇ったことで、腕の骨にヒビが見つかり、2ヶ月程度はギプスのお世話になることになった。


念のため頭などに影響がないかを調べるため、検査入院をすることになった。栞は病院食を食べながら、インスタに流れてくる熱々のラーメンを見てはこっちが良いなどと思いつつ、点滴を打って大人しくベッドに横になっていた。


そこへ、コツコツ、と扉を叩く音がする。

「一条、入っても良いか」という声とともに、担任の権藤が姿を現した。

「おばあさんを助ける代わりに、アンラッキーだったな。差し入れを持ってきたぞ。あと点滴を取り替えるタイミングだってことで、看護師さんから貰ってきた」

権藤はお見舞いのスナック菓子をドサッと机に置くと、栞の頭の上のほうで作業をした。

「先生すいません、期末テストを別室で口頭受験にしてもらって」

「その手でものを沢山書くのは大変だろう。そのあたりは手配済だから大丈夫だ」

授業に関する申し送り事項が終わってしまうと、先生と話すこともなくなって栞は少し気まずくなった。つけっぱなしにしていたテレビ画面を見やると、1年以上前に発生した外国での紛争のニュースが今日も報道されていた。


「一条はこういうニュースを見ると、自分に関係があると思うか」

権藤に問われ、まさか政界に直訴したことがあるとは言えないので、栞はテレビ画面を見たまま、無難な回答をすることにした。

「そうですね…傷ついている人のためにも、早く収拾がつくと良いのですが」

「一条、お前はそれができるんじゃないのか」

「…え?」

栞はハッとして、テレビ画面から後ろを振り返った。権藤が静かな目で栞を見ていた。

「一条。我が国の防衛費の予算が年々拡大しているというニュースは見ているだろう。だが、はっきり言って、他国に比べれば圧倒的に少ない。攻撃に耐えきれない防御しか用意できない国はどうなるか。こうなるんだ」

権藤はテレビ画面を指さした。


権藤はややこしくなりそうな話をしている、ひと眠りしたいですと言って今日は帰ってもらおう、栞はそう思った。

そういえば先ほどから、どんどん眠くなってきている。病院食のカロリーが少ないせいだろうか。お昼後の薬に眠くなる成分が入っていたのだっけ。


とそこで、栞はある異変に気づいた。

いくらなんでも、点滴の入れ替えを看護師が素人に頼むことがあるだろうか。


「権藤先生…あなたは何者ですか」

栞は息を呑みつつも、頭がぼうっとしてきて、飛び起きて逃げ出すということが困難に思われた。

そのまま休んで貰って構わない、と権藤は静かに告げた。

「去年、防衛省で勤務していて、首相の業務カレンダーの中に、ある不可解なスケジュールが入っているのを見つけたんだ。1分でも時間が惜しい役職の方がなぜ、目的不明の女子高生と面会する時間をつくっているのか。後から関係者に聞いても、首相は手紙を大事そうに保存し、世界平和のためだ、とのみ周囲に伝えており、詳細が分からない」

栞は、背中が汗ばむのを感じた。

「このことから私は、この女子高生は何らか、相手の思考に影響を与える力を持っているのではないかと予想した。そしておそらく、それは文章を書くことと関係がある。違うか?」

使命感のままに突っ走っていた当時に、足跡を追ってくる者の存在にまで思いを巡らせる力は栞にまだ足りていなかった。情報の裏取りをするため、教師を隠れ蓑(みの)にして、防衛省のエリートが潜入してくるなどということも。


権藤は枕元に近づくと、静かな口調のままで栞に提案をした。

「幸か不幸か、一条が負傷によりこちらへ手を出しにくいチャンスが巡ってきたため、まずは穏便に話をしにきた。今後は我々の方で最高の教育環境を用意するので、そこで英語を含め様々な言語を修得し、諸外国との取引の場で「力」とやらが使えるように練習してもらいたい。ただし時間がかかると思うので、取り急ぎとしてまた首相と面会し、防衛費の予算を3倍にするよう、「力」を使ってもらいたい」


自分の生徒に睡眠薬を盛っておいて、何が穏便だ!と栞はものを投げつけたい気持ちだったが、身体は既に夢の世界に入っているようで動かなかった。

権藤は淡々と通告した。

「それは強力で危険だ。もし野放しにしておけば、いずれ危険勢力が気づき悪用しようとするだろう。もし我々への協力を拒む場合は、こんなことは本当にしたくないのだが、その手が動かなくなるように手術することも考えないといけないと思っている」

そこから先は、栞はもう目を開けていることができなかった。





次に栞が目を覚ますと、先ほどまでいた病室とは景色が異なっていた。

まず、複数人が同時に入院するタイプの病室だったところが、今は栞一人しかいない。壁際に設置されていた窓には取手がなく、患者側では開けられないようになっていた。そして予想通り、入り口には鍵がかかっていて開けることができなかった。


ドンドン、と扉を強く叩いてみる。すると、

「騒いでも無駄よ、静かにしていなさい」

扉の向こうから女性の声がした。権藤のチームにいる防衛省職員だろうか。

栞は自分のポケットを確認してみる。残念ながら、スマホはもちろん、常備しているペンとメモ帳も取り上げられていた。

「あのう、私はこれからどうなっちゃうのでしょうか」

「権藤からは、貴方はある案件の重要参考人で、権藤と話がつくまでの一時的な拘束と聞いています。食事は3食、トイレに行く時は後ろの壁に手を突いてから私を呼ぶように」

思ったより福利厚生がしっかりしているな、などという呑気なことを言っている暇はなく、栞はこの状況を打開する方法を考える必要があった。少なくとも今のやり取りで分かったことは、この権藤の部下は、栞が持つ能力の詳細は知らされていないようだった。どこに危険勢力のスパイがいるか分からないという、権藤の慎重さが伺えた。


まずはこの部屋を脱出すること。しかし脱出したとて、権藤に何らかの方法で諦めて貰うまではどこまでも追われるだろう。この2つの課題を解決するには。

栞がうんうんと頭を悩ませていると、食事を出すから後ろの壁に手を突くよう指示された。時間はあるのでまずは腹ごしらえをしよう、栞はそう決めてクリーム色の壁に手を添える。背中側から鍵の開く音がして、床に食器のようなものが置かれた音がした。やがてドアの閉まる音と鍵のかかる音に続き、「よし、振り向いて良いわよ」という女性のアナウンスがあった。


この部屋にいると時間が分からなかったが、窓の外の明るさからしてお昼時だろうか。ミネストローネに食パン、ご丁寧にシーザーサラダまでつけてくれた。栞はトマト色のミネストローネをスプーンですくって口に運ぼうとしたところで、ある策を思いついた。


「お姉さん、食べ終わりましたよー」

「よし、では後ろを向きなさい」

栞はクリーム色の壁に手を添える。背中ごしに鍵の開く音がする。続けてドアの開く音。

やや、沈黙の時が流れた。

栞は壁に手をついたまま、静かに女性に話しかける。

「…お姉さん、私、外に出るね」

「ええ、どうぞ」

女性に見送られながら、栞は周囲に権藤が待ち伏せていないかと警戒しつつ、病室の外に出た。


何をしたのかと言うと、栞は、配膳されたミネストローネをインクの代わりにして、白いシーツの上にスプーンで「ここからだして」と書いたのだ。栞の中で、インク・インクを使って線が引けるもの・紙の代わりになるもの・読ませたい相手のイメージ・その相手が読める言語、が揃っていればこの力が使えるというのが、脳内がワーンと熱くなる感じから察しがついていた。


そしてこれの良いところは、女性職員にとっては栞を外に出すことが自然な状態という認識のため、権藤に脱走が見つかるまでに時間を稼げることだ。病室は集中治療室という名目で3階の外れにあったようで、栞は他の患者さんに紛れながら、1階にあるエントランスを目指す。


ダメだ、と栞は柱の陰に隠れながら舌を打った。

しばらくエントランスの様子を見ていたが、明らかに立ち尽くしたまま出入りする人を注視している、スーツ姿の肩幅の広い男性が1人いる。権藤の仲間と見て間違いないだろう。

そうするとおそらく、もう一つの通用門も抑えられている。


しかし、この状況は栞も予想していた。エントランスの男性に見つからないように引き返し、目的の部屋を探す。

「…あった!」

栞は1階の休憩室に身を忍ばせた。


どのくらい時間が経っただろうか。栞の前にいる看護師の二人組から、次のような会話が漏れ聞こえてきた。

「ねえ、職員連絡が回ってきたんだけど、高校生の女の子が病室を抜け出しちゃったんですって。まだ意識がもうろうとしているとかで」

「見つけしだい確保し、院長に連絡か。院長に直接連絡って、なんか不自然よね?」

脱走の件が権藤に見つかったか。栞はここに留まり続けているわけにはいかないと、覚悟を決めて病院の廊下に躍り出た。


すると、直線の廊下の遠くのほうに、同じようなスーツ姿の男性がいるのが目に留まった。男性も栞に気づいたようで、ワイヤレスイヤホンと思われるもので誰かに連絡しながら栞のほうにズンズンと近づいてきた。

栞は反対方向に駆けだした。


廊下の角を曲がり、よく知らない院内をぐるぐると駆けめぐったのち、栞はエレベーターホールにたどり着いた。するとちょうどドアが開いたところだった。

ご丁寧にも、エレベーターからは権藤が出てきた。

まずい…!栞はとっさに、エレベーター待ちをしていた医師の陰に身を潜めた。なんとか気づかれずにやり過ごすと、そのままエレベーターに乗り込み、一番上の階のボタンを押す。

ドアが閉まり始めたところで、先ほどのスーツの男性がホールまで追いつき、栞のほうを指さす。権藤が振り向き、栞と目が合う。

間一髪のところで、エレベーターのドアがぴしゃりと閉まった。


エレベーターを降りると、栞はそのまま階段を見つけ屋上へと向かった。昼間はここでシーツなどを干しているようだが、あたりはすっかり暗くなっており、年季の入った物干し竿だけが並べられていた。

栞は屋上の一番奥まで走り、建物の端から下の様子を見た。


「6階だからな、飛び降りて助かる高さではないぞ」

栞がぱっと振り返ると、声の主である権藤がもう追いついていた。栞とは数メートルの距離を保っており、後から続々と、権藤の仲間が屋上に集結してきた。全部で、6名ほどの大人が栞の前に立ちはだかった。

「先生、英語がペラペラなのは、外国でもミッションをすることがあるからなんですね」

「…お喋りの前にまず、その持ちものを捨ててもらおうか」

栞は右腕に包帯を巻きつつ、左手にB4サイズのらくがき帳を抱えていた。入院している子どもがお絵かきできるようにと、休憩室の隣にある売店に置かれていたものだ。

栞がらくがき帳を持ったまま動かないでいると、権藤の仲間の一人がポケットから、拳より少し大きな黒いものを取り出した。栞はそれを見るのは初めてのことだったが、実物の拳銃と思われた。

権藤は部下を手で制しつつも、顎をしゃくって、はやく、と促した。栞は黙ったまま左手を離した。らくがき帳は建物の端から、ファサっと音を立てて落下した。


「なあ一条、社会の平和を維持するという目的を持っているという点で、俺たちは一致しているのではないかな。力を正しく使う方法を教えてくれる人間と協力することで、大勢の望みを叶えてやれる」

権藤の言うことは、必ずしも間違っていることではないのだろう。しかし栞の中には、はっきりとした違和感があった。


ふと、先日の「ことのは」との会話が思い出された。

栞は懐かしさを感じつつ、自分の言葉を探した。

「…叶うとは、複数の口が響き合うこと、兼ね合うことなんです。お互いが、こうしたいと思って、自分の気持ちで口からメッセージを発することが、生きるってことなんだと思います。だから」

栞は、権藤を正面からにらみ返した。

「先生の、あなたのやろうとしている方法は、人の意志を奪い、誰かの口を一方的にふさぐこと。それは、『叶える』ことではありません」

「奪う、と言ったが、資源は有限であり、どこかが増えれば別のところが減る。それが自然の法則であり、奪うとは短絡的な観測だ。自分の家族が減る側に回らないように行動を決める、それを人間は防衛と呼んでいる。自然現象に、何も後ろめたさを感じる必要はない」

「その結果として、生きることを否定する武器が生まれてはならない。絶妙なバランスでラッキーとアンラッキーが続くけれど、私たちは、ともに生きることを肯定しながら、平和な明日を目指すことができるはず」

ふん、と権藤は鼻を鳴らした。

「夢物語だな」

「私はこれから、夢を持って生きることにしたんです」

栞はにっこりと微笑んだ。


権藤が栞との距離を詰めてくる。

その姿を捕らえようと手を伸ばしてくる。

栞は、両足で建物の端を踏み切ると、

夜の空へ身体を踊らせた。


すぐさま、栞は重力に従い落下を始め、

足元、胸、頭の先と、権藤たちの視界から消える。

権藤は事の成り行きを確認するため、建物の端に膝をつき、顔だけ出して見降ろした。





見降ろした権藤の顔に、栞はらくがき帳を見せつけた。

権藤の目が、らくがき帳に書かれた文字にくぎ付けになった。


権藤が動けなくなっている状態のまま、栞の身体は徐々に上昇を始め、元の屋上の高さにまで戻ってきた。


栞の両足は、シャンシャンと軽快な音のベルが付いた、木製のソリをしっかりと踏みしめていた。

ソリの先端では、赤い帽子の老人が愉快そうに、トナカイの手綱を握っていた。

「メリークリスマス、ミスターゴンドー」

栞はそう言うと、らくがき帳を権藤に手渡す。権藤は、それを素直に受け取った。


病室から抜け出した際にスマホを没収されていた栞だったが、病院にはまだ外部と連絡を取る手段があった。

それは、休憩室の公衆電話だ。スマホの電波が悪影響を起こさぬようにと、まだ公衆電話が残されている病院は少なからずある。栞は見張りをしていた女性職員から少しお小遣いを拝借し、サンタクロース協会の関東第一課に応援を求めていた。


そして売店で、らくがき帳とマジックペンを購入。右腕が不自由なため、細いペンを持つのは難しかった。ミミズのようなフニャフニャの字になっていることは致し方なしとして、マジックを握りしめてどうにか字を書いた。


らくがき帳の字をどのように読ませるかだが、権藤は栞の力のすべてを知っている訳ではなにしても、相当に警戒している以上、単にこれを提示しただけでは必ず顔を背けられるだろう。何らかの方法で、権藤の視線を誘導する必要があった。

そこで、栞の立っていた場所のすぐ下にソリを待機してもらい、まずらくがき帳をソリに落とし、次に栞自身が乗り込み、権藤が下の様子を見るタイミングを見計らったのだ。


らくがき帳には、次のようなお願いごとを書いていた。

「私の力の存在を忘れ、関連資料はすべて処分し、私のスマホを返すこと。クリスマスイブなので、すぐに家族のもとへ帰ること。これを読んだら、チーム内全員に読ませること。読んだ者は上記と同じ対応をとること。」


権藤のチームメイトはぽかんとしながら、空の向こうに消えていくソリの姿を見送った。じっとしている権藤に説明を求めようと近寄っていくと、権藤は口元に笑みをたたえながら穏やかな声で、チーム内に宣言した。

「みんな、今日は残業禁止だ。すぐに片付けてケーキを買いに行こう」


サンタクロースの横に座り直した栞は、ひとつし損ねたことを思い出した。

「あ、しまった!サンタクロースを見たことを忘れること、と書くのを漏らしていた」

ホホウ、とサンタクロースは愉快そうに笑った。

「サンタさんはいる、と子どもに言ってきかせる親に悪い人はいないだろう?まったく問題ないよ」

安心しつつ、ねえサンタさん、と栞は問う。

「どうしたら、世界はもっと平和になると思う?」

そうだねえ、とサンタクロースはひげをいじった。

「私にできることは、クリスマスにプレゼントをあげることだ。それ以上のことはできないだろう。でも、」

来年もクリスマスが楽しみ、という希望が持てるのは、素敵なことではないかな。

サンタクロースはそう言った。





それからしばらくの時間が経った。

栞の右腕もすっかりギプスが取れ、後遺症もなく全快していた。まだ寒い日も続くが、徐々に春に向けて季節が移ろい、植物も新しい葉をめきめきと増やしていくだろう。


今日は「ことのは」が、ショッピングモールでフリーライブをする日だ。栞は女子限定エリア、いわゆるジョゲンに入場していた。その気になれば良い整理番号を持つ人に、交換してくださいというメモを忍ばせることもできるが、そのようなことはしない。それをしたのは、1回だけだ。

希望の歌を口ずさむ時間の開始を、春の訪れとともに栞は楽しみに待っていた。



〜〜〜

これが、一条栞のこれまでについての物語だ。

私はこれから沢山勉強して、視野を広げ、自分のすべきことを探していきたいと思う。


手書きではないこの文章では力を使うことはできず、お願いをしても必ず効力が出るものではない。

しかし、これを読んでくれた貴方の中に、何らかの前向きな言の葉が生まれてくれたならば嬉しい。

生きている間に、1つでも多く、そうした機会をつくることが私の挑戦であり、世界中で生を大切に想い、人と人との気持ちと行動が自然に兼ね合うようになることが、私の夢だ。


最後に、私からのお願いごとを書いて終わりたい。叶えてくれるかは、貴方次第だ。


人を愛して、生きてください。

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