第2話 何処かわからない場所の誰かに

 後で知ったのだけれど、低体温症の初期症状に、判断力が損なわれるとか、思考がぼんやりするなんてのがあるそうだ。

 きっとこの時の私も、そんな症状が出ていたのだろう。

 勿論それは、全てが終わった後に思ったことだけれど。


 あの時までは凍死に対して、眠るように死ねるというイメージがあった。

 しかし実際は、そんな安楽なものではないようだ。

 腕とか足とかが激痛寸前に痛いし、意識しても止められない震えが時々やってくる。

 突如激しい頭痛がするなんてのもあるし、もうサンドバッグ状態。


 でも何かをしようという気にはならなかった。

 何というか、何もしたくないし出来なかった。

 時間潰しでスマホを見る気力も無かった。

 もう疲れたから、休みたかった。


 ネロ少年の場合はパトラッシュが迎えに来て、天国へと旅だったらしい。

 ただ無神論者の私に、迎えに来る存在があるとは思えない。

 でも消えてゼロになるのなら、マイナスを生き続けるよりましだろう。

 そう思っていた。


 我慢するのには慣れている。

 だからこのサンドバッグ状態も、楽になるまでは耐えよう。

 そして……


 この辺りで、私の現実の記憶は途切れている。

 後から聞いた話をまとめると、この後はこんな流れだったようだ。


 ① 駅の近所に住んでいる人が、電車も来ないのに待合室に人がいるようだと110番。

 ② 警察が私を発見して救急車を呼び、病院へ搬送

 ③ 警察が母へ電話したが、まともに話が通じなかった為、私の持ち物を更に確認して父の電話番号を発見して電話

 ④ 父がとんできて、入院の手続きその他をして

 ⑤ そして退院して現在に至る


 ただこの辺りの記憶は、私自身はっきりしない。

 元々二倍速で作られているダイジェスト動画を、更に二倍速で見たようなあいまいさ。

 現実感が無くて私自身の記憶という感じではなかったりする。


 この後、私がはっきり自分自身の記憶として認識出来るのは、退院して父の住むマンションに到着した時、二輪車置き場に私のスクーターが置かれているのを見た時から。


「これって」


「ああ、駅から乗って持って来た」


 父のその言葉で、やっと自分が自分で、あの時駅で凍死しかけて入院し、戻ってきたのだと認識出来た。

 その後は父のマンションから学校に通って、親権者変更調停の申立てをして、バイトは減らして今に至る。


 あの存在が告げたように、私の運命は好転した。

 父との暮らしはまだ微妙にぎこちない。

 それでもあの、母がいる家に帰る時のような辛さはない。

 

 親権者変更は母が抵抗しているから、まだまだ時間がかかりそうだ。

 学校に母がタクシーで乗り込んできて、私を出せ、タクシー代を払え、家に帰れなんてやらかしたなんて事案もあった。


 それでも取り敢えず、私の生活は大分ましになった。

 休日の鬼バイトが無くなっただけでも、身体的に楽だ。


 学校生活も、なんやかんやいってそう変わらない状態で、今に至っている。

 スクーターなら、此処のマンションからでも学校までは10分かわらない距離だし。


 ◇◇◇


 凍死しかけてからスクーターを見るまでの間の現実の記憶は、今もって自分のものでないような気がする。

 ただしこの間の記憶の全てがそうじゃない。

 実は、現実とは思えないけれどはっきりとした記憶が残っている。


 その時、私は白い世界にいた。

 床も空も周囲も真っ白な、床と私しかない世界。

 

 これがいわゆる、死後の世界という奴だろうか。

 いわゆる地獄とか天国、もしくは輪廻転生、はたまた異世界転生。

 そんな類いは存在しないと、私は信じていたのだけれど。


『ところでそういった世界は、存在するとも、しないとも言える。面倒臭い話になるけれど』


 そんな声、いや音ではないから意思、あるいはテレパシーとか意思伝達のような何かが、私の意識に届いてきた。


 周囲には誰もいないけれど、この言葉の主は誰なのだろう。

 私の思考が見えているようだけれど。

 神とか悪魔とか天使とか、集合無意識とか自分自身とか、色々それっぽい存在は思いつく。しかし、どれも現実的だとは思えない。


『どれでもそう間違いじゃない。それにどれかと決めたところで、あまり意味はないだろう』


 どうだろう。たとえば閻魔大王なんてのが本当にいたら、この先天国へ行くのか地獄へ行くのかが決まる。

 それならそれで、意味は大いにあると思う。


『此処はそういった分岐路じゃない。単なる休憩場所みたいな感じかな、状況的に』


 休憩場所というと、思い出すのが私が最後にいた駅の待合室。

 暖房が無いから凍死しかけて、というか既に凍死しているのかもしれないけれど。


『そうなる事を望んでいたのかもしれないけれどさ。今はまだ、君は死なない。もう少しすれば、向こうでの意識が戻る』


 ならまた、あの帰りたくない家に帰らなければならないのか。


『いや、此処で少し、君にとっての運命は好転する。だから心配しないでいい。少なくともここ数年よりはましになる』


 どう好転するというのだろう。

 母と私の、あの行き詰まったあの家が。


『その辺は後のお楽しみ。

 さて、戻る前に一つ忠告。確かに君は回りと比べて生き辛い環境にある。でも実は君自身が思っているような、全く行き詰まったという状態じゃ無い。それはきっと今回の件でわかる筈だ。

 だから今後もし行き詰まったと思ったら、その時は落ち着いて周囲をよく見て状況を確認して欲しい。本当に行き詰まっている場合なんて、実はそれほど多くない。何処かしらに活路があるけれど、気づけていないだけだ』


 そうかもしれない。ただ私は、何度も失敗してしまった。

 今回凍死しかけたのだって、私自身の判断ミスだ。


 さっさと家に帰っていればそれで済んだ。


 カラオケボックスでも、途中で天候を確かめていれば雪が積もり始める前に移動出来た。


 カラオケボックスを出た時、電車が動いているか確認すれば良かった。そうすれば帰れない事がわかって、結愛の家にお世話になるという選択肢を考えた筈だ。

 

『まあそうだけれど、判断ミスなんて、あるときは結構ある。だからよほど深刻なものでない限り、そこまで自分を追い詰める事はない。此処は戦場じゃなくて、現代の日本なのだから。

 あと自分1人で全部解決しようと思わないでいい。どうしようもない時は、素直に誰かに頼っていいんだ。そして実際、君の回りは、母親以外はそんなに酷いのはいないだろう。まあその母親が大きな問題なのだけれど』


 言われてみれば確かにそうだ。私の問題のほぼ全ては、母親のせいだから。


『だから今回のまとめ。もし行き詰まったと思ったら、その時は落ち着いて周囲をよく見て状況を確認する。そしてどうしようもない時は、人に頼っていい。以上』


 その言葉とともに、世界が薄れはじめた。

 元々白くて何もない場所だったけれど、その白いという事すら認識しにくくなっていく。

 ちょっと待って欲しい。


『いや、此処でこうやって君と話が出来るという事は、イレギュラーな事態なんだ。だから時間的にこれで限界。ただ、今言ったことは忘れないで欲しい。お節介かもしれないけれど……』


 最後の方は、言葉として認識出来る限界。

 結局この存在は何者で、何の目的で出てきたのだろう。

 運命が好転するというのは、どうなる事なんだろう。

 答がないまま、そんな疑問を浮かべた意識すら薄れていって……


 ◇◇◇


 時々、寒さを感じると考えてしまうのだ。

 あの時私に話しかけたのは、何者だったのだろうかと。


 低体温で臨死しかけた際、混乱する脳が現実の出来事と混ぜて作り出した夢。

 現実的な落としどころとしては、そんなものだろう。


 それでも私は思うのだ。

 もしああいう存在が実在していて、そして私を見守っていてくれるのなら。もしくはそう、私が信じられるのなら。

 私はきっと、この先はもっと強くしぶとく生きていけるだろうと。


 実際に見守ってくれるのは、父とか友人とか、110番してくれた駅近くに住む誰かとか、駆けつけた警察とかそんな誰か。


 それはわかっているのだけれど、それでも。


※ 「もう疲れたよ、パトラッシュ」

『フランダースの犬』には、こんな台詞はありません。単なるネットミームです。

 実際にアニメで流れた台詞は、次の通りとなります。

「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだか、とても眠いんだ」 

 

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パトラッシュは迎えに来ない 於田縫紀 @otanuki

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