藤波

あじふらい

藤波

庭に藤の花の咲く、美しい屋敷でのことである。

案内されるがままに長い渡殿わたりどのを進むと、その先の御簾みすを上げたままの空間に、あどけなさの残る美しい少女がいた。


少女は、長い睫毛を伏せ、撫子なでしこかさねを合わせた唐衣からぎぬの上につややかな黒髪をなびかせながら、首を傾げている。

精巧な細工物のような彼女は、ゆっくりとその瞼を開くと、黒真珠のような瞳でこちらを見やり、まるで興味がないとでも言うかのように、視線をそらす。

世界から全ての音が消えたかのように、自らのまわりは静寂に包まれている。

ただ少女の周囲だけが鮮烈に色付いて、色だけでなく、音も、香りも、この世の全てが彼女のために存在しているように、彼女を中心として波打っている。


ああ、私はこの少女にこいねがう。

私のこの胸を焦がすような感情は、何であろうか。

ただ、かたわらで守らせて欲しい。

彼女が高貴な誰かと結ばれ、幸せな一生を送るその一時ひとときを、私が支えて差し上げたい。

ひざまずき、頭を垂れる。


武人として仕官するのが当然の家に生まれた。

父や祖父のように、兄や弟に負けないように、刀も弓も、まるで義務のようにその腕を磨いてきた。

同年代の中で秀でているのは当たり前で、その座から滑り落ちないようにするのも当たり前であった。

それ自体に不満があったわけではないが、どこかで自分の人生に対して諦めのような気持ちがあった。


水墨画のように色のない人生に、突然、色がついた。

目も眩むような色彩が、ここにはある。

裳着もぎも済ませていないこの少女を見て、仕えるべきあるじを確信した。

地位も、名誉も、中央での序列も、もう意味をなさない。

ただ、この少女のために生き、この少女のために死ぬのが自分の人生であると、今まで磨いてきた技や自らの命はこのためにあったのだと、納得した。


少女が身を運ぶ気配とともに、衣擦れと畳を擦る音が響く。

ざわり、と背後の藤が揺れる。


「あなた」


透き通った笛ののような凛とした声が静かに響く。

板張りの床が鳴く。


「いつまでそこでひざまずいているの」


風が通り抜けて、庭木がざわめいた。

垂れた頭を持ち上げ、目線を少女に向ければ、この世のものとは思えない美しさで、私にむけて微笑んでいる。

命を燃やそう、と思った。




――かくしてぞ 人は死ぬといふ 藤波ふじなみの ただ一目ひとめのみ 見し人ゆえに

(万葉集 十二巻 3075番歌 作者未詳)






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藤波 あじふらい @ajifu-katsuotataki

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