海の月は

雁字あくた

第1話 人の只中に

 今の僕はどうやってできたのだろうと、ソファーでページを捲りながら考える。

その本曰く、「幼稚園で友達を泣かせてしまった」とか、「一時期サッカーをやっていたが、試合でシュートを打つ機会がなかったのでやめた」だとか、自分を構成してきた要素としてはあまり好ましくないことばかりが描かれていたけれど、失敗は成功の元とも言う。今では友達を大切に思うし、取り組むべきことだって最後までやり、みんなから信頼を勝ち取れた。そういう自分になってよかったと、めでたしめでたしだと、本を閉じて満足感に浸る。

けれど本の裏表紙に、掠れた文字でまだなにか描いてあった。


「囲まれるのが、あなたの幸せ?」


 桜は既にそのベールをクローゼットの奥深くにしまっていた。今年も随分経ったので、もうハネムーンは終わったのだろう。緑達が、ここ原潟高校の入口の先に広がる並木道で生活している。夏の匂いが潮風と共に廊下の窓へ吹き抜いていた。

 「あんまり緊張しないでいいのよ。大丈夫みんな歓迎してくれるからー!」

平気で人の悪口を言うおばさんのような口調で僕を励ます担任の顔は、二十代の様相だった。僕の背中を軽く叩く動作がその違和感をさらに際立たせている。

「はい、頑張ります」

小声で言うと同時に扉を開けた。視界左に広がる彼等の顔を一瞥しながら教卓の前に立った。担任は扉前で腕を組んで笑顔のまま此方を見ている。気持ち悪かった。

 「東京から来ました、篠部羽久です。よろしくお願いします」

少しもじった定型文を読み上げると、淡い拍手が散った。どうやらクラスメイトたちは僕を値踏みしているみたいだ。けれどその態度は其々違って面白い。

笑顔で拍手しながらも無機質な目で此方を真っ直ぐ観ている女子。横柄に脚を絡めながら縦にゆっくりと手を叩く男子。怯えているのか、一音一音が小さい分手を叩く速度が速いどっちつかずのやつ。

 首を動かさずに視界の全てを観察するだけでも多種多様な人達が生きていると実感できる事は既に分かっている。しかしここは今までの学校と違い海に面しているという特徴があってか、生徒達はどこか赤外線を浴び慣れているような肌をして、それぞれ固有のエネルギーを持ちながらもその量は今までのどの学校よりも多いように感じた。無論、例外もいる。それも含めて「多様性」だ。

 僕は2号車の右側の後ろから二番目の席を指定された。元々空席らしく、教室の恥に追いやられているわけでもないのでこれは不登校生徒の席ではないかと勘繰った。しかしもしそうだとしたら、あの教師は不登校生徒の存在否定をしているようなもので、やはり僕の感じた嫌悪感は間違えじゃなかったとある種の安堵を覚えたが、その真意を確かめる事は僕には出来なかった。

 「突然質問なんだけどさ、あの窓の向こうに見えるでっかい木あるだろ?あれと東京のビル、どっちが高いんだ?教えてくれよ」

号車を挟んで右隣にいるやつが、こちらに少し身を乗り出しながら質問してきた。彼は実に常夏の太陽らしく、手前作法などいらないと言わんばかりに初対面の僕に対し直球で話しかけてくる姿は、少し恥ずかしかったけど、魅力的でもあった。

「流石にビルかな……でもあんなに立派な木は東京じゃ多分無いよ。見たことも聞いたこともない」

「クッソー1勝1敗か!もっと試合数増やして広島の方がスゲェってこと、絶対証明してやる」

彼は思い切り頭を掻きむしる動作をしながらも、何処か嬉しそうな表情をしていた。

「いいね、集客は僕がやっておくよ」

「いやお前絶対東京のやつしか連れてこねぇだろ」

乾いた笑いが微かに響いた。しかし侮蔑の類ではなく、“おっ、こいつ意外とやるかもな”という微かな期待を抱き始めたサインであった。

「名前なんていうの?」

「名乗るほどのもんじゃねぇ、酒田だ」

「謙遜してよ」

先ほどより少し湿った笑いが起きた。この調子だ。

「そういえば僕音楽が好きなんだ。特に歌うってことがすごい気持ちいいんだ。心の鬱憤も喜びも全てが声となって空気に散っていく感じでさ。分かる?」

「分かる。国歌とかマジで歌うたんびに感動するわ。特にこーけーのーって部分でさ」

「じゃあ日本代表、なんで毎回歌ってんのに涙出てないんだろ。もしやもしや非国民?」

「思想強い思想強い」

少しの変化球で多少戸惑いの色は見られたが、それが功を奏してさらに湿度は上がった。彼は立ち回りがとても上手くて好感が持てる。こうして僕は出来ていく。

 彼と話し終わると同時に、幾人の男女が此方に駆け寄って熱心に東京の話を聞いてきた。それに応えねばと思い、気候や人の雰囲気、都心の街並みのことを喋っていく中で彼等の顔は確実に喜びに満ちていった。純粋に嬉しいことだ。

 そして1時間目が始まった。学習進度の地域差は無いに等しいので、苦手な数学の授業もついていけない感覚はなかった。

「プリント配りまーす、後ろ回してください」

中年のラインに最近乗ったような男性教師がしゃがれた声で指示を出した。ああいうのは大抵のことは大目に見てくれるのだけど、なにか彼にとって絶対超えてはならないラインを超えた時に、何処までも激昂するタチだろう。

「あいつぁ面白いぜ。この間なんか昼休み中に投げられたボールが花壇の花を掠ったのを見て、その周りにいた全員巻き込んで大説教してたからな。あんなしゃがれ声で怒られちゃあ笑っちまうよ」

思考の隙間に酒田が上手く挟み込んできた。やはり大体の大人はつまらないらしい。

 そう話しているうちにプリントが来たので、後ろを見ずに回した。


…渡せた感覚がしなかった。余りにも紙が触れられた感触が無さすぎる。物凄く丁寧に手を添えなければこの様なことは起き得ない。妙な胸騒ぎがした。

思わず後ろを振り返ると、紙は確かに手へと渡せていた。しかしその腕をなぞる様に肩の方へ視点を移していくと、俯きがちな目元が見えた。

心臓が目覚めた。誇張しない二重で、羽毛の先端のような優雅さを持つまつ毛を持ちながら、それら全てを包み込む様な黒の瞳孔は、余りにも、綺麗だった。他の全てを忘れてしまった。

 彼女は本を読んでいて、此方のことなど気にかけてはいないのだろう。少し視線を此方によこして欲しかったけれど、彼女の絶対領域を踏み越えてはいけない気がしてすぐに前へ向いた。一瞬のことだった。けれど、僕は暫くプリントの切れ端から目を離せずにいた。

 彼女を、今の今まで気づけなかったのが悔しい。クラスメイトの中に、一人だけエネルギーとは無関係の所にいる彼女は、その姿を水面に反射させるだけで、本体は誰も知り得ない様に思えた。夏が遠ざかった。

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海の月は 雁字あくた @Hazewori

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