第11話 チョーコー金三兄弟の1人、三河島のキムと新宿決戦その1

1973年 4月29日 朝 三河島駅


毎朝、この男が駅に現れると、駅員は急いでアナウンスする。


「キムジュンキくんが登校しております。キムジュンキくんが登校しております」


同じフレーズを繰り返す駅員。

そのアナウンスを聞いた駅周辺の利用者たちに戦慄が走る。

ある者は、足早に電車に乗り込み、ある者はその場を後にする。

中には、ベンチに座りながら新聞紙で顔を隠して下を向く者。


平日の朝、三河島駅ではもはや毎度の風物詩になっている光景だ。


その恐怖で怯える駅の利用者をよそに、悠々とその間を歩いていく男がいる。

キムジュンキ、チョーコー金三兄弟の1人、三河島のキムである。

ちなみに、金(キム)三兄弟は別に血がつながっているわけではない。

東京チョーコーで強い3人の姓が、たまたまキムだっただけで、そこから畏敬の念を込めて金(キム)三兄弟と呼ばれるようになった。

という事である。


三河島の朝鮮部落に住んでいるキムは、貧乏家庭の次男だった。

済州島から、仕事を求めて単身日本へやってきた父親は、非常に働き者で土方として毎日汗水流して働いていたが、脳梗塞を発症し、寝たきり生活を余儀なくされる。

その為、家計は母親が内職などで稼がねばならず、一家は非常に貧しい生活を余儀なくされていた。

貧乏人の朝鮮人。

それだけで近所のワルガキたちからいじめの標的になるのは必然だった。

だが、元来の気性の激しさで幼いころから、朝鮮人とバカにしてくる近所のワルガキ達相手に1人で喧嘩をふっかけ連戦連勝。

小学生時代は、地元のガキ大将をタイマンで圧倒し、チョーチュー時代には、地元の高校生の番長とのタイマンも制し、中学生で既に三河島一帯のシマは、キムジュンキのモノになっていた。


そんな気性の激しさと喧嘩強さを持っていた中学生時代のキムジュンキは、近所の神社で格闘技の練習をしていた年上の大学生と出会う。

その大学生は、明治大学の日本拳法部に所属しており、地元でもそこそこ有名な男であった。

普段のキムなら即喧嘩を売っていただろうが、何故かこの大学生とは気が合った。

その大学生も、自分のやっている格闘技に興味津々のキムに嬉しくなったのか、優しく接した。

この時から神社でキムに日本拳法を教えるようになる。

子供の頃から喧嘩で培った独特の感もあり、格闘技の才もあったのか、呑み込みが早く、日本拳法の技術をどんどん吸収していった。

大学生田中清彦との日本拳法ルールでの組手では、最初田中に圧倒され、ほとんど何もできなかったキムだったが、1か月もしたら明治大学で副主将も務める田中とそこそこやりあえるようになるまで成長した。

田中清彦はキムの才能に驚いた。

そこで、地元の日本拳法の道場に来ないかとキムを誘った。

金がなかったキムは一度断ったが、田中の熱心な誘いに根負けし、見学だけという事で道場へ行くことになった。

地元の日本拳法での道場に入ったキムは、最初は見学していただけだったが、高校生、大学生、社会人たちによる組手を見ているうちにそこに参加したくなってきていた。

それを見逃さなかった田中は、貸していた日本拳法のグローブと防具を着て組手に参加しないかと誘った。

誘われたキムは、仕方ないなという体で組手に参加した。

最初に相手は高校生でありながら黒帯の岸本。

身長170cm前半のキムと同等の背をした相手だった。

(朝鮮人が日本拳法できるのか?)

内心見下していた岸本だったが、組手が始まるや否やその考えを改めざるを得なかった。

ボコボコにしてやろうと向かった岸本は、キムへ顔面への右ストレートを放った。

そのストレートをキムは避けようとせずそのまま顔で受ける。

岸本は手ごたえありと思ったのも一瞬で、打撃にも一切動じないキムの強靭な肉体に岸本は戦慄した。

岸本はその一瞬の気おくれが仇となり、キムの右ストレートを顔面にもらい2メートル近く吹っ飛んでしまった。

岸本は立ち上がることができず、完全に戦意喪失していた。

それを見た田中は、一本とキムに言った。


その後も大学生、社会人と組手をしていったが、誰もキムを倒すことができず。

逆にキムに圧倒される事態が起こっていた。


結果は、キムの圧勝でそのまま稽古は終了した。


道場の帰り道、田中はキムに言った。


「どうだ?日本拳法はおもしろいだろ?」

「そうっすね。おもしろいっす」


少し照れながらキムは言った。

続けて田中は言った。


「お前なら日本一になる事も夢じゃない。どうだ?日本拳法を本格的にやってみないか?」

「そうっすね・・・・・・。これからも道場通っていいっすか?お金はちゃんと払うんで」


キムは、格闘技でメシを食っていくのも悪くないんじゃないか?と思い始めていた。


「金の事なら気にするな!払えるときに払ってくれればいい!」


キムが乗り気になってくれたので嬉しくなった田中は笑った。

キムもつられて笑った。


中学生時代のキムは、日本拳法の道場に真面目に通い始め、異例の速さ、1年で初段を免状された。


だが1960年代から、国士館はじめ、日本人学校の不良たちによる朝鮮学校への襲撃、暴行が相次いだ事により、世相は朝鮮中学に通っていたキムを、日本拳法だけに集中させる事を許してはくれなかった。


墨田区にある東京朝鮮第五初中級学校に通い、チョーチュー3年に進級したキムは、チョーチュ生たちと共に、毎日近隣の中学校と激しい抗争を繰り広げていた。


近隣の中学への集団でのカチコミ、乱闘。

乱闘の場所は、空き地、荒川、街中、駅前、学校前、路地裏と場所も時間も所構わずだった。


同胞のチョーチュー生が襲われれば助けに行き。

他校の番長とのタイマン。

近隣の喫茶店、ゲーセンなどのナワバリへの巡回も怠らなかった。


説明が遅れたが、チョーチュー生たちは、全員ヘアースタイルは、丸刈りの坊主で統一されていた。

近隣の日本人中学生の不良たちはもちろん一般生徒も、その坊主姿を見ると、震えあがり蜘蛛の子を散らす様に逃げていった。


数多の喧嘩の中で、キムは格闘技が如何に喧嘩に応用できるかを肌身で感じていた。

柔道部出身の不良とタイマンしたことで、柔道の利点を知ったキムは、チョーチュー柔道部に足を運ぶようになり、高校1年時に二段を免除される。

伝統派空手部主将とのタイマンでは、伝統派空手のスピードに翻弄された経験から、チョーチュー空手部(拳道会)に入部。部員と激しい組手で力をつけ、一年で初段を免状された。

ボクシングジムに通う、日本人高校生の不良との決闘では、ボクシングのフットワークやコンビネーションを体感し、チョーコー一年時にチョーコーボクシング部に入部、チョーコー三年時にプロボクシングライセンスを取得した。


チョーチュー時代、そういう生活を毎日送っていたキムは、日本拳法の道場だけに定期的に通う事はできずにいた。

時々顔を出し、組手で道場生を圧倒するキムだったが。真面目に通う、他の道場生とは折り合いが悪かったが、組手で誰もキムに勝てなかったので、誰も文句を言えず、溝だけが深まっていった。

田中清彦は、そんな状況を見て寂しさを感じていた。


(真面目に通えば日本一だって可能なのに・・・・・・)


田中は、キムの背中を見ながらそう思っていた。


1971年、喧嘩三昧の日々を送ってきたキムも、ついにチョーコーに進学。

恐怖のサンペンの一員になった。


チョーコーでの授業終わりに、空手部、ボクシング部、柔道部などに顔を出し、そこの猛者と毎日激しいスパーリングの日々を送り、部活後は、仲間と都内にでかけ日本人の不良たちとの喧嘩に明け暮れた。


ちなみに、チョーコーではボクシング部や空手部は人気だったが、柔道は不人気であった。

男同士が汗だくでくっつきあうのがホモ臭いという理由もあったが、チョーコー生は学校を一歩出たら、敵だらけという生活を送っていたため、喧嘩にすぐに強くなるのは必須条件だった。

なので、即効性のあるボクシングや空手に比べ、喧嘩に強くなるのに時間がかかる柔道はチョーコー生たちから人気がなかった。


そんなチョーコー生活を送るうち、いつしか日本人の不良たちからこう恐れられるようになる。


チョーコーの金三兄弟、三河島のキム・・・・・・・と。



現代に戻る。

1973年 4月29日 夕方 新宿駅


国士館高校、大学の連合軍は、新宿駅をチョーコー生襲撃の最重要拠点と位置づけ、サカン連合軍の精鋭部隊20名を配置。それぞれ、短刀、木刀、金属バット、鉄パイプなどを用意し、朝鮮人どもを早く狩りたいと今か今かとウズウズしながら待機していた。


チョーコー生もその動きを察知、チョーコーの精鋭部隊20名で新宿駅に向かった・・・・・・。

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