邪淫の果て

K

第1話

 わたしがその男を発見した時にはもうすでに歩く事すらままならない体で、酷く瘦せ衰えていた。そのるい痩たるや惨いもので、全身の脂肪が残らず霧散しているどころか、筋肉さえも涸れはてて、骨と皮だけの有り様だった。もはや布団の中で横たわる事しか出来ず、土気色をした顔色と灰に濁ったその眼球からは明らかに死相が滲み出ていた。

 元々、ここには盗みに入るために忍び込んだだけで、まさかこんな病身の男がいると露程にも思わなかったので、わたしを困惑させた。このまま逃げ出しても構わないし、男の看病をするふりをしてそこらへんを漁るのもいい。どちらにせよ、このまま男を見殺しにすると寝覚めが悪い。わたしはただの盗人風情だが、苦しむ人を気にかけるだけの情ぐらい残っている。

 わたしが思い切って男に声をかけるみると、「許してくれ……」とうめくように呟くばかりで、こちらをはっきりと認識していない様子。布団の脇に湯呑と急須、そして薬が置いてあったので、わたしは男にそれを飲ましてやった。

「ありがとう……」

 男はようやくわたしに気付いたようで、息も絶え絶えに感謝をしていた。

 わたしは「気にするな。同じ貧乏長屋どうし、困った時はお互い様だろう」と答えたが、内心で面倒な長屋に盗みに入ってしまったと後悔していた。金目の物も目に見える範囲にはどこにもない。

「しかしお前、一体どうしたんだ? 女房は一体どうしたんだ?」

 わたしが聞くと、男は眼球だけを足元に向けて「そこにいる」とだけ言った。そして、またうめくように「許してくれ……」と繰り返すのだった。

 この長屋にはわたしと男だけで、こいつは幻覚を見ているのだろうと思った。わたしがここにいた所で出来る事は少ない。このままこの場から立ち去るべきなのだろうが、ここまで来てしまってはどうにもほっとけない。ならば、医者でも呼んで来てやろうとした時、男が一冊の本を指さした。

 わたしがその本を手に取ると、男はまた「許してくれ……」とうめくように言った。見てみると、どうやらこの本は男の書いた日記のようだった。最初の日付はつい二週間程前で、最近書かれはじめたようだった。

 わたしは日記を読みながら驚愕した。この日記には男がどうしてこのような事態になったのかが書かれていた。


 日記によると男は近くの漁村の漁師だったようで、かねてより疑っていた女房の不貞を暴いてやろうと漁に出たふりをして近くで張っていたらしい。不貞を働くなら自分が漁に出ている時だろうから、その現場を抑えるつもりだったようだ。しばらく待っていると、長屋から鈴の音が三回聞こえた。これはおそらく合図だろうと思い、男は生唾を飲み込み、息を殺しながら待ち構えた。すると、もう一つ鈴の音が聞こえた。それも三回。誰かの足音が聞こえる。足音の主は長屋の中に入っていく。長屋の中から女房の蜜のように甘い声と、どこかで聞いた事のある人物の声。不貞の相手は男の弟だったのだ。やがて二つの声は獣の咆哮のような薄汚い声を出しはじめ、男はついに長屋に乗り込んだ。怒りに我を忘れたのか、最初からそうするつもりだったのかはこの日記からそこまで読み解けないが、男は二人を殺してしまうと、長屋の床板をはがして、そこに二人の遺体を埋めたらしい。

 男の体に異変が起きはじめたのそれから三日後の事だった。

 男の漁師仲間からこんな事を言われたらしい。

「おい、その太ももの痣どうしたんだ?」

 言われて太ももを確認すると、確かに太ももの内側に痣が二つある。別に転倒した記憶などなく、あえて言うならつい先日の事しか心当たりはない。男は努めて冷静に「転んだだけだよ。すぐに消えるさ」と答えた。

 最初はそう思っていたらしい。すぐに消えると。

 しかし、二つの痣は消える事なく、大きくなっていく。痣が大きくなっていくにしたがって、体の倦怠と疲労を感じるようになってきた。寝ても疲れが取れず、力がうまく入らない。少し歩いただけで息が上がるようになった。

 歩く事にすら支障きたすようになってはじめて、男はこの痣の正体を知った。

 それは人面瘡だったのだ!

 最初は顔のような何かだったが、日が経つにつれその人面瘡は男が殺した女房と弟の顔そのものになっていった。苦痛と憎悪に歪む二つの人面瘡は男から精気を奪い取り、男が寝ている時には呪詛のような恨み節を吐き散らかし、少しずつ死を呼び寄せていた。慌てた男は漁師仲間に頼んで貝母――これを人面瘡に飲ませると効果があるらしい――を手に入れたが、その時にはもう遅く、一人で薬を飲む事さえ出来なかった。もし仮にまだ微かに気力が残っていても、これ程弱っていては人面瘡に貝母を飲ます事も出来なかっただろう。そして、今に至るのだ。


 わたしは男の布団をはぎ取り、彼の太ももを確認すると、確かに、そこには苦痛と憎悪に歪んだ人面瘡が二つあった。それは邪気のような悪臭を放ちながら、声にならない音で呪詛を喚き散らかしているように思えた。

「待っていろ! 今、助けてやるからな!」

 わたしが急いで貝母を手に取り人面瘡の口に流し込もうとした時、人面瘡は満足げな表情を浮かべながら、はっきりと聞き取れる声でケラケラと笑い出した。

 まさかと思い男の方に向き直ると、男は息途絶えていた。人面瘡も蒸発するように消えてなくなっていく。

 これも因果応報なのだろうとわたしは思った。彼らは悪道に落ちたがために、罰を受けたのだと。

 わたしは男が長屋の下に埋めたという遺体を掘り起こすと、彼ら三人を丁重に埋葬した。

 わたしにもいつか罰が下るのかと思うと、亡くなった母がつい恋しくなってしまった。


                   【了】

 

 


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邪淫の果て K @mono077

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