雨の檻
紫陽花 雨希
雨の檻
学園の女子寮は二人部屋で、私は一つ年下の女の子と同室だった。先輩が後輩と一緒に生活しながら、勉強だけでなく礼儀作法などの社会に出る上で必要なありとあらゆることを教え導くのが学園の習わしだ。けれど、私はその役目を上手く果たせていなかった。
璃乃は優秀な子だ。学業の成績はクラスの下から数えた方が早いけれど、それ以外のことは何でもできた。掃除をすれば老朽化した寮の部屋が生き生きと輝く。彼女の焼いたシュークリームは形も味もお店のものと遜色ない。縫製が悪いため外れやすい制服のボタンは全て自分できちんと付け直しているし、教科書には可愛いお花の刺繍をほどこした布カバーを付けている。
この国で女性に求められることは、全て完璧だった。
それに比べて、田舎の成金の娘である私は教養もないし、親に甘やかされて来たので家事も全くできない。先生たちには叱られてばかりで、時には激しい体罰を受けることもある。先輩や同級生だけでなく、後輩たちにすら下賤な田舎者のでくの坊と馬鹿にされる。部活でやっている短距離走だけは県内でもトップクラスであることが、彼女たちの神経をさらに逆撫でるらしい。
「璃乃はすごいね。尊敬する。私も君みたいになりたいよ」
日曜日の午後、ベッドの縁に腰掛けて窓から流れ込む温かな風を浴びながら、私たちは刺繍の練習をしていた。璃乃に教えてもらって様々な種類のステッチを試そうとしているが、針で何度も指先を刺しそうになるばかりでなかなか進まない。
璃乃は布から視線を上げ、微笑む。
「お姉さまは本当に、私になりたいんですか? こんな私に?」
穏やかな口調の中に不穏なものを感じ取って、私は少し顎を引いた。慎重に言葉を選ぶ。
「……きちんと生活できる人はすごいと思う」「そうですね。お姉さまがお嫁に行っても、すぐに追い出されると思います」
「まあ、結婚するつもりないから良いけど」
家業は既に兄が継いでおり、彼には息子もいる。私はドラ娘として独身で呑気に暮らすつもりだ。
「お姉さまは自由で良いですね」
璃乃には婚約者がいる。お相手とは一度しか会ったことがないらしい。学園を卒業したら家に入って、嫁として家族の裏方となって生きてゆくことが定められている。
「ごめん、璃乃。軽率な発言だった」
「お姉さまだって、辛いのは分かってますよ。学園、針のむしろですもんね。味方は私ぐらいでしょう?」
璃乃は再び視線を落とし、指先で玉結びを始める。
私は照れくさくて、つい
「別に、そんなこともないけどね」
と心にもないことを言った。ぷつん、と璃乃の手の中で糸が切れた。
深夜、ベッドの中で私は寝返りを打った。眠れない。心臓が激しくドクドクと打って気持ち悪い。
部屋の奥にあるトイレで、璃乃が激しく嘔吐している音が聞こえる。
あの日から、毎晩だ。私が軽率な発言をしてしまった日から。
彼女は多分、私に気付かれていることに気付いていない。日中は以前と何も変わらない態度で過ごしている。けれど、彼女の体調が明らかに悪化していることは、いつも一緒にいる私には分かった。
体が震える。胸を締め付けるこの感情は、一体何なのだろう。心配? 恐怖? あるいは罪悪感? 自分でもよく分からないまま、必死で嗚咽を噛み殺す。
気付いていることに気付かれてはいけないと思った。彼女が必死で隠そうとしているものを暴いてしまったら、きっと彼女はもっと壊れる。
顔に枕を押し付けたまま、ごめんなさい、と呟いた。
その日は、朝からさらさらと小雨が降っていた。どんよりと曇った灰色の空の下、私はベランダの柵の上に座らされていた。
「早く取ってよ、あんたが落として壁に引っ掛かっちゃったブローチ。ガラス製だから、下まで落ちたら粉々になっちゃうんだけど。あんたの親の店売っても弁償できない高級品だからね?」
先輩がそう言うと、周りの取り巻きたちが口々に悪態をついた。
私は空を仰いだ。シャワーみたいに優しく、生温かい雨粒が私の全身を撫でてゆく。こんな状況なのに、心は落ち着いていた。私は雨が好きだ。流れてゆく雨雲の、白い光と碧い陰のコントラストが美しい。まるで世界は私を祝福しているみたいだった。
ああ、やっと私は楽になれる。
つるり、と柵が滑った。
ふと、温かいなと思った。じっとりとした、体温みたいな温かさだった。しばらくぼんやりとそれを感じていたけれど、急に頭がはっきりとした。目を開ける。璃乃が、私を見下ろしていた。濡れてぐしゃくじゃになった顔を引き攣らせている。
あ、私、死ななかったのか。二階からだったし、打ち所が良かったのだろう。苦笑する。
「こんな状況なのに笑ってるって、お姉さまは本当に呑気ですね。多分、脚、複雑骨折してますよ」
「もう走れないね。良かった」
「は?」
「だって、嫉妬されなくて済むもん」
ぱしん、と頬を引っ叩かれた。
「ねえ、お姉さま。私にはあなたしかいないんです。お姉さまに私しかいないんじゃなくて」
「やっと気付いたのか」
いや、そんなことを私は知らなかったが、知ったかぶりして大人みたいに笑う。
いつの間にか土砂降りになった雨の中、私たちは口付けをした。
雨の檻 紫陽花 雨希 @6pp1e
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