妖精郷(フェアリーランド)
目を開くと、また夢の中。
いつもの夢と同じようだが、微妙に違っていた。
黒い森は同じだが、家族やかつての友人知人の顔をした怪物が出てこない。
代わりに耳慣れない声が頭上から降って来た。
「誰だおまえは」
鋭い響きの男の声。
視線をあげると森の上に一匹の竜が浮いていた。
蛇のような胴体に大きな翼、短い四肢を備えた真紅の蛇竜。
例の水底の死体を生前の姿に戻すと、ちょうどこれくらいになりそうだ。
父の顔をした怪物や、人の死体は出てくるが、竜がでてくるのは初めてだった。
どう反応すれば良いのかわからなかったが、夢の中である。難しく考えないことにした。
「二木撫子。貴方は?」
「見ての通りの赤い竜だ。特別な名前はない。どこから来た」
「わからない。森の中で道に迷って」
ここがどこかもわからない。
「迷う前は前はどこにいた?」
「箱根って説明でいい?」
どういう風に回答すればいいのか見当もつかないので地名を言ってみる。
「それは国の名前か?」
知らない地名だったようだ。
「国でいうと日本だけれど」
「日本なら知っている。なにをしに来た?」
「何をどう答えればいいかわからないんだけれど、どういう趣旨の質問なの?」
「おまえは今、オレの巣穴に落ちてきて死にかけている。呑気に夢を見ているようなので話を聞きに来てやった。なんのつもりで飛び込んできたのかと質問している。供物のつもりか?」
「間違って落ちただけ。大きな馬の怪物に追い回されて、道に迷って」
「その馬にヒレはあったか?」
「あったと思う」
「ケルピーか。このあたりじゃ一番剣呑な妖精だな」
「妖精?」
「妖精を知らんのか?」
「言葉としては知ってるけれど」
透明な羽のついた小人、程度のイメージしかない。
「このブリテン・アイルランド圏における人外の知的生物の総称だ。ケルピー、エルフ、ゴブリン、巨人、オレ達のような竜も全部妖精と呼ぶ。日本でいう妖怪変化の類もこちらでいうと妖精になる。ところでおまえ、生まれは何年だ?」
「二〇XX年」
「やはり異世界人か」
転生ファンタジーのような言葉が出てきた。
「異世界?」
「ああ、この
「霧に巻かれた覚えはあるけれど。ここは
「地域の名前はそうだな。星の名前でいうと地球、ブリテン・アイルランド島の中心地域だ」
「イギリスってこと?」
異世界と言っていたが、ブリテンとアイルランドという地名はあるらしい。
言語も英語のようだ。
「少し待て」
赤い竜は口から地面に向けて火を吹く。地面に広がった炎は、いわゆるグレートブリテン島とアイルランド島をくっつけたような輪郭を描きだした。
「これがブリテン・アイルランド島。国名で言うとこっちがイギリスでこっちがアイルランドだ」
大きな輪郭の左右、私も知っているグレートブリテン島とアイルランド島のあたりの炎が色を変え、それぞれ青と赤に塗りあげられる。真ん中に残った炎が、白く色を変える。
「この真ん中の白い部分が
私の記憶だと、グレートブリテン島とアイルランド島の間にはアイリッシュ海という海域があるはずだが、そこが陸地となり
夢ではなく、現実だとすると、イギリス風の異世界にやってきてしまったのだろうか。
地名や国名などは一致しているが、地理や物理法則、生態系などは、私の知るイギリスとは大分違っているようだ。
「私のことを異世界人と言ったけれど、わかるものなの?」
「雰囲気でな。それとおまえは、二〇〇〇年代以降の生まれだと言っただろう? この世界はまだ二十世紀が始まったばかりだ。生まれていないはずの年代の人間や、生きているはずのない年代の人間ならばそこで判断できる。
遠未来人が来ることもあるらしい。
「今年は一九〇〇年くらい?」
「そのくらいのはずだ」
私の知っているイギリスだとヴィクトリア朝時代の末期、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズがヒットしていた時代になる。
日本でいうと日英同盟や日露戦争あたりの時代だろうか。
「故郷へ戻りたいか?」
「……ええ」
私が戻らなければ、堀河家との婚約が潰れることになる。二木家の娘としての務め、ノブリス・オブリージュを果たすことができなくなる。
そうしたいか、と言われると微妙だが、そうしなければ、という意識はある。
強迫観念と言い換えたほうが正確かもしれないが。
「ならば、オレと取り引きをするつもりはないか? 確実に、とは言えんが、おまえを帰してやれそうなヤツには心当たりがある。そいつのことを教えてやる代わりに仕事を頼みたい」
「仕事?」
「現実世界でのオレは五〇年ほど前に死んでいてな。いわゆる幽霊というやつなんだが、実は死ぬ前に産んだ卵が穴の底に沈んでいる」
「メスだったの?」
落下中に死体を見ていたので幽霊までは納得できたが、卵のほうで困惑した。
一人称はオレで、聞こえる声も男のものだ。
「竜にはオスもメスもない。卵もひとりで産む」
無性、単為生殖型の生き物らしい。
「この卵だが、人間の魔術師にとっては宝物のひとつで、一部の妖精共にとっても上等な食い物になる。安全なところまで運んでいってくれる奴を探していた」
「安全なところって?」
「人間の都市のロンドンという街にチェシアという猫が住んでいる。そいつのところまでオレの卵を届けてもらいたい。その猫なら、おまえを元の世界に帰すことにも協力してくれるだろう」
「猫?」
「
話がメルヘンになってきた。
怪物馬や喋るトカゲや竜が出てきた時点で既にファンタジーではあるが。
「その猫って、まだいるの? 五十年会っていないんでしょう?」
「代替わりはしているかもしれんが問題はないだろう」
「断ったら?」
「なにもせんでおまえを放って置くだけだ。人間の体で抜け出せる穴じゃない。このまま水死する羽目になる」
「引き受けたら抜け出せる?」
「ああ、オレの死体に残っている血を使って、竜の眷族の力を与えてやる。そうすれば水の中でも息ができるようになる。水底の水路を通って近くの川に出られるはずだ」
選択肢はなさそうだ。
「わかった」
「契約成立だ。早速はじめるぞ」
赤い竜がそう告げると同時に、漆黒の空が白い光に塗りつぶされてゆく。
黒い森もまた光の中に消えていった。
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